第6章:傷を癒すその手の中で(前編)
昨夜のゼフィロス王子との試練、そしてルキの突然の嫉妬と、その後の抱擁を思い出し、私の顔は火照りっぱなしだった。
特に、ルキが私の顔を見て「僕の顔、見て。」と言った時の、あの真っ赤な顔が忘れられない。推しのあんな表情、まさか生で見られるなんて。
朝食のため大広間に向かう途中、ルキは私の隣を歩きながら、少し拗ねたような顔で頷いた。
「うん。兄さんたちにも“譲歩しろ”って言われたし……でも、覚えてて。誰と過ごしても、君の唇は僕のものだからね。誰にも、渡さない」
ルキはそう言って、私の頬にそっとキスをした。
「ちょ、ルキ!今ここ、大広間!王子たちもいるから!」
私は慌てて周囲を見渡す。幸い、まだ他の王子たちの姿は見えないけれど、いつ誰が見ているかわからない。
「関係ないよ。むしろ聞かせたほうが牽制になるし。ほのかは僕のものだって、ちゃんと示さないと」
さらりととんでもないことを言うルキ。その瞳は真剣で、どこか焦燥感に駆られているようにも見えた。
周囲の空気がピキッと凍ったのは、気のせいではなかった。どこからか、見えない兄たちの視線が突き刺さっているような気がした。
「……やれやれ。次は私だ。いつまでそこで戯れているつもりだ、ルキ」
場を割って入ったのは、柔らかな笑顔の王子。ルキの兄——第三王子・セレスだった。
セレス王子は、ふわりとした淡い金髪に、儚げな水色の瞳。手には白い手袋、身にまとうのは医師を思わせる白の法衣。
その佇まいは、まるで絵本から抜け出してきた王子様のようだ。その優雅な雰囲気に、ルキの牽制は全く効いていないように見えた。
「共鳴の試練、私の番だね。ルキ、君も少し落ち着きなさい。……どうか、君の痛みを、少しだけ分けてくれる?君の心を癒すことが、私の使命だ」
その声は、まるで春風みたいで、私の中にすっと染み込んできた。昨日のゼフィロス王子の言葉の羅列とは真逆の、じんわりと心を温める響き。
案内されたのは、宮殿の北塔——癒しの温室。緑の草と香るハーブ、淡く光る泉が流れる静かな空間だった。優しい光が差し込み、鳥のさえずりが微かに聞こえる。
ここは、まさに傷ついた心を癒すための場所だと、直感的に感じた。
セレス王子は私を座らせ、目線を合わせるように膝をついた。その視線は常に穏やかで、私を包み込むような温かさがあった。
「僕の試練は、“癒し”。だけどそれは、単に心地よくすることじゃないんだ。本当の癒しは、“傷に手を差し伸べること”だから。君の心の奥底に隠された痛みを見つけ出し、それを解き放つ手助けをしたい」
そう言って、彼はそっと私の手に触れた。一瞬、昨日のルキとのぬくもりを思い出して、心が揺れる。
だけどセレスの手は、違う温度だった。あたたかくて、でもどこか——切なかった。まるで、彼自身も深い傷を抱えているかのような、繊細な熱。
「……夢咲ほのか。君は誰かに、“全部預けたい”って思ったこと、ある?自分の弱さも、醜い部分も、何もかもを晒け出して、それでも受け止めてほしいと願ったことは?」
「え……?」
不意打ちの問いかけに、私は言葉を詰まらせた。
「自分の痛みも、弱さも、甘えも、なにもかも。何も言わずに、ただ受け止めてくれる誰かに——君は、本当に心を許せる相手を求めていなかったかい?」
その問いは、ズルかった。私の心の最も深い場所に、直接触れてくるかのようだった。
私は、昔のことを思い出していた。元婚約者に“都合のいい駒”のように扱われた日々。自分の意見を言うことも許されず、常に周囲の期待に応えることだけを強いられてきた。
ひとりで泣いて、笑って、傷ついて。それでも「誰かに頼ってはいけない」「弱みを見せてはいけない」と、自分自身に強く言い聞かせ、抱え込んできた自分。
「……あった、かもしれない。でも、言えなかった。迷惑になるって、思ってたから。誰にも、理解してもらえないって、諦めてた」
私の言葉は震えていた。今まで誰にも言えなかった、心の奥底に秘めていた弱さが、彼の前では自然と言葉になって溢れ出す。
「迷惑なんかじゃないよ。君の痛みをもらえるなら、それは“誇り”なんだ。君が笑うために、僕が“苦しみ”を受け取れるなら、何度だってそうしたいと思う。
君の涙を拭うためなら、どんなことでもする。それが、僕の望みだ」
その言葉は、危険なくらい甘く、心を溶かしてきた。まるで、私の中に閉じ込めていた感情のダムが決壊するかのようだった。
彼の言葉は、私を丸ごと肯定し、私が抱えてきた全ての痛みを、彼が代わりに背負ってくれると言っているようだった。