黒い人形と歪んだ鏡 前編
伊勢湾からの風が心地よく吹き抜ける、春の終わりの昼下がり。
リニューアルオープンしたばかりの海沿いの複合商業施設は、多くの観光客や地元の人々で賑わっていた。
その一角、特設ステージでは、地域活性化プロジェクトの成功を祝う記念式典が華やかに行われている。
菊池 明人(42歳)は、その賑わいを少し離れた場所から、苦々しい表情で眺めていた。
今日の彼は、イベント運営を請け負った会社から派遣された、ただの日雇いスタッフの一人に過ぎない。
本来なら、自分が脚光を浴びる側にいるはずだったのに。
ステージの中央で、満面の笑みで挨拶をしている恰幅の良い男性。
あれが、田中だ。
菊池の元上司であり、そして、彼の人生を狂わせたと菊池が信じて疑わない男。
数年前、大手商社で自分が心血を注いで進めていたプロジェクト。
それを土壇場で横取りし、失敗の責任を全て自分に押し付けて子会社に追いやり、そして今、そのプロジェクトを見事に成功させ、こうして脚光を浴びている。
(許せない。絶対に許せない)
込み上げてくる黒い憎悪に、菊池は奥歯をギリリと噛み締めた。
周りの人間が田中に送る賞賛の拍手や笑顔が、全て自分への当てつけのように感じられた。
スーツの隙間から覗く安物のシャツ、履き古した革靴。
それに比べて、田中はどうだ。
仕立ての良いスーツに身を包み、自信に満ち溢れた表情で、市の有力者らしき人物たちと談笑している。
(あのプロジェクトは、元々俺が……! あいつさえいなけりゃ、今頃、俺があの場所に立っていたはずなんだ……!)
やり場のない怒りと屈辱感が、腹の底でマグマのように煮えたぎる。
なぜ自分だけがこんな惨めな思いをしなければならないのか。
社会は不公平だ。
努力も才能も、結局は運とコネを持つ奴らに利用されるだけなのだ。
ふと、ステージ近くのカフェテラスに目をやると、若いカップルが楽しそうに笑い合っているのが見えた。
自分と同年代くらいの男女のグループも、何やら盛り上がっている。
ステージ脇では、真珠を使ったアクセサリーをつけた女性が、熱心にメモを取っていた。
彼らは皆、それぞれの時間を楽しんでいるように見える。
その光景が、菊池の荒んだ心には、さらに追い打ちをかけるように映った。
なぜ、他の奴らは簡単に幸せや成功を手に入れられるんだ?
俺だけが、こんなにも報われない……。
式典が終わり、田中が関係者たちに囲まれながらステージを降りてくる。
その誇らしげな顔を、菊池は憎悪に満ちた目で見つめていた。
(見てろよ、田中……絶対に、お前を引きずり下ろしてやる……どんな手を使ってでも……)
その歪んだ決意だけが、今の菊池を支える唯一の支柱だった。
彼は、誰にも気づかれることなく、そっとその場を離れ、再び伊勢の街の雑踏の中へと消えていった。
その背中は、行き場のない怒りと絶望で、小さく丸まっていた。
*****
イベント会場の華やかさから逃げ出すように、明人は、重い足取りで伊勢の街をさまよっていた。
派遣スタッフの仕事も、もうどうでもよくなって早々に切り上げてきた。
安っぽい居酒屋に飛び込み、焼酎をあおる。
アルコールの熱が、腹の底で燻る憎悪と混じり合い、どす黒い感情をさらに掻き立てた。
(田中め……! あの成功も、地位も、名誉も、本来なら俺のものだったんだ!)
グラスを乱暴にテーブルに叩きつける。
周りの客が訝しげな視線を向けたが、菊池は気にも留めなかった。
どうすれば、あいつを引きずり下ろせる?
どうすれば、あの得意満面の顔に泥を塗ってやれる?
そんな考えばかりが、アルコールで鈍った頭を支配していた。
店を出ると、外はすっかり日が落ちて、湿った夜風が吹いていた。
昼間の賑わいが嘘のように、観光客の姿はまばらになり、古い町並みは静寂に包まれている。
ぼんやりとした街灯の光が、濡れた石畳を照らしていた。
(何か、方法はないのか。あいつを不幸にする、特別な力が手に入るような……)
馬鹿げた考えだと分かっていても、そう願わずにはいられない。
自暴自棄になった心が、非現実的な救いを求めていた。
ふらふらと、当てもなく歩を進めるうちに、いつの間にか、おはらい町の喧騒からも離れた、人通りのない細い路地へと迷い込んでいた。
古い家々の間の、暗く狭い道。
どこか違う世界に迷い込んだような、奇妙な感覚。
そして、その突き当たりに、彼は、それを見つけた。
古びた鳥居。
その脇には「縁結神社」と刻まれた石柱。
「……縁結び? はっ、くだらねえ」
菊池は、思わず嘲笑の声を漏らした。
「今の俺に必要なのは、良縁じゃなくて、悪縁切りだよ。それも、とびっきりのな」
しかし、彼はその場を立ち去ろうとはしなかった。
この神社には、昼間の華やかなイベント会場や、騒々しい居酒屋とは全く違う、静かで、古く、そして何か得体の知れない力が潜んでいるような、異様な空気があったからだ。
(もしかしたら、ここは、普通の縁結びだけじゃないのかもしれないぞ……?)
歪んだ期待が、心の片隅で鎌首をもたげた。
悪縁を切る力、あるいは、憎い相手に不幸をもたらす力。
そんなものが、こんな寂れた場所にこそ、眠っているのではないか?
(どうせ、失うものなんてもう無いんだ)
菊池は、自嘲的な笑みを浮かべたまま、まるで悪魔に魂を売るかのように、ふらり、と鳥居の中へと足を踏み入れた。
神への敬意など微塵もない、ただ、自分のどす黒い欲望を満たすための「手段」を探すような、汚れた足取りで。
*****
鳥居をくぐっても、明人の心に敬虔な気持ちなど、ひとかけらも湧いてこなかった。
むしろ、値踏みするように、薄暗い境内をねめつけるように見回していた。
(思ったより、しょぼい神社だな。本当にご利益なんてあるのか?)
古びた社殿、小さな手水舎、申し訳程度の灯籠。
彼の目には、ただの時代遅れの、寂れた場所にしか映らない。
それでも、昼間の喧騒とは隔絶されたこの静寂と、肌を刺すような清浄な空気には、何か特別なものが潜んでいるような気配も確かに感じられた。
(まあいい。利用できるものなら、何だって利用してやる)
彼が社殿に向かって数歩、足を踏み出した時だった。
「――その澱みきった気を纏って、神域に足を踏み入れるとは。感心できませぬな」
声は、社殿の深い影の中から聞こえた。
驚いてそちらを見ると、いつの間にか、白い装束の人物が音もなく立っていた。
肩には、闇の中でもわかるほど美しい尾長鶏が止まっている。
灯籠の淡い光が、その人物――常世の、人間離れした美しい横顔を照らし出していた。
菊池は一瞬、その神秘的な佇まいに息をのんだが、すぐに尊大な態度を取り戻した。
「……あんたがここの主か? 見かけによらず、随分と偉そうな口をきくじゃないか。俺がどんな気でいようと、あんたには関係ないだろう」
「いいえ、関係ありますよ」常世は静かに首を横に振った。
「ここは『縁』を結ぶ場所。あなたの内にある、そのどす黒い澱は、良からぬ縁を引き寄せかねない」
その凪いだ瞳は、菊池の心の奥底にある憎悪の色を、正確に映し出しているかのようだった。
「……ふん。見てくれだけは良いが、胡散臭い奴だ」菊池は吐き捨てるように言った。
「どうせ、悩みを聞いて、高価な壺でも売りつけようって算段だろう?」
その挑発的な言葉にも、常世は表情一つ変えなかった。
肩の上の尾長鶏が、侮蔑するように「ケッ」と鳴いた気がした。
「あなたがお求めなのは、『縁結び』ではないようだ。むしろ……特定の人間への『縁切り』、あるいは、もっと言えば『呪詛』に近いもの、とお見受けしますが?」
「!?」
核心を突かれ、菊池の顔色が変わった。
なぜわかる?
この男、まさか人の心が読めるのか?
「……だったら、どうだと言うんだ」開き直ったように、菊池は言った。
「世の中にはな、不幸になって当然の人間がいるんだよ! 俺の人生をめちゃくちゃにした、あの男……! あいつさえいなければ、俺は今頃……!」
抑えていた憎しみが、堰を切ったように溢れ出す。
元上司・田中への恨み言、自分の不遇への嘆き、社会への不満。
汚い言葉が、次から次へと口をついて出た。
静かな神社の境内に、彼の荒んだ声だけが響き渡る。
常世は、その全てを、ただ黙って聞いていた。
非難も、同情もせず、まるで嵐が過ぎるのを待つ岩のように。
肩の尾長鶏は、嫌悪感を隠そうともせず、そっぽを向いて羽の中に顔を埋めている。
やがて、菊池が言い募って息を切らした頃、常世は静かに口を開いた。
「……なるほど。あなたの魂は、深い憎しみと渇望に囚われておられるようだ」
そして、常世は、わずかに目を伏せ、こう続けた。
「その澱みを晴らす『縁』、結んでみますか? ただし……その先に何が待つかは、あなたの行い次第ですが」
その言葉は、悪魔の囁きのように、菊池の荒んだ心に甘く響いた。
「……試すだと? いいだろう、やってやるよ」
明人は、常世の言葉を、まるで挑発のように受け取った。
失うものなど何もない。
もし、この胡散臭い神職が言うように、憎い田中に一矢報いることができるのなら、どんなことでもしてやる、という歪んだ決意が、彼の目を鈍く光らせた。
「結構です」常世は静かに頷くと、「ならば、あなたのその深い『澱み』を晴らすための縁を結びましょう」と言い、再び社務所の中へと姿を消した。
尾長鶏は、常世の肩から飛び降りると、少し離れた灯籠の上にとまり、じっと菊池を見下ろしている。
その黒い瞳は、非難しているかのようにも、あるいは単に観察しているかのようにも見えた。
すぐに常世は戻ってきた。
その手には、桐箱ではなく、一枚の黒い和紙を丁寧に畳んだようなものが載せられていた。
「こちらを」
常世が差し出したのは、人の形を模した、極めてシンプルな黒い紙の人形だった。
目も鼻も口もない、ただ黒いシルエット。
しかし、手に取ると、ひやりとした冷たさと、妙な重みを感じた。
そして、どこか言いようのない不吉な気配が漂っている。
「それには、古より人の念を受け、形を成してきたものが僅かに宿っております」
常世は静かに説明した。
「その人形に、あなたが『澱み』を感じる相手の名を記しなさい。そして、その相手に起こってほしい『ささやかなる不運』を、強く念じるのです。そうすれば、あなたの願いは、ささやかな形で叶えられるでしょう」
(呪いか)
菊池の口元に、歪んだ笑みが浮かんだ。
やはり、自分の勘は当たっていた。
ここは普通の神社ではない。
「面白いじゃないか。で、いくらだ? それなりの代物なんだろう?」
菊池は、下卑た笑みを浮かべて尋ねた。
「対価は、あなた様の真の心。お賽銭にてお納めください」
常世は、感情を読み取らせない表情で答えた。
「ただし、この力を借りるには、三つの約束事を違えてはなりませぬ」
常世の声が、夜の静寂の中で低く響いた。
「一。人形に願うは、一日につき一回、一つの小さな不運のみ。決して欲張ってはなりませぬ」
「二。相手の命や健康を、直接脅かすような願いは決してしてはなりませぬ。それは禁忌です」
「三。この人形のこと、そしてこの神社のことを、決して他人に悟られてはなりませぬ」
そして、常世は、氷のように冷たい視線で菊池を見据え、警告した。
「……呪詛は、扱いを誤れば容易く己に還りますぞ。その力に呑まれぬよう、ゆめゆめご注意なされよ」
(脅しか。くだらん)
菊池は、常世の警告を鼻で笑った。
一日一回の小さな不運?
まどろっこしい。
だが、まずはこれで試してやる。
効果があるなら、いくらでもやりようはあるだろう。
「わかった、わかった。約束だろ? 守ってやるよ」
彼は、適当に返事をすると、ポケットを探り、じゃらじゃらと音を立てて小銭を取り出した。
そして、それをまるで投げ捨てるかのように、賽銭箱へと放り込んだ。
百円にも満たないだろう、わずかな金額だった。
常世は、やはりその金額には何の反応も示さなかった。
「確かに、お預かりいたしました」
常世は言うと、菊池が持つ黒い人形に、すっと指先で触れた。
その瞬間、人形が微かに震え、冷たさを増したように感じられた。
「さあ、お行きなさい。その縁が、あなたの澱みを晴らすか、あるいは、さらなる闇へと引きずり込むか。それは、ただあなた次第」
常世の静かな声に見送られ、菊池は黒い人形をポケットにねじ込むと、満足げな、しかしどこか不気味な笑みを浮かべて、神社の鳥居をくぐった。
雨上がりの湿った夜気が、彼の周りにまとわりつくようだった。
灯籠の上で、尾長鶏が、忌々しげに一声、低く鳴いた。
*****
東京のアパートに戻っても、明人の心は、伊勢の夜に憑かれたままだった。
あの縁結神社の異様な空気、常世と名乗る神職の冷たい瞳、そしてポケットの中で微かな存在感を放つ、黒い和紙の人形。
あれは現実だったのか?
それとも、酒と絶望が見せた悪夢だったのか?
(試してみるしかない、か)
週末が明け、月曜日。
菊池は、派遣先の仕事を終えて帰宅すると、薄暗い部屋の中で、意を決してあの黒い人形を取り出した。
ひやりとした感触が、指先に不快に伝わる。
本当にこんなものに、人を不幸にする力があるというのだろうか。
半信半疑。
しかし、心のどこかでは、期待していた。
あの憎い田中に、ささやかな復讐ができるかもしれない、と。
菊池は、引き出しから油性ペンを取り出すと、震える手で、人形の胸の部分に「田中 正秋」と、元上司の名前を書き込んだ。
黒い紙に、黒いインク。
文字はほとんど見えなかったが、確かに記した。
そして、常世に言われた通り、人形を両手で挟み、目を閉じて、強く念じた。
(田中が……明日の午前中の、あの重要な役員会議で……大事な資料をごっそり忘れて、恥をかけ……!)
「一日一回、一つの小さな不運のみ」という約束事。
まあ、資料を忘れるくらいなら「小さな不運」だろう。
菊池は自分に言い聞かせた。
念じている間、人形がわずかに温かくなったような気がしたが、気のせいかもしれない。
彼は、念じ終えた人形を、机の引き出しの奥にしまい込んだ。
翌日、菊池は落ち着かなかった。
派遣の仕事中も、休憩時間になると何度もスマホを取り出し、田中の会社の情報や、共通の知人のSNSなどをチェックしてしまう。
何か、田中にトラブルがあったという情報はないか、と。
(やっぱり、ただの紙人形か。あんな神社の言うこと、信じた俺が馬鹿だった……)
夕方になっても、それらしい情報は何も見つからず、菊池が諦めかけた、その時だった。
たまたま開いたビジネス系ニュースサイトの片隅に、田中の会社に関する小さな記事が載っているのを見つけた。
新プロジェクトに関する、ごくありふれた内容の記事。
しかし、その記事に付随していた匿名コメント欄に、菊池の目を釘付けにする書き込みがあった。
『今日の役員会議、田中部長、肝心の資料忘れて大目玉くらったらしいぞw エリートも形無しだなwww』
「……!」
菊池は、思わず息をのんだ。
本当に?
まさか。
偶然かもしれない。
でも……。
彼は、さらに情報を探した。
いくつかの匿名掲示板や、元同僚と思しき人物のSNSの裏アカウントを漁ると、やはり同様の内容の書き込みが散見された。
「部長、今日なんかヤバかった」「資料なしで乗り切ろうとしてたけど、グダグダだった」……。
(やった……やったぞ!)
確信した瞬間、菊池の全身を、背徳的な、しかし抗いがたい、歪んだ快感が駆け巡った。
あの人形の力は、本物だ!
自分の憎しみが、確かに田中を打ちのめしたのだ!
菊池は、一人、薄暗い部屋で、にやりと口角を吊り上げた。
その目は、獲物を見つけた肉食獣のように、ギラギラと不気味な光を放っていた。
(はは……ははは! これで終わりだと思うなよ、田中……! これからだ。これから、お前が築き上げてきたもの全てを、俺がこの手で、めちゃくちゃにしてやる……!)
常世の警告も、約束事の重みも、もう彼の頭からは消え去っていた。
手に入れたばかりの「力」への興奮と、復讐への期待だけが、彼の心を支配していた。