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8/20

偽りの喝采、真実の音 後編

 周年イベントのライブ当日まで、あと一週間。

 あの日、ゆうじに「やる」と宣言して以来、渉は人が変わったように音楽に没頭していた。

 というよりも、何かに憑かれたように、ギターを弾き、歌詞を書き殴り、声を嗄らして歌い続けた。


(鍛錬を怠るな……か)


 縁結神社で常世に言われた約束事の三つ目が、頭の片隅で響いていた。

 あのピックの力に頼るとしても、最低限の努力はしなければ、神様の機嫌を損ねるかもしれない。

 あるいは、これはただの悪あがきなのかもしれない。

 どちらにしても、今の渉にできることは、ただひたすらに音と向き合うことだけだった。


 深夜バイトから帰ると、眠い目をこすりながらギターを手に取る。

 指の皮が硬くなり、また柔らかくなって破れる。

 そんなことを繰り返しながら、来る日も来る日もフレーズを練習し、新しい曲の断片を作っては消した。

 アパートの壁は薄いが、今は隣人の苦情など気にする余裕もなかった。


 しかし、皮肉なことに、練習すればするほど、渉は自分の才能の限界を改めて思い知らされていた。

 頭の中で鳴っている理想の音と、実際に指先から、喉から紡ぎ出される音との間には、絶望的なまでの距離があった。


(やっぱり、俺にはこれしかないのか……?)


 焦りと絶望が、波のように押し寄せる。

 そんな時、渉はポケットの中の、あの古い貝殻のピックにそっと触れた。

 ひんやりとした感触。

 でも、その奥に秘められた、計り知れない力を思うと、胸が高鳴った。


(これを使えば、俺は変われる。あのステージで、全てをひっくり返せるんだ……!)


 期待と興奮が、絶望感を一時的に吹き飛ばす。

 そうだ、あと少しの辛抱だ。

 あのライブで、一度きりの奇跡を起こせば、きっと道は開ける。

 バンドも、俺の人生も。


 バンドの練習スタジオにも、久しぶりに三人が顔を揃えた。

 ゆうじもてつも、渉の鬼気迫るような様子に戸惑いながらも、どこか最後の祭りに参加するような、複雑な表情でそれぞれの楽器に向かっている。


「渉、なんか、昔みたいだな」


 練習の合間に、ゆうじがぽつりと言った。

 高校時代、ただがむしゃらに音楽に打ち込んでいた頃の渉を思い出したのかもしれない。


「……うるせえよ」


 渉はぶっきらぼうに返したが、その言葉は少しだけ、彼の心を揺さぶった。


 スタジオで合わせる音は、以前よりはまとまりが出てきたかもしれない。

 渉の必死さが、他の二人にも伝播しているようだった。

 しかし、渉自身は、その音に満足できなかった。

 足りない。

 何かが決定的に足りない。

 あのピックがなければ、この程度の音しか出せないのだ、と。


 ライブ当日が近づくにつれて、渉の期待と不安は、シーソーのように激しく揺れ動いた。

 ピックの力への期待。

 一度きりという制限への恐怖。

 そして、その力を使った後の自分がどうなってしまうのか、という未知への畏れ。


 彼は、輝かしい未来への扉を開けようとしているのか、それとも、パンドラの箱を開けようとしているのか。

 その答えは、運命のライブの夜に明らかになるはずだった。


 *****


 ライブハウスの楽屋は、煙草の匂いと、独特の湿った熱気が充満していた。

 出番を待つ間、渉は、壁に背をもたせ、目を閉じていた。

 心臓が、肋骨を突き破るのではないかと思うほど激しく脈打っている。

 隣では、ゆうじが黙々とベースの弦を確かめ、てつはスティックを指の間で回していた。

 三人とも、口数は少ない。

 これが、本当に最後のステージになるかもしれない。

 そんな覚悟と、諦めと、そしてほんの少しの期待が入り混じった、重苦しい空気が漂っていた。


「……Syo、そろそろ時間だ」


 スタッフの声に、渉ははっと顔を上げた。

 ゆうじとてつが、無言で立ち上がる。

 渉も、ゆっくりと立ち上がり、震える手でジーンズのポケットを探った。

 指先に、あの滑らかな、そしてどこか冷たい貝殻の感触。


(一度きり……)


 彼は、その虹色に輝くピックを、強く、強く、握りしめた。

 これが最後の賭けだ。

 神様でも、悪魔でも、今は何でもいい。

 俺に、力を貸してくれ。


 ステージへと続く薄暗い通路を歩く。

 フロアから聞こえてくる、まばらな客の声と、前のバンドが残した残響。

 渉は、深く息を吸い込んだ。


 ステージに上がり、定位置につく。

 スポットライトが眩しい。

 客席は、やはり満員とは言い難い。

 それでも、以前よりは人が入っているように見えた。

 中には、昔からの顔なじみのファンもいる。

 彼らの期待とも不安ともつかない視線が、渉に突き刺さった。


 メンバーと無言でアイコンタクトを交わす。

 そして、渉は、右手に握りしめた貝殻のピックで、愛用のテレキャスターの弦を掻き鳴らした。


 ――その瞬間、空気が変わった。


 ジャラーン!

 と響いた最初のコードからして、もう違った。

 渉自身が一番驚いていた。

 まるでギターが意志を持ったかのように、豊かに、深く、そして力強く鳴っている。

 指が、これまで届かなかったはずのフレーズを、いとも簡単に、滑らかに紡ぎ出していく。


(……なんだ、これ……!?)


 戸惑う暇もなく、歌い始めた。

 声が、違う。

 いつもの、どこか自信なさげで、高音になると掠れてしまう自分の声ではない。

 艶やかで、伸びやかで、聴く者の心を直接掴むような、圧倒的な声量と表現力。

 歌詞の一つ一つが、まるで言霊のように、会場に響き渡っていく。


 メンバーも、渉の豹変ぶりに目を丸くしながらも、その音に引きずられるように、必死で食らいついていく。

 ドラムは正確なビートを刻み、ベースはうねるようなグルーヴを生み出す。

 バンド全体の音が、奇跡的な化学反応を起こし、一つの巨大なエネルギーの塊となって、フロアに叩きつけられた。


 最初は戸惑っていた客席も、一曲目が終わる頃には、完全にその音の世界に引き込まれていた。

 二曲目、三曲目と進むにつれて、会場のボルテージはみるみる上がっていく。

 手拍子が起こり、拳が突き上げられ、歓声が飛ぶ。


 渉は、音楽と一体になる、という感覚を、生まれて初めて味わっていた。

 ギターソロでは、指が勝手に動き、誰も聴いたことのないような、情熱的で美しいメロディを奏でた。

 シャウトすれば、魂の叫びがそのまま音になり、バラードを歌えば、会場の誰もが涙ぐんでいるのが見えた。


(すごい……これが、俺の本当の力なのか……!?)


 酔いしれるような高揚感と、自分が神にでもなったかのような全能感。

 けれど、その熱狂の中心にいながら、渉の心のどこか冷静な部分が囁いていた。


(違う、これは俺の力じゃない。このピックの力だ……)


 最後の曲。

 渉は、全ての感情を叩きつけるように歌い、ギターを掻き鳴らした。

 演奏が終わった瞬間、一瞬の静寂の後、割れんばかりの拍手と歓声が、ライブハウス全体を揺るがした。

 アンコールを求める声が、鳴りやまない。


 ステージ袖に引き上げても、メンバーは興奮冷めやらぬ様子で渉に駆け寄ってきた。


「渉! すげえよ! 今日の、何なんだよ!?」

「マジで神がかってたぜ!」


 ゆうじもてつも、目を輝かせてまくし立てる。


 その時、フロアの隅で、ライブハウスの店長や、明らかに業界人らしきスーツ姿の男女が、熱心に何かを話し込んでいるのが、渉の目に入った。


(やった……のか? これで、俺たちは……)


 しかし、熱狂と賞賛の渦の中で、渉は、右手に握りしめた貝殻のピックを見つめていた。

 それは、ライブの熱気を受けてか、以前よりもさらに妖しく、強く輝いているように見えた。

 そして、その輝きが、なぜかひどく空虚なものに感じられた。


 *****


 あの神がかったライブの夜から、世界は一変したように見えた。


 渉たち「ラストランプ」のライブ映像は、誰かがスマホで撮ったものがSNSで拡散され、「謎の天才バンド出現」「Syoのギターソロがヤバすぎる」と、ちょっとしたバズを巻き起こしていた。

 ライブハウスには問い合わせが殺到し、いくつかの音楽レーベルや事務所の関係者から、立て続けに「一度話を聞かせてほしい」という連絡が入った。


「やったな、渉! 俺たちの時代が来たんだよ!」

「マジで信じられない! あの時の演奏、自分でも鳥肌立ったもん!」


 ゆうじもてつも、手のひらを返したようにバンド継続に前向きになり、興奮気味に渉を称賛した。

 解散寸前だったバンドに、突如としてメジャーデビューへの道筋が見えてきたのだ。

 彼らは口々に、次のライブのこと、曲作りのこと、そして夢のような未来のことを語り合った。


 しかし、その熱狂の中心にいるはずの渉の心は、奇妙なほど冷え切っていた。


 関係者との打ち合わせの席。

「あの独創的なギターフレーズはどうやって生まれたんですか?」「Syoさんの声には特別な魅力がありますね」「今後の楽曲も期待していますよ」。

 向けられる賞賛の言葉が、どれも白々しく、自分のことを言われている気がしなかった。

 愛想笑いを浮かべながらも、内心では冷や汗が止まらない。


(違う、あれは俺じゃない……俺の音じゃないんだ……)


 約束事の第一、「このピックで得た評価を、おのが真の実力と偽ってはなりませぬ」。

 その言葉が、頭の中で重く響く。

 周りの期待が高まれば高まるほど、その嘘は大きくなっていく。

 いつか、この化けの皮が剥がれてしまうのではないかという恐怖。


 アパートに帰れば、メンバーからの「新曲まだ?」という催促のLINE。

 関係者からは次のライブへの期待。

 しかし、渉はギターを手に取る気にもなれなかった。

 あのピックを使わなければ、もう凡庸な音しか出せないことを、自分が一番よく知っているからだ。

 かといって、あの力に再び頼ることも恐ろしかった。

「一度きり」という約束事。

 そして、あの、自分のコントロールを超えたような演奏の感覚。

 あれは本当に、自分が望んでいたものだったのだろうか?


 眠れない夜が続いた。

 酒を飲んでも気は紛れない。

 成功の果実はすぐ目の前にあるはずなのに、心は以前よりもずっと重く、孤独だった。


 そんなある日、渉のもとに、一通のダイレクトメッセージが届いた。

 それは、高校時代からずっと、客が数人しかいないようなライブにも必ず足を運んでくれていた、数少ないファンの一人からだった。


『Syoさん、先日のライブ、拝見しました。会場の熱気、すごかったです! 正直、あんなSyoさんの演奏は初めて聴きました。でも……もし、気を悪くされたらごめんなさい。なんだか、いつものSyoさんの音じゃなかった気がして……。私は、昔の、不器用だけど、魂がこもってたSyoさんのギターも、声も、大好きでした。また、あの音も聴きたいです』


 その、飾り気のない、けれど誠実な言葉は、渉の心の最も柔らかい部分を、強く、深く、打ち抜いた。


(……そうだよな)


 自分が本当に届けたかったのは、神がかったテクニックや、熱狂的な喝采だったのだろうか?

 違うはずだ。

 不器用でも、荒削りでも、自分の魂を込めた音。

 それを聴いてくれる人が、たとえ一人でもいるのなら……。


 渉は、ポケットの中で、あの貝殻のピックを握りしめた。

 虹色の輝きは、今はただ、重く、冷たく感じられた。

 この偽りの輝きにしがみつき続けるのか、それとも……。


 決断の時が、迫っていた。


 *****


 ファンからの、あの真っ直ぐなメッセージは、渉の心に重く、そして深く突き刺さった。


『私は、昔の、不器用だけど、魂がこもってたSyoさんのギターも、声も、大好きでした』


 魂がこもった音。

 そうだ、俺が最初に目指していたのは、それだったはずだ。

 テクニックがなくても、売れなくても、自分の魂を削って、それを音に乗せて届けたい。

 ただ、それだけだったはずなのに。

 いつから俺は、周りの評価や成功ばかりを追い求めるようになってしまったんだろう。


 渉は、アパートの床に座り込み、壁に立てかけてあった古いギターを手に取った。

 高校時代、バイト代を貯めて初めて買った、傷だらけの相棒。

 ピックは使わず、指でそっと弦を爪弾く。

 ポロロン、と鳴った音は、あまりにも頼りなく、そして、正直なほどに不器用だった。

 あのライブで奏でた、神がかった音とは似ても似つかない。


(これが、今の俺の音なんだ……)


 現実を突きつけられ、また胸が苦しくなる。

 けれど、同時に、不思議な安堵感もあった。

 偽りの音ではない、等身大の自分の音。

 下手くそでも、これこそが紛れもない「高橋渉」の音なのだ。


 引き出しの奥から、さらに古いカセットテープを取り出した。

 バンドを結成して間もない頃、公民館の片隅で録音したデモテープだ。

 ラジカセに入れて再生すると、ノイズ混じりの、若くて、青臭くて、けれど恐ろしいほどの熱量を持った自分たちの演奏が流れ出した。

 技術は拙いが、そこには確かに「魂」があった。

 未来を信じ、音楽を愛する心が、音になって溢れ出ていた。


(……俺は、何をやってるんだろう)


 涙が、ぽろぽろと零れ落ちた。

 あの頃の純粋な情熱を、自分はどこかに置き忘れてきてしまった。

 成功という幻影に目を眩ませ、一番大切なものを見失っていた。


 伊勢の神社の光景が蘇る。

 常世の静かな瞳。


『このピックで得た評価を、おのが真の実力と偽ってはなりませぬ』

『力を頼れるのは、ただ一度きりの舞台のみ』

『音楽への感謝と、日々の鍛錬を怠ってはなりませぬ』


 あの約束事は、単なるルールではなかった。

 それは、音楽に対する、そして自分自身に対する、誠実さの問いかけだったのだ。

 俺は、その問いかけに、全く誠実に向き合えていなかった。


 弁財天様は、音楽の神様だ。

 きっと、偽りの音や、音楽への不誠実な態度を、誰よりもお嫌いになるだろう。

 あのピックの力は、俺にチャンスを与えるためのものであって、俺を甘やかすためのものではなかったのだ。


(俺は、もう一度、自分の音で勝負したい)


 気づけば、渉はそう心の中で呟いていた。

 それは、衝動的な感情ではなかった。

 深い苦悩と後悔の末にたどり着いた、静かで、しかし揺るぎない決意だった。


 あの貝殻のピックは、もう使わない。

 たとえ、それで手に入れかけた成功や、バンドの未来を失うことになったとしても。

 たとえ、またみじめな思いをすることになったとしても。

 自分の音楽に、嘘はつけない。


 渉は、カセットテープの再生を止め、窓の外を見た。

 夏の終わりの、少しだけ物悲しい風が吹いていた。


(これでいいんだ)


 心の中の霧が、ゆっくりと晴れていくような気がした。

 進むべき道は、険しく、光が差しているわけではないかもしれない。

 けれど、それは確かに、自分の足で歩くべき道なのだと思えた。


 渉は、立ち上がり、ポケットからあの貝殻のピックを取り出した。

 虹色の輝きは、もう彼を惑わさない。

 彼は、そのピックを、いつか伊勢に返しに行こう、と心に決めた。

 そして、ギターケースを開け、自分の古いギターを、愛おしむように手に取った。


 *****


 それから、季節が一つ巡った秋の夜。

 渉は、都心から少し離れた、小さなライブバーのステージに立っていた。

 以前出演していたような、少しでも業界人の目に留まることを意識した場所ではない。

 ここは、ただ純粋に音楽が好きな人たちが集まる、手作りの温かみのある店だった。


 結局、あの後、バンドは解散した。

 メンバーとは、最後にもう一度だけ話し合い、それぞれの道を進むことを決めた。

 メジャーデビューの話も、渉があの「神がかった」演奏を再現できないとわかると、すぐに立ち消えになった。

 世間の注目も、熱狂も、まるで蜃気楼のように消え去った。


 失ったものは大きい。

 けれど、渉の心は不思議なほど穏やかだった。


 彼は、あの日以来、一度もあの貝殻のピックを使っていない。

 引き出しの奥にしまい込んだまま、開けることもなかった。

 代わりに、彼は自分の古いギターと、傷だらけの普通のピックで、ただひたすらに音と向き合った。


 今夜も、ステージには渉一人だけだ。

 アコースティックギターを抱え、マイクの前に立つ。

 客席は十数人ほどで埋まっている。

 派手な照明も、大音量のサウンドシステムもない。

 けれど、客席から向けられる視線は、真剣で、温かい。


 客席の隅には、真珠のブローチをつけた落ち着いた雰囲気の女性が、静かにグラスを傾けていた。

 どこかで見かけたような気がしたが、渉は思い出せなかった。


 渉は、ゆっくりと息を吸い込み、最初のコードを爪弾いた。

 ポロロン、と鳴った音は、やはり不器用で、荒削りだ。

 声も、あの夜のような神がかった響きはない。

 高音は少し苦しそうで、リズムも時折よれる。


 けれど、その音には、嘘がなかった。

 彼の魂が、喜びも、悲しみも、挫折も、そして、それでも捨てきれない音楽への愛も、全てを正直に曝け出すように、確かに響いていた。

 それは、誰かを圧倒するためでも、賞賛を浴びるためでもない。

 ただ、自分の内側から溢れ出る、等身大の「真実(まこと)の音」。


 新曲だろうか、以前とは少し違う、シンプルなメロディと言葉が紡がれていく。

 それは、成功を夢見ていた頃のような派手さはないけれど、聴く者の心の柔らかな部分に、そっと触れるような、優しさと、そしてほんの少しの強さを秘めているように感じられた。


 客たちは、静かに、しかし真剣に、渉の音楽に耳を傾けている。

 中には、小さくリズムを取る人、目を閉じて聴き入る人、そして、そっと涙を拭う人もいる。


 渉は、歌いながら、ギターを弾きながら、確かに感じていた。

 自分の音が、たとえ小さくても、誰かの心に届いていることを。

 そして、それこそが、自分が本当に求めていたものなのかもしれない、と。


 大きな成功ではないかもしれない。

 けれど、彼は自分の足で立ち、自分の声で歌い、自分の音を奏でている。

 迷いを振り切った彼の表情は、苦悩から解放され、どこか清々しく、穏やかだった。


 曲が終わり、温かい拍手が、小さなライブバーを満たした。

 渉は、少し照れたように微笑むと、深く、深く、頭を下げた。


 *****


 秋の夜長、虫の音が心地よく響く縁結神社の境内。

 月明かりが、古びた社殿と、静かに佇む常世の白い装束を柔らかく照らしていた。


 常世の手のひらには、あの虹色に輝いていたはずの、古い貝殻のギターピックが載せられていた。

 しかし今、その輝きはほとんど失われ、まるで役目を終えたかのように、ただ静かにそこにあるだけだった。

 渉が返しに来たのか、あるいは力が尽きて常世のもとへ戻ったのか、それは定ではない。


「……弁財天様は、偽りの喝采よりも、拙くともまことを好まれる」


 常世は、ピックを月光にかざしながら、独り言のように呟いた。


「一度きりの御力(みちから)で掴みかけた栄光を手放し、己の音と向き合う道を選んだか。茨の道やもしれぬが、それもまた、彼が結んだ(えにし)の形であろう」


 肩の上で、尾長鶏が小さく頷くように「コゥ……」と鳴いた。

(まあ、道は開けたのでは? それで十分でしょう)とでも言うように。


「そうだな」


 常世は微かに笑みを浮かべた。


「才能や成功だけが、人の世の輝きではない。不器用でも、遠回りでも、己の真実を奏で続けるならば、その音は、いつか誰かの心に届こう」


 常世は、輝きを失ったピックを、そっと懐にしまった。


「さて、あの男の魂の響きは、これからどこへ届くかのう」


 その声は、秋の夜の澄んだ空気の中に、静かに溶けていった。

 月明かりの下、縁結神社は変わらず静かに佇み、また新たな(えにし)を待っている。

 迷える魂が、自らの真実と出会うための、ささやかな(えにし)を。

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