虚(うつろ)な『いいね』 後編
前後編まちがって投稿してしまったので両方公開します。
こっちが後編です。
伊勢から戻った莉奈は、半信半疑ながらも、あの古風な手鏡のスマホチャームを自分のスマホに取り付けた。
そして、旅行中に撮りためた写真の中から、「これはまあまあかな」と思うものを数枚選び、少しキャプションを盛って投稿してみた。
(ま、気休めだよね……)
そう思っていた莉奈の予想は、良い意味で、しかし劇的に裏切られた。
投稿して数分もしないうちに、スマホの通知が鳴りやまなくなったのだ。
ピコン! ピコン! ピコン!
普段は数えるほどしかつかない「いいね」が、みるみるうちに増えていく。
コメント欄には「めっちゃ可愛い!」「どこですか?」「莉奈ちゃん、センス良すぎ!」といった賞賛の声が溢れかえった。
フォロワー数も、見たことのない勢いで増えていく。
「うそ……なにこれ……!?」
莉奈は、スマホを持つ手が震えるのを抑えられなかった。
これが、あのチャームの力……?
試しに、大学のカフェで撮った何気ないラテアートの写真や、自分の少し加工した自撮りを上げてみると、やはり同じように、爆発的な反応があった。
(すごい! すごすぎる! これさえあれば、私、本当に人気者になれる!)
莉奈は、完全に有頂天になった。
授業中もスマホを手放せず、こっそり通知をチェックしては、増え続ける「いいね」の数に顔を綻ばせた。
現実の友人との会話もそこそこに、SNS上のフォロワーからのコメントに返信することに夢中になった。
「莉奈、最近なんか雰囲気変わったね。スマホばっか見てるし」
以前一緒に伊勢に行ったミキにそう言われても、「えー、そうかな? ちょっと忙しくてさー」と適当にはぐらかすだけ。
もはや、ミキのフォロワー数など、気にもならなくなっていた。
自分はもう、彼女たちとは違うステージにいるのだ、と。
数週間もすると、莉奈のアカウントは、ちょっとした人気インフルエンサーと呼べるほどの規模になっていた。
ファッションブランドやコスメブランドから、PR案件の依頼がDMで届くようにもなった。
提供された商品を身につけ、「#PR」と付けつつも、あたかも自分で購入したかのように紹介する。
もちろん、それらの投稿も大いにバズった。
(楽勝じゃん! ちょっと写真撮って上げるだけで、お金まで貰えるなんて!)
莉奈は、すっかり自分が特別な存在になったかのように錯覚し始めていた。
大学の授業にはあまり身が入らず、代わりに、常にSNSで「映える」ネタを探し、どうすればもっと注目を集められるかということばかり考えるようになった。
服装や持ち物も、PRで提供されたブランド品や、少し無理して買った高級品で固めるようになっていく。
もちろん、常世から言い渡された約束事は、頭の片隅には残っていた。
けれど、「真実を投稿する」なんて、SNSの世界では馬鹿正直すぎる。
「他人を傷つけない」? 多少の煽りや皮肉は、バズるためのスパイスだ。
それに、私を妬んでるアンチを言い負かすのは当然の権利でしょ? 莉奈は、自分に都合よくルールを解釈し、あるいは完全に無視するようになっていた。
チャームの手鏡が、時折、黒いシミのようなもので曇って見えることがあったが、莉奈は「スマホの画面が汚れてるだけ」と気にも留めなかった。
現実の友人たちが、少しずつ自分から距離を置いていることにも、気づかないふりをした。
SNS上の賞賛と「いいね」の数だけが、彼女にとっての真実であり、世界の全てになりつつあった。
「私、もっと有名になれる。もっと上に行ける」
スマホの画面に映る、加工され、演出された「完璧な私」。
その虚像をうっとりと眺めながら、莉奈は、自分が危うい道を突き進んでいることに、まだ気づいていなかった。
*****
夏本番。
じっとりとした熱気がまとわりつく東京で、莉奈は、まさに飛ぶ鳥を落とす勢いだった。
あの伊勢の神社で手に入れた手鏡のスマホチャーム――彼女はそれを「幸運の鏡」と勝手に名付けていた――のおかげで、SNSアカウントのフォロワー数は瞬く間に数十万を超え、ちょっとした有名人気取りだ。
「マジ莉奈しか勝たん!」
「今日のコーデも最高すぎ!」
「どこのカフェですか?真似したい!」
鳴りやまない通知、賞賛のコメント。
それが、莉奈の乾いた自尊心を満たす、何よりの栄養源だった。
大学の授業なんて、もうどうでもいい。
単位を落とそうが、友人たちから「最近付き合い悪いね」と呆れられようが、関係なかった。
SNSの世界でチヤホヤされる自分こそが、本当の自分なのだから。
企業からのPR案件もひっきりなしに舞い込み、学生でありながら、そこそかの収入も得られるようになっていた。
そのお金は、さらに「映える」ためのブランド品や、高級ホテルのアフタヌーンティー、流行りのコスメへと消えていく。
もちろん、それらも全て、完璧に演出された写真と共にSNSに投稿された。
常世から言い渡された約束事など、もう莉奈の頭の中には欠片も残っていなかった。
「真実を投稿すること」? 馬鹿らしい。
SNSなんて、どれだけ「盛れる」かの勝負だ。
行っていない海外リゾートの写真をフリー素材と合成して「弾丸トリップ中!」と投稿したり、借り物の高級外車を「彼氏からのプレゼント」と匂わせたり。
フォロワーが喜び、羨望の眼差しを向けてくれるなら、どんな嘘だって厭わなかった。
「他人を傷つけないこと」? それこそ甘っちょろい考えだ。
注目を集めるためには、多少の毒や刺激が必要なのだ。
莉奈は、自分より人気のインフルエンサーの投稿をわざと皮肉ってみたり、匿名のサブアカウントを使ってライバルになりそうな子の悪評を流したりもした。
アンチコメントに対しては、「僻み乙」「鏡見てから出直してこい」などと過激な言葉で反撃し、それを面白がるファンも増えていった。
炎上すれすれの綱渡りが、スリルと更なる注目をもたらした。
もちろん、危うさを感じなかったわけではない。
スマホチャームについている古びた手鏡は、以前にも増して頻繁に、黒い靄がかかったように曇って見えるようになった。
時折、鏡の中に映る自分の顔が、一瞬だけ、醜く歪んで見えることもあった。
スマホ自体も、異常に熱を持ったり、バッテリーの減りが異常に早くなったりしていた。
そして、誰もいないはずの部屋で、スマホから「キーン」という不快な金属音が聞こえるような気もした。
(気のせい、気のせい! スマホが古いだけ!)
莉奈は、そんな不吉な予兆を、見ないふり、聞こえないふりをした。
手に入れた人気と注目を失うことの方が、よほど恐ろしかったのだ。
「私は特別。選ばれた人間なのよ」
深夜、薄暗い部屋で、スマホの画面に映る、加工され尽くした自分の顔と、賞賛のコメントを眺めながら、莉奈は恍惚とした表情で呟いた。
現実の友人関係も、大学の成績も、貯金残高も、何もかもどうでもいい。
このSNSの世界で輝いていさえすれば。
彼女は、破滅へと続く甘い下り坂を、猛スピードで駆け下りていることに、まだ気づいていなかった。
あるいは、気づいていても、もう止まることができなくなっていたのかもしれない。
伊勢の神社の静かな警告も、常世の冷ややかな瞳も、尾長鶏の呆れたような鳴き声も、もう彼女の耳には届かなかった。
*****
夏も盛りを過ぎた、蒸し暑い夜だった。
莉奈は、クーラーの効いた自室のベッドの上で、いつものようにスマホの画面を眺めていた。
フォロワー数は目標だった50万人をついに突破し、コメント欄は相変わらず賞賛の声で溢れている。
企業からのPR案件も単価が上がり、少し贅沢な暮らしにも慣れてきた。
(やっぱり私は特別。選ばれた人間なんだ)
その万能感は、もはや揺るぎないものになっていた。
縁結神社のこと、常世の顔、そして二つの約束事など、もう思い出すことすらなかった。
あの手鏡のチャームは、今や彼女の成功の象徴であり、当然の権利のように感じられた。
「みんな、もっとすごい私が見たいんでしょ?」
莉奈は、歪んだ承認欲求を満たすため、そして他のインフルエンサーたちとの差を見せつけるため、さらに大胆な「演出」に手を染めることにした。
最近ドラマで人気の若手俳優・K。
彼と偶然カフェで隣り合わせたように見せかけた写真を、意味深なコメントと共に投稿したのだ。
『もしかして、運命のはじまり……? なんちゃって(笑) #シークレット #特別な時間』
もちろん、完全な嘘だった。
写真は、技術のある友人に頼んで巧妙に合成してもらったものだ。
でも、それでいい。
これでまた「いいね」とフォロワーが増えるなら。
莉奈の予想通り、その投稿は瞬く間に拡散され、大バズりした。
「え、Kと!?」「マジで付き合ってるの?」「莉奈ちゃんすごい!」
コメント欄は騒然となり、ネットニュースのゴシップ欄にも取り上げられた。
莉奈は、その炎上寸前の注目度に、危険な快感を覚えていた。
しかし、その快感は長くは続かなかった。
あまりの反響の大きさに、俳優Kの所属事務所が正式に「事実無根」とのコメントを発表。
さらに、莉奈の投稿した写真が合成であることや、過去の投稿にも多くの嘘や加工、盗用疑惑があることを指摘する検証アカウントが次々と現れたのだ。
最初は「アンチの僻み」と強がっていた莉奈だったが、状況は急速に悪化していく。
『虚飾のインフルエンサー』
『嘘つき女』
『承認欲求モンスター』
SNSのトレンドには、莉奈を罵倒する言葉が並んだ。
コメント欄は非難と嘲笑の嵐に変わり、通知が鳴りやまない。
これまで賞賛の声を送っていたはずのフォロワーたちが、手のひらを返したように攻撃してくる。
「違う! 嘘じゃない! 私のこと、妬んでるだけでしょ!」
莉奈は必死に反論し、コメントを削除し、アカウントをブロックしようとした。
だが、あまりにも膨大な悪意の奔流に、なすすべもなかった。
パニックになりながら、莉奈は最後の望みを託して、スマホについた手鏡のチャームに念じた。
(お願い、助けて! この状況をなんとかして! もっと「いいね」を! 私を肯定する声を!)
しかし、チャームはうんともすんとも言わない。
それどころか、これまで時折見えていた鏡の曇りが、急速に黒く、深く広がっていくのが見えた。
「なんで……? どうして……!?」
莉奈がチャームを強く握りしめた、その時だった。
バキッ!!!
鈍い、嫌な音が響いた。
見ると、チャームの手鏡部分に、蜘蛛の巣のような亀裂が走り、次の瞬間、粉々に砕け散ったのだ。
そして、鏡があった部分は、まるで深い闇そのもののような、光を一切反射しない、不気味な黒色に変わっていた。
同時に、莉奈のスマホが異常な熱を持ち始め、画面が激しく点滅したかと思うと、プツン、と音を立てて真っ暗になった。
充電しようとしても、電源ボタンを長押ししても、うんともすんとも言わない。
完全に沈黙してしまった。
力を失ったスマホ。
砕け散ったチャーム。
そして、ネット上に溢れる自分への誹謗中傷。
「あ……あ……ぁ…………」
莉奈は、その場にへなへなと座り込んだ。
全てを失ったのだ、と理解した。
手に入れたはずの人気も、注目も、富も、そして、それを支えていたはずの不思議な力も。
残ったのは、暴かれた嘘と、世間からの嘲笑、そして、深い深い孤独感だけ。
常世の最後の言葉が、頭の中で冷たく響いた。
『虚偽と悪意は、いずれ己を映す鏡となりましょう』
その言葉の意味を、莉奈は、あまりにも高くついた代償と共に、ようやく理解したのだった。
*****
あれから、どれくらいの時間が経ったのだろうか。
莉奈の部屋のカーテンは、固く閉ざされたままだった。
季節は夏から秋へと移り変わろうとしているのか、窓の外からは時折、涼しい風の音や、遠くで鳴く虫の声が聞こえてくる気もしたが、莉奈にはもう関係のないことだった。
部屋の中は、散らかり放題だった。
脱ぎ捨てられた服、コンビニ弁当の空き容器、読みかけの雑誌。
その中で、莉奈はベッドの上に、まるで抜け殻のように横たわっていた。
大学にも行かず、友人からの連絡も無視し、ただただ、天井のシミを虚ろな目で見つめるだけの日々。
あの炎上騒ぎの後、莉奈の世界は一変した。
SNSのアカウントは、大量の通報を受けたのか凍結され、仮に再開できたとしても、もう誰も彼女の言葉を信じないだろう。
わずかにあった企業案件の話も、もちろん全て白紙になった。
現実の友人たちも、最初は心配して連絡をくれたが、莉奈が応答しないうちに、次第に連絡は途絶えていった。
手元には、真っ暗な画面のまま沈黙したスマートフォンと、鏡の部分が黒く濁り、砕けたスマホチャームの残骸だけが転がっている。
あのチャームを握りしめても、もう何の力も、温もりさえも感じない。
ただ、ひんやりとした、虚しい感触があるだけだ。
(全部、私のせいだ……)
後悔しても、もう遅い。
楽をして手に入れた人気は、砂の城のように脆く崩れ去った。
虚像を追い求めた結果、現実の自分自身さえも見失い、後に残ったのは、深い孤独と、埋めようのない虚無感だけだった。
伊勢の縁結神社。
あの神秘的な神職、常世。
彼が告げた警告の言葉が、今さらになって重く胸に響く。
『虚偽と悪意は、いずれ己を映す鏡となりましょう』
チャームの黒く濁った鏡は、まさに今の自分の心を映しているかのようだった。
立ち直る気力も、何かを始める意欲も、もう湧いてこない。
ただ、時間が過ぎていくのを、無気力に待つだけ。
窓の外で、楽しそうな誰かの笑い声が聞こえた気がして、莉奈は耳を塞ぐように、深く、深く、布団の中に潜り込んだ。
暗く、静かな部屋の中で、彼女の時間は、まるで止まってしまったかのようだった。
*****
その頃、伊勢のおはらい町の路地裏、縁結神社には、静かな夜の闇が深く降りていた。
境内を照らすのは、古びた灯籠の頼りない灯りと、雲間から時折覗く月光だけだ。
社務所の縁側で、常世は、まるで夜空を映すかのように静かな瞳で、暗い庭を見つめていた。
肩の上では、尾長鶏が眠っているのか、微動だにしない。
ふと、常世は懐から何かを取り出した。
それは、鏡の部分が黒く濁り、ひび割れてしまった、あの小さなスマホチャームだった。
どこからか回収してきたのか、あるいは、ただその「残滓」を感じ取っているだけなのか。
常世は、その痛々しい残骸を、感情の読めない表情で指先でなぞった。
「……虚実神は、いつの世も人の心の虚を映すものよ」
静かな呟きが、夜のしじまに溶ける。
「満たされぬ魂は、満たされぬ故に虚像を求め、そして、自ら作り出した幻影に喰われる。哀れなことだ」
その声には、同情というよりも、むしろ冷徹なまでの諦念が響いていた。
まるで、幾度となく繰り返されてきた、人間の愚かな営みを達観しているかのように。
肩の上で、尾長鶏がもぞりと動き、「コケーッ……」と低く、短く鳴いた。
それはまるで、(自業自得ですな)とでも言っているかのようだった。
常世は答えず、ただ、ひび割れたチャームを、そっと懐に戻した。
そして、再び静かに庭を見つめる。
月が雲に隠れ、境内は完全な闇に包まれた。
次にこの鳥居をくぐるのは、どんな悩みや欲望を抱えた者だろうか。
どんな願いを抱え、どんな縁を結び、そして、どんな結末を迎えるのか。
常世と尾長鶏は、ただ、次の縁の訪れを、この静かな闇の中で待ち続けている。
人間の喜びも、悲しみも、愚かさも、全てを受け入れ、そして見届けながら。