アイデアの泉と涸れた心 後編
伊勢での出来事は、東京の日常に戻ると、まるで遠い夢か幻のように感じられた。
あの縁結神社の静謐な空気、神秘的な神職・常世、肩に乗っていた美しい尾長鶏、そして、この手の中にある古風な万年筆……。
バッグの奥に大切にしまい込んだそれを取り出すたびに、真琴は「本当にあれは現実だったのだろうか」と自問せずにはいられなかった。
月曜日の朝。
憂鬱な気持ちを引きずりながらオフィスに着くと、デスクの上には早速、新しい企画の資料が山積みになっていた。
締切は今週中。
また眠れない日々が始まるのかと思うと、深いため息が出た。
(……試してみる、だけ)
昼休み、誰もいない給湯室で、真琴は意を決してあの万年筆を取り出した。
黒檀の軸はひんやりとしているが、握るとやはり、あの不思議な温もりがじんわりと伝わってくる気がする。
持参したノートを開き、ペン先を紙に滑らせた。
約束事を思い出す。
「誰かの喜びや助けのため……」
「一日に一つだけ……」
(この商品で、お客さんが笑顔になってくれるような……そんな企画を……)
そう心の中で念じ、ペンを走らせ始めた瞬間だった。
まるで、頭の中にパッと光が灯ったかのように、鮮やかなアイデアが流れ込んできたのだ。
ターゲット層のインサイト、商品の新しい魅力の引き出し方、具体的なプロモーション展開まで、淀みなく、クリアに。
「……!」
息をのみ、真琴は夢中でノートに書き留めた。
万年筆は、まるで水の上を滑るように、軽やかに動き、彼女の思考を美しい言葉と図に紡いでいく。
わずか10分ほどで、これまで何日も唸って考え込んでも出てこなかったような、骨太で魅力的な企画の骨子が完成していた。
(本当に……すごい……)
その企画は、提出後すぐに、驚くほど高い評価を得た。
「桜井、これだ! この切り口は今までなかったぞ!」
いつもは渋い顔の上司が、興奮気味に企画書を叩きながら言った。
「よし、これで進めよう!」
周りの同僚たちも、「真琴、すごいじゃん!」「どうやって思いついたの?」と称賛と驚きの声をかけてくる。
素直に喜んでいいのか戸惑いつつも、真琴の胸は高鳴っていた。
その日を境に、真琴の仕事ぶりは一変した。
「一日に一つだけ」「誰かのために」という約束事を守りながら、万年筆を使えば、必ずと言っていいほど、質の高いアイデアが生まれた。
それは、ただ奇抜なだけでなく、きちんと地に足の着いた、実現可能性のある企画だった。
プレゼン資料の構成に悩めば、的確なストーリーラインが浮かび、会議で意見を求められれば、核心を突いたコメントが自然と口をついて出た。
変化は、周囲の目にも明らかだった。
上司からの信頼は厚くなり、より重要な仕事を任されるようになった。
同僚たちも、以前のような憐れむような視線ではなく、一目置くような視線を向けてくる。
「最近、桜井さん、輝いてるね」
そんな言葉をかけられることも増えた。
何より、真琴自身が変わった。
失敗を恐れて縮こまっていた姿勢はなくなり、自信を持って人と話せるようになった。
背筋が伸び、声にもハリが出た。
鏡に映る自分の顔が、以前よりずっと明るく、生き生きとしていることに気づく。
仕事が、純粋に楽しいと感じられるようになっていた。
(この万年筆のおかげだ……本当に、縁結神社に行ってよかった……)
真琴は、デスクの引き出しにしまった万年筆を、感謝の気持ちと共に時折取り出しては眺めた。
約束事は、今のところ守れている。
他言無用、という点も、誰にも話していない。
この幸運が、この輝きが、いつまでも続きますように。
そう、心の中で強く願いながら。
彼女はまだ知らない。
その輝きの中に、ほんのわずかな、しかし確かな「影」が差し込み始めていることを。
*****
万年筆がもたらした「光」は、真琴の日常を眩しいほどに照らしていた。
仕事は順調そのもの。
自信に満ち溢れ、周囲からの評価も高い。
会議で淀みなく意見を述べ、笑顔で同僚と談笑する自分の姿は、数ヶ月前の自分からは想像もつかないほどだった。
しかし、強い光は、濃い影もまた生み出す。
成功に慣れるにつれて、真琴の心の中には、以前はなかったはずの感情が、じわりと染みのように広がり始めていた。
それは、「もっと」という渇望だった。
もっと認められたい。
もっと先へ行きたい。
そして何より、かつて自分を追い抜いていったように見えた、あの優秀な同期の鼻を明かしてやりたい――。
当初、万年筆を使う際に強く意識していた「誰かの喜びや助けのため」という第一の約束事。
それはいつしか、「結果的に誰かのためになればいい」という、都合の良い解釈へとすり替わっていた。
企画を考える際の第一優先は、「いかに自分の評価を高めるか」「いかに周囲を『すごい』と言わせるか」に変わっていたのだ。
「一日に一つだけ」という第二の約束事も、綻び始めていた。
「桜井さん、悪いんだけど、この企画の別案、明日の朝イチで出せないかな?」
ある晩、上司から急な指示が飛んだ時、真琴はその日すでに万年筆を使っていたにも関わらず、「はい、大丈夫です!」と笑顔で請け負ってしまった。
断れば「やっぱり桜井はまだそこまでだな」と思われるかもしれない、という恐れ。
そして、「この万年筆があれば、徹夜すれば何とかなる」という、力への過信。
(今回だけ。緊急事態だし、会社のためでもあるんだから)
深夜のオフィスで、真琴は再び万年筆を握った。
胸の奥で、チクリとした痛みが走った気がしたが、すぐに自己正当化の言葉でそれを打ち消す。
ノートに向かうと、アイデアは確かに出てきた。
しかし、そのアイデアには、以前のような瑞々しい輝きが感じられなかった。
そして、万年筆の軸が、気のせいか、いつもより少し重く、冷たく感じられた。
インクの出も、心なしか渋い。
「……疲れてるのかな」
真琴は、その微かな違和感から目を背けた。
約束事を破ったことへの小さな罪悪感よりも、仕事をやり遂げた達成感と、上司からの「助かったよ、ありがとう!」という言葉の方が、ずっと心地よかったからだ。
その日から、「今回だけ」は何度も繰り返された。
週に一度が二度になり、三度になる。
成功体験は、約束事を破ることへのハードルを確実に下げていった。
「最近、真琴すごいじゃん!何か秘訣でもあるの?」
同期の女性にランチでそう尋ねられた時も、他言無用という第三の約束事を思い出しながらも、つい口が滑った。
「うーん、まあ、ちょっとね。伊勢神宮にお参りに行ったのが良かったのかも? すごく良い『気』をもらえた気がするんだよね」
万年筆のことは伏せたが、縁結神社の存在を匂わせるようなことを言ってしまった。
これも約束破りではないか、と後で少し後悔したが、「まあ、これくらいなら……」とすぐに打ち消した。
周りの同僚たちの視線も、以前とは少し変わってきていた。
称賛だけでなく、どこか嫉妬や、あるいは距離を感じるような視線。
それに気づかないほど、真琴は鈍感ではなかったが、成功への高揚感が、そんな小さな棘を些細なことだと思わせていた。
万年筆の輝きが、日に日に曇っていくように見えるのも、インクの掠れが多くなったのも、きっと気のせい。
使いすぎているからかもしれない。
そう思うことにした。
彼女は、自ら進んで、光の当たる場所から、ゆっくりと影の中へと足を踏み入れていた。
その先に待つものを、まだ知らずに。
そして、心のどこかで警鐘を鳴らす、あの伊勢の神社の静かな空気や、常世の凪いだ瞳、尾長鶏の賢そうな眼差しを、 意識的に忘れようとしていた。
*****
深夜。
時計の針は午前2時を回っていた。
真琴は、東京の自宅マンションの小さなデスクで、一人、パソコンのモニターを睨みつけていた。
蛍光灯の白い光が、青白い顔をさらに色なく照らし出す。
(ダメだ、何も思いつかない……!)
焦りが、心臓を鷲掴みにするような感覚で襲ってくる。
明日は、社内でも注目度の高い大型コンペの最終プレゼン。
企画責任者として、なんとしても成功させなければならない。
失敗は許されない。
特に、最終候補に残っているもう一人の企画責任者が、あの、いつも先を行く優秀な同期である以上は。
彼女を打ち負かし、自分が正当に評価されるための、最高のアイデアが欲しい。
誰もが息をのみ、賞賛するような、圧倒的な企画を。
しかし、ここ数日、あの万年筆は沈黙を守っているかのようだった。
使っても、平凡な、どこかで見たような言葉しか出てこない。
ペン先のインクは掠れ、軸は以前の温もりを失い、ただの冷たい物質のように感じられる。
約束事を破り続けたことへの、これは罰なのだろうか? いや、そんなはずはない。
きっと、疲れが溜まっているだけだ。
もっと強く願えば、きっと神様は応えてくれるはずだ。
(お願い……お願いだから……!)
真琴は、すがるような思いで、引き出しの奥から万年筆を取り出した。
その黒檀の軸は、以前よりもさらに重く、そして冷たく感じられた。
構わない。
今は、この力が必要なのだ。
彼女は万年筆を強く握りしめ、目を閉じた。
脳裏に浮かべるのは、同期の悔しがる顔、上司や役員たちの賞賛の声、そして脚光を浴びる自分自身の姿。
(あの人よりもすごいアイデアを。誰も思いつかないような、画期的な企画を。私に力をください、思金神様!)
もはや、「誰かの喜びのため」という欠片もない。
ただ、勝利への渇望、他者を出し抜きたいという黒い欲望だけが、彼女の心を支配していた。
一日に一つだけ、という約束事も、他言無用という戒めも、完全に頭から消え去っていた。
ただ、強く、強く、万年筆に念じる。
もっと力を、もっとアイデアを、と。
その、彼女の欲望が頂点に達した瞬間だった。
パキンッ!!
乾いた、鋭い音が、静かな部屋に響き渡った。
まるで、張り詰めていた糸が、限界を超えて切れたかのような音。
「え……?」
真琴は、はっとして目を開けた。
そして、自分の手の中にあるものを見て、全身の血の気が引くのを感じた。
握りしめていた万年筆の、ペン先。
あの繊細な模様が刻まれた金色のペン先が、根元から、無残に折れていた。
「あ……あ……うそ……」
声にならない声が漏れる。
ペン先だけではない。
軸全体が、まるで生命力を失った抜け殻のように、冷たく、重く、ただの「物」に成り果てている。
あの不思議な温もりも、神聖な気配も、もうどこにも感じられなかった。
自らの強すぎる欲望が、神様の力を宿した神聖な道具を、破壊してしまったのだ。
縁結神社で結ばれたはずの、特別な「縁」を、自らの手で断ち切ってしまったのだ。
「そんな……なんで……いや……!」
真琴は、壊れた万年筆をデスクに叩きつけるように放り出した。
破片が、カラン、と虚しい音を立てて転がる。
魔法は終わった。
もう、安易な力に頼ることはできない。
コンペは明日。
時間だけが、無情に過ぎていく。
「うわあああああああっ!」
絶望的な叫びが、真琴の口から迸った。
彼女はデスクに突っ伏し、子供のように声を上げて泣きじゃくった。
失ったのは、万年筆だけではない。
成功も、自信も、そして、もしかしたら、人として大切な何かさえも、失ってしまったのかもしれない。
深夜の東京の片隅で、彼女の慟哭だけが、虚しく響き渡っていた。
*****
どれほどの時間、泣き続けていただろうか。
声を上げ、涙を流し、デスクに突っ伏したまま動けずにいた。
失ったものの大きさに、ただただ打ちのめされていた。
魔法の万年筆、手に入れかけた成功、そして、地に堕ちた自信。
もう何もかもおしまいだ。
コンペなんて、どうでもいい。
会社だって、もう行きたくない……。
虚ろな目で、床に転がった万年筆の、光を失ったペン先の破片を見つめる。
自分の愚かな欲望が、招いた結果。
あまりにも惨めで、情けない。
その時、ふと、脳裏をよぎったのは、伊勢の縁結神社の、あの静謐な空気だった。
そして、常世の、凪いだ水面のような瞳。
『全ては、あなたの心掛け次第』
あの時、彼は確かにそう言った。
万年筆はあくまで「縁」。
それを良きものにするか、悪しきものにするかは、自分次第なのだと。
私は、その「縁」を、自分の弱さと欲で汚し、断ち切ってしまった。
(……ああ、そうか……)
涙で濡れた頬に、自嘲ではない、何か別の種類の熱いものが込み上げてきた。
後悔。
けれど、それは単なる自己否定ではなかった。
自分が犯した過ちを、はっきりと認めることからくる、痛みと、そしてほんのわずかな、苦い学びのような感覚。
常世の肩に乗っていた、あの尾長鶏の賢そうな黒い瞳も思い出す。
あの瞳は、きっと最初から分かっていたのだ。
私がどんな人間で、どんな弱さを抱えているのかを。
それでも、常世は「縁」を結んでくれた。
それは、試練だったのかもしれない。
この力と、どう向き合うのか、と。
(私は、その試練に、見事に失敗したんだ……)
でも。
失敗したからといって、全てが終わるわけではないのかもしれない。
真琴は、ゆっくりと顔を上げた。
そして、床に落ちたペン先の破片と、デスクの上に残された軸を、震える手で拾い集めた。
もう何の力も宿さない、ただの壊れたガラクタ。
けれど、これに頼っていた時の高揚感も、そして、それを失った今の絶望感も、紛れもなく自分が経験したことだ。
(魔法は、もうない)
心の中で、はっきりとその事実を受け入れた。
(でも……)
立ち上がらなければ。
たとえ無様でも、格好悪くても。
(自分の力で、やるしかないんだ)
それは、万年筆がもたらしたような、華々しい自信や万能感ではなかった。
もっとずっと地味で、不確かで、けれど、心の奥底から湧き上がってくる、静かで、強い決意だった。
真琴は、涙の跡が残る顔を洗い、冷たい水で気合を入れた。
そして、再びデスクに向かった。
パソコンのモニターには、中途半半端な企画書が表示されている。
時計は、もう午前4時を指そうとしていた。
時間がない。
特別なアイデアもない。
でも、やるしかない。
真琴は、書棚から資料を引っ張り出し、過去のデータを読み返し、そして、自分の頭で考え始めた。
必死に。
不器用に。
何度も言葉に詰まり、構成に悩み、頭を抱えた。
魔法のようにアイデアが降ってくることなんて、もうない。
一文字一文字、自分の力で紡ぎ出すしかないのだ。
苦しい。
けれど、不思議と、以前感じていたような、出口のない暗闇の中にいるような感覚はなかった。
むしろ、自分の足で、一歩一歩、手探りで道を探しているような、確かな感覚があった。
窓の外が、ゆっくりと白み始めてきた。
東京の空が、紫色から、朝焼けのオレンジ色へと変わっていく。
結局、ほとんど眠らずに、真琴は企画書を完成させた。
それは、万年筆を使っていた時のように洗練されてもいなければ、斬新でもないかもしれない。
けれど、今の自分にできる限りの、誠実さと、必死の想いが込められたものだった。
シャワーを浴び、着替えて、目の下に濃いクマが刻まれた顔を鏡で見る。
ひどい顔だ。
でも、その瞳の奥には、昨日までの自分にはなかった、何か吹っ切れたような、あるいは腹を括ったような、静かな力が宿っているように見えた。
壊れた万年筆の破片を、そっとお守りのようにポケットにしまい込む。
これは、自分の愚かさへの戒めであり、そして、伊勢での不思議な出会いの記憶だ。
真琴は、完成した企画書をしっかりと胸に抱いた。
「よし」
小さく、しかし力強く呟くと、彼女は玄関のドアを開け、朝日が差し込み始めた街へと、一歩、踏み出した。
プレゼンがどうなるかはわからない。
けれど、魔法はなくても、自分の足で歩いていくしかないのだ。
その覚悟が、不思議と、彼女の背中を少しだけ、確かに押しているようだった。
*****
桜井真琴が、覚悟を決めた表情で都会の喧騒へと戻っていった頃。
伊勢、おはらい町の路地裏にある縁結神社には、変わらず静かで穏やかな時間が流れていた。
季節は巡り、秋の穏やかな午後のことだった。
木漏れ日が境内の苔をきらきらと照らしている。
社務所の縁側で、常世は静かに湯呑みを傾けていた。
その隣では、尾長鶏が日向ぼっこでもするように、気持ちよさそうに目を細めている。
常世の膝の上には、白い布に包まれた、折れた万年筆のペン先が置かれていた。
かつて宿っていた神様の気配はもうない、ただの金属の欠片だ。
「…………」
常世は、ペン先を指でそっとなぞりながら、遠い空を見つめていた。
その表情は凪いだ水面のようで、何を考えているのか窺い知ることはできない。
やがて、隣でうとうとしていたかのように見えた尾長鶏が、片目を開けて常世を見上げ、「コゥ……?」と問いかけるように鳴いた。
(あの娘、大丈夫かね?)とでも言っているかのようだ。
常世は、ふっと微かに口元を緩めた。
「さあな。泉は涸れたが、己で井戸を掘ることを選んだようだ。あとは、どれだけ深く掘り続けられるか、だろう」
その声には、突き放すような響きはなく、むしろ、どこか遠くから見守るような、静かな響きがあった。
「まあ、良き縁であったことには、違いあるまい。……苦くとも、な」
常世はそう呟くと、湯呑みのお茶を静かに飲み干した。
そして、立ち上がり、壊れたペン先を大切そうに拾い上げると、社務所の奥へと歩き出す。
「次のお客人は、どんな縁を求めてくるかのう」
尾長鶏が、楽しむように一声鳴く。
「縁は、求めるときに結ばれるもの。我らはただ、ここで待つだけだ」
常世の声が、伊勢の穏やかな昼前の空気の中に、静かに溶けていった。
縁結神社の鳥居の向こうでは、今日もまた、様々な悩みや欲望を抱えた人々が、賑やかなおはらい町の通りを行き交っている。
彼らの中から、次なる縁を求めて、この静かな路地裏に迷い込む者は、果たして現れるのだろうか。
それはまだ、神のみぞ知る――いや、常世と、この賢い神鶏だけが、知っているのかもしれない。
次話はお昼に前後編順番に更新します。
面白い。
続きが気になる。
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