現と幻(1)
香花さん――……。
闇夜に俺の声が溶けていく。呟かれた声は、溶けて消える。
ぼんやりとした意識の中、あんたの名を零して。
そして、俺の意識はなくなった――
『聖――聖っ』
そうやって、俺の名前を零すあんたが好きだった。
そんなヤツ、ほっとけばいい。俺がそう幾ら言っても聞かずに、『先に行きたいなら行けばいいよ』。そうやって他人に一生懸命なあんたの事も、別に嫌いじゃなかった。
――嗚呼、好き。好きだよ。
あんたが、恋しい。
恋しくて堪らない。
あんたの願いは理解してる。想いも、解ってる。
――赦してよ。この罪を。
俺の、最後のワガママだから。
気がつけば俺は霧に包まれて歩いていた。
頭の上の方で結った黒い髪。首元には頭巾のついた、俺と同じ白いマント。気がついてすぐに、見覚えのある愛しい人の姿が微かに見えた事に気づく。
「! 香花さん……ッ」
俺はその人の名前を呼んで走ろうとする。――なのに、身体が鉛のように重くなって。思うように動かない。
「香花さんッ――!!」
俺は柄にもなく声量を上げる。それでも、香花さんはふり返らない。
どんどん香花さんの姿が見えなくなっていく。
(『気づけ!』『ふり返れ!』)
そう、念じて異能を使おうとする。
絶対的な力を持つ俺の異能。けど、香花さんが気づく事も止まってふり返る事もない。
俺は焦る。必死に鉛のように重い自分の身体を動かし、手を伸ばす。
けど俺の想いも虚しく、完全に香花さんの姿は見えなくなって。
「待ってよ、香花さん……!!」
俺は必死に叫んだ。直後、俺は足を滑らせる。霧で足元も見えなかった。けど、そこは崖だったんだ。
(……!!)
浮遊感。重力がかかって、俺の身体は落ちていく――
(……っ)
瞼を上げる。
(――これは、なんだ……)
視界に入った光景に目を疑う。
「香花さん――!!」
前方で血塗れで倒れている香花さんに駆け寄った。
香花さんの腹部には空洞ができていて、そこから大量の血が流れる。香花さんの白いマントが真っ赤に染まっている。
その事実を受け入れられず、目眩がした。
香花さんの身体の先には、倒れる魔物の姿があって。
(『治れ…!』)
異能を使い、空洞が治るように念じる。けど、異能が不発で終わったのか、洞は治らない。
すぐ側にあった香花さんの左手を自分の左手で握り締めた。その手はひんやりとしていて冷たくて。
その事実を受け入れたくない俺は、座り込んだまま叫ぶ。
「ッ、治れ!! 治れって!! ッ、なんで!!」
何度念じても、言霊として発してもその洞は埋まらない。
「……目を開けてよ、香花さん……あんた以外いらないから……だから、お願い。どこにも行かないでよ……」
頬に伝うのは、俺の想いを表す涙。その声は。その願いは。聞き届けられる事はなくて。
嗚咽が静かに響き渡った。
ハッとして飛び起きる。はぁはぁはぁ、と息が切れる。
悪夢を見たのだと理解した。内容も、鮮明に覚えてた。眉を寄せて顔を歪める。
夢に意味なんて無いことは解ってる。それでも、幻だとしても俺にとってはスゴく苦痛だった。
香花さん――……。と吐息を漏らす。
心が満たされない。心細さでどうにかなりそうだ。
あんたの温かさを肌で感じたいと強く思う。それが叶う事がない事なんて理解しているのに。
その理解が、更に俺の心を苦しみに染めるんだ。
虚ろな目で横を見る。そこにあんたがいないことなんて知っているのに。
独りだという事実が、俺の心を蝕んだ。
俺は側に置いてあった荷物を持つ。大きめの荷物をマントの内側から背負う。
魔法を使い、光を宙に灯した。洞窟の中が照らされる。
まだ朝日すら登らない暗闇の中、俺は再び眠りに就く事なく歩き出した。
草木の少ない砂漠を歩き続ける。歩き続けて30分ほど経つと朝日の光が登り始めた。
――それでも、俺の朝日は昇らない。