お前を殺すと言われてももう遅い。何故なら君は、俺に惚れている
何もなかった。
音も、光も、温もりも、あらゆる感覚が失われた、虚無の空間。
ただ、ひたすらに黒が続いていた。
底があるのかもわからない、深く沈んだ闇の中を、俺は歩いていた。
その中心に、彼女がいた。
アレッサ・サーキュベーター。
色褪せた銀髪は虚ろに垂れ下がり、
ドレスはまるで霧のように、静かに揺れていた。
彼女は膝を抱え、小さく、小さくうずくまっていた。
背中越しに見えるその姿は、あまりにも頼りなく、
声をかければ壊れてしまいそうなほど、脆く見えた。
だが俺にはわかっていた。
これは“心を閉ざしたアレッサ”ではない。
むしろ、“閉ざしきれず、踏みとどまっている最後の彼女”だと。
これは“恋の拒絶”の封印。
記憶に残る恋心を強制的に消去する、特別な結界。
その中に彼女は囚われていた。
この世界から解放される手段はただひとつ。
恋心を捨て、サキュバスとしての誇りを取り戻すこと。
逆らえば、代償として大切なものを、さらにひとつ失う。
アレッサは俺への想いを消そうとしていた。
顔も声も、思い出すらも。
だが、完全には消し去れていなかった。
今ここにいるアレッサこそ、その封印に最後まで抗い続けた、彼女自身の最終防衛線だ。
サキュバスとして、他者を支配し、自己愛に生きる道を選ばず、誰かを心から好きになるという、初めての感情を抱いた少女。
その想いを踏みにじられぬよう、必死に守ろうとした少女の姿が、そこにあった。
だがその代償として、彼女は限界まで削られていた。
感情を失い、思考は霞み、存在そのものの輪郭がぼやけている。
怒りも拒絶も、もうない。
ただ、無に染まりかけていた。
その姿が、俺にはたまらなく哀しく映った。
「誰かいるの?」
俺の気配に気づいたのか、アレッサの肩がほんのわずかに震えた。
だが、それでも彼女は顔を上げなかった。
いや、もうその気力すらないほど彼女は衰弱していた
――違う。
そうじゃない。
お前は、ここで終わっていい存在じゃない。
俺は音もなく歩み寄り、静かに言葉をかけた。
「……ここにいたんだな」
返事はない。
アレッサは顔を伏せたまま、じっと俯いていた。
けれど俺には、あのわずかな肩の揺れが、
確かに俺の声に反応していたことがわかった。
「半寒先輩……」
その瞬間、彼女は顔を上げ、俺を見て、静かに笑った。
色褪せていた銀髪に、ほんの少し色が戻る。
その表情には、かすかながらも正気の光が宿っていた。
「アレッサ!」
堪らず俺は彼女を抱きしめようと手を伸ばす。
だが、アレッサはそっとその手を制した。
「……どうして……ここまで来たの?」
それは、すり減った心が最後に振り絞った、か細い問いだった。
――決まってるだろ。お前を助けに来たんだ。
そう叫びたかった。
だが、俺は本能的にそれが“違う”とわかっていた。
彼女は、最後の最後まで俺への想いを手放せずにいた。
それは、封印を抗うことで生じる瞳の流血を見ればわかるし、何より目の前のアレッサが俺を覚えているのが何やらの証拠だ。
だが同時に、彼女は怒っていた。
リトルアレッサ。精神世界で出会った彼女。
そして、今まさに俺のハグを拒んだ彼女。
皆、その怒りを確かに抱えていた。
俺は思い出していた。
これまでに彼女が口にした、あの言葉たちを。
『あの時、それさえ言ってくれれば、私は……全部を敵に回してでも、あなたについていけたのに』
『その通りだけど、今欲しい言葉はそれじゃないの!』
『私は、貴方が何を考えているのか全然わからない!』
……そうか。
そうだよな。
俺は、順番を間違えていた。
愛の言葉を口にする前に、
伝えなければならない言葉が、ちゃんとあった。
彼女は恐らく、この言葉を求めている。
「……ごめん」
思わず絞り出したその言葉に、アレッサは目を瞬かせた。
ほんの少し驚いたような顔をした後、すぐに俺をじろりと睨む。
「……何に謝ってるの?」
問い返されて、俺は目を逸らさずに言葉を続ける。
「クイーンに正体を見破られた時、俺は……君に酷いことを言ったと思う」
その場面が、脳裏に鮮明に蘇る。
あのとき、俺はこう口にした。
『そうだ。だが、悪く思うな。お互い様ってやつだ。しおりちゃんも俺を“美の供物”にするために近づいてきたわけだからな』
確かに、あれは事実だった。
お互いに目的があって近づいた。それは否定しようのない現実だ。
けれど、彼女がその言葉を聞いたときの表情。
あのかすかな、寂しげな笑みを思い出すたびに、胸が痛くなる。
あの瞬間、俺がもしサキュバスかどうかなんて関係なく、「君が好きだ」と正直に言えていたら……
彼女はクイーンすら敵に回して、俺の味方でいてくれたかもしれない。
「貴方の言ってることは正しいわ」
アレッサがゆっくりと口を開いた。
その声には、どこか諦めを含んだ乾いた響きがあった。
「私たちは最初から敵同士だった。……貴方は、私を倒すために、デートの申し出を受けたんでしょう?」
その言葉には、感情を押し殺したような静けさがあった。
その割り切った口ぶりが、逆に胸を抉る。
「……ああ。そうだ。最初は、サキュバスを敵としか見ていなかった」
俺が答えると、アレッサはまた悲しげに目を伏せた。
その動きに合わせて、銀色の髪が顔を覆い、どこか儚げに揺れる。
光を失ったその髪は、まるで希望をなくしていく彼女自身のようだった。
沈黙が流れる。
けれど俺は、その流れを断ち切るように、はっきりと言葉を継いだ。
「……最初はな」
その一言で、アレッサがゆっくりと顔を上げる。
その目に宿っていた陰りが、ほんのわずかに和らいだ。
視線が交わった瞬間、彼女の銀髪に淡い光が戻り始めた気がした。
今なら、ちゃんと伝えられる。
俺の中で曖昧だったものに、ようやく言葉を与えられる気がした。
「何を考えているかわからないって、君は言っていたな」
精神世界の中で、俺に問いかけてきた少女の声が思い出される。
「だから、今こそ段階を踏んで、順番通りに語らなければならない。俺が何を見て、何を感じて、何を決めたのかを」
優しい口調で、俺は会話を続けた。
「君に多少惹かれていたのは事実だ。けど、あの時は、それ以上に“敵”としての印象が強かった」
しおりという後輩を演じていた君のことを、どこか微笑ましく思っていた。
でも、恋心だと自覚するには、まだ遠かった。
「俺はサキュバスという種族を、ずっと恐ろしい存在だと教わってきた。人を誘惑し、命を奪う化物……だから、そんな連中から地球を守るために、“夜明けの会”に入ったんだ」
それが、俺にとっての真実だった。
疑うこともなく、それが正義だと信じていた。
「だけど……君と出会って、その認識は、根底から覆された」
初めてのデートは、楽しかった。
二度目は、もっと楽しかった。
「君は、普通の少女のように、いろんなものに目を輝かせて……美術の展示では、興味津々に展示物を見ていた。あのときの君は、本当に楽しそうで、それが、すごく可愛かった」
言葉にするたびに、記憶が色を取り戻す。
彼女の笑顔も、声も、振る舞いも。すべてが愛おしかった。
「……君の存在が、俺の中で本当に大きくなったのは、君が封印されてからだ」
俺は静かに目を伏せる。
思い出すたび、胸の奥が熱くなる。
「自分が封じられそうなときでも、君は俺を殺さなかった。むしろ……最後までデートのことを気にしていた。そんな君が、あまりにも健気で、愛おしくて……
俺は心から“必ず助ける”と誓ったんだ」
だからこそ、ここまで来た。
何もかも捨ててでも、たとえ仲間に裏切り者と呼ばれても。
「俺は夜明けの会の隊員で、サキュバス攻略の任務を受けた身だ。それは事実だし、今も変わらない……でも、そんな立場なんて、どうだっていい」
アレッサの瞳を正面から見据えたまま、最後の言葉を告げる。
「関係ないんだ。俺は、君に惚れた。それだけが、今の俺の答えだ。だから、俺は……この場所まで来たんだ」
俺は、手を伸ばす。
「アレッサ。君の事が好きだ」
俺は改めて、アレッサに視線を移す。
色褪せていた銀髪は、艶を取り戻し、滑らかに揺れた。
白磁のような肌にはほんのりと血色が差し、頬を伝う涙が赤色の瞳に光を宿す。
かつての気高くも愛らしい彼女が、そこにいた。
アレッサは、俺の手を両手で包み込んだ。
その指先は、どこか震えていたけれど、温かかった。
「……私こそ、ごめんなさい。腕、痛かったでしょ……」
そっと俺の腕を撫でる彼女の手から、桃色の光がふわりと舞い上がる。癒しの魔法は、やさしく俺の傷をなぞっていた。
「血も滴る、いいハンサムが完成した瞬間でもあるからな。気にするな」
アレッサはぽかんと目を見開き、そして吹き出すように笑った。
怒りも絶望もない。あの日のデートで見せてくれた、あの少女の笑顔だった。
「……もう、先輩ったら」
彼女の肩がかすかに震える。だけど、今度の震えは悲しみじゃない。
その目には、迷いの代わりに決意の光が灯っていた。
「ここまで来てくれて、ありがとうございます」
アレッサはそう言って、一歩、俺から離れる。
まっすぐに前を向きながら、静かに言った。
「私はここで、もう一度、私自身と向き合います」
その声音には、凛とした強さがあった。
「封印に囚われた私に、自我を取り戻せるように、この深層心理の世界から、もう一度私に語りかけます。
だから、半寒先輩。どうか……精神世界のアレッサを、お願いします」
「……ああ、任せろ」
短く頷いたそのときだった。
世界がゆっくりと光に満ち始める。
深層の意識から、俺の意識が精神世界へと戻りはじめていた。
「半寒先輩!」
消えかける意識の中で、アレッサが俺を呼ぶ声が届く。
彼女は微笑み、最後の言葉を紡いだ。
「精神世界のアレッサに伝えてください。人を好きになることは、誰にも邪魔できないってことを……それと、もうひとつ」
彼女の唇が、やさしく、そして誇らしげに弧を描く。
「最初に惚れたのは、私の方だったってことも」
光に包まれ、視界が白く染まっていく。
アレッサの声が遠ざかる。
※※※
空気は張り詰めていて、耳には荒い息遣いが混じっていた。
視界の端で、エリリカが膝をついている。
その髪は乱れ、肩で息をしていた。
俺を守り続けて、疲労困憊といった様子だ。
精神世界のアレッサに目を向ける
彼女は、俺の方へ歩み寄ろうとするエリリカを、鋭く睨みつけていた。
その口からは、怒りを吐き出すような叫び声が響く。
「邪魔しないで、エリリカ! 私は……サキュバスの誇りを取り戻すために、この男を殺さなきゃいけないの!」
先ほどまでの無表情とは違う。
そこには確かに、感情が戻っていた。
恐らく、深層心理でのアレッサの変化が、少しずつ表面の彼女にも影響を与え始めている。
もしかしたら、今なら俺の姿も見えるかもしれない。
アレッサの内面も知れた。
俺の内面もきちんと伝えた。
それなら原点回帰だ。
もう一度彼女を惚れさせるには、俺の顔しかない。
「アレッサ。こっちを見ろ」
彼女の瞳がこちらを捉えた瞬間、そこに映ったのは、
均整の取れた輪郭、曇りなき瞳、そして神が細部にまでこだわって彫り上げたかのような造形
まさしく、美の頂点に立つ存在だった。
「なぜ……なぜこの男の顔が見える……! 記憶から、消し去ったはずなのに……!」
アレッサは首を振り、必死に否定する。
だがその頬は、明らかに紅潮していた。理性が否定しても、心が反応している証だ。
「私はサキュバスとしての誇りを取り戻す。そのために……お前を殺す!!」
叫びとともに、至近距離で俺に手を突きつける。
桃色の光が集い、攻撃の構えを取る。
しかし、彼女は動かなかった。震える指先から、魔力がこぼれるだけだった。
俺は一歩、彼女へと踏み出す。恐れはない。
俺は堂々とした面持ちで彼女に顔を寄せる。
花火大会の時とは違い、今度は俺の方から唇を近付けた。
「お前を殺すと言われても、もう遅い」
――何故なら
「君は俺に、惚れている」
二人は唇を重ね、幸せに満ちたまま封印を解かれましたとさ。
めでたし、めでたし
※※※
――という、幸せな展開にはならなかった。
次の瞬間、空間がドゴンッ!と爆ぜるような轟音に包まれた。
何が起きたのか。理解が追いつくより先に、俺の足元がぐらついた。
精神世界の大地が揺れ、軋み、ひび割れを起こしていく。
「なっ……!?」
咄嗟に地面を見下ろすと、ひび割れの隙間から、現実世界の映像がにじみ出すように溢れ始めていた。
その裂け目の向こうには、血にまみれ、倒れ伏すサクライと仁科の姿。
そして、立ち尽くすように必死で戦い続ける、みどりちゃんの姿が見えた。
「……外部組か……!」
彼らが封印の破壊を試みていたことは、見なくてもわかっていた。だが、あの様子では……明らかに失敗だ。
にもかかわらず、精神世界は崩壊し始めている。
封印が解けたのではない。
封印が壊されたのだ、それも、圧倒的な暴力によって。
「……緊急事態、だね。二人とも……私は、もう……ここまでかも……」
ふと隣を見れば、エリリカが肩で息をしながら呟いた。
「おい、エリリカ!?」
言葉をかける暇もなく、彼女は口元から血を吐き、力尽きたようにその場に崩れ落ち、次の瞬間には跡形もなく姿を消していた。
「……どこ行った!? おい、エリリカ!!」
叫んでも返事はない。
焦りが喉元を焼く。
周囲を見渡すと、空間そのものがぐにゃりと歪み始めていた。
空も地も崩れ落ちていく。まるで夢が終わる瞬間みたいに。
これは……明らかにおかしい。
正常な封印解除じゃない。
誰かが、外部からこの空間を壊しに来ている。
その瞬間、俺の脳裏に一人の存在がよぎった。
いや、これはもう確信に近かった。
「クイーン」
奴が、外から封印の結界に干渉してきた。
それはつまり、俺の肉体が、現実世界で危険に晒されているということ。
「半寒先輩! 今すぐ現実世界に戻って!!」
アレッサの声が耳に届く。彼女の顔には、恐怖と焦燥がにじんでいた。
だが、もうその声は……遠かった。
「……あ、ぐ……っ、く、くそ……息が……!」
胸が焼けるように苦しい。視界が霞む。肺が絞られ、呼吸ができない。
俺は胸元を押さえ、膝をつき、そのまま地面に崩れ落ちた。
――やばい……現実の体が……酸素を……
頭が真っ白になっていく。
目の前のアレッサが叫んでいる。けれど、その声も、もう聞こえなかった。
――まだ……戻れねぇ……
動かない身体。崩れていく精神世界。
どうにもならない。
この空間は、もう限界だった。
世界が、音を立てて崩れ落ちていく。
真っ白な光と闇が入り混じり、俺は、飲み込まれた。
※※※
意識が戻る。
アレッサは目を開いた。
だが、状況は絶望的だった。
氷の封印は完全には解けておらず、下半身は未だに分厚い氷に閉ざされたままだ。
しかし、それでも覚醒してしまったのは、やはり封印が無理矢理、破壊されたからだ。
みんなを助けに行きたい。
でも、身体が動かない。
……そんな中、両隣に人の気配があった。
視線を向けたその先に、アレッサの瞳が驚愕に見開かれる。
エリリカが血まみれで倒れている。
そして、半寒。
彼の顔は魔法陣を宿した覆面によって覆われ、完全に塞がれていた。
口も、鼻も、目も、その全てを封じられている。
身をよじるように苦悶し、酸素を求めて呻き続けているが、空気は届かない。
「っ……!」
喉の奥から、悲鳴が漏れそうになる。
目の前にいるのは、明らかに死にかけている半寒だった。
「見せるだけで人を惑わし、いかなる攻撃も通じぬなら封じればよい」
冷たく鋭い声が、氷のような空間に突き刺さる。
そこに立っていたのは、クイーン。
クイーンは、自らの手で半寒の顔を封印し、彼の仲間たちを血の海に沈め、
さらに、アレッサの封印までも破壊してみせた張本人だった。
「お前たちには、心底、失望した……そして同時に、怒りが湧いた。その怒りの根源は――こいつだ!」
ズガッ!!
クイーンの鋭い脚が、容赦なく半寒の腹部を蹴り飛ばす。
痛みに悶え、もはや呻き声さえ出せない彼は、痙攣するように身をよじる。
「この男は、まもなく窒息して死ぬ。そして――ここにいる者全てを、私が処刑する。実の妹だろうと、容赦はしない。正しく生きるサキュバスは、私ひとりで十分だ」




