ミクロ侵略
これは、とある人から聞いた物語。
その語り部と内容に関する、記録の一篇。
あなたも共にこの場へ居合わせて、耳を傾けているかのように読んでくださったら、幸いである。
へえ、プレパラートも商品になるのか。すごいな、動植物の組織や繊維とかもそろえてる。顕微鏡好きにはたまらなそうだ。
それにしても懐かしいねえ。顕微鏡のことがテストに出たのって、中学生の時だったっけか。
いろいろなパーツの名前とか覚えさせられたけど、あのときはいろいろなものを顕微鏡で見るのが楽しかった。
スポイドから垂れる、何気ない一滴。その中に、あんな形の生き物たちがひしめいているなんて、初めて見たときは信じがたかったなあ。
一時期は、自分用の顕微鏡を誕生日プレゼントに買ってもらうか、迷ったこともあったよ。
ただ、ちょっと妙な出来事と鉢合わせてから、かえってそばに置くのは、避けた方がいいかもしれない、と思い始めたんだ。
その時の話、聞いてみないかい?
中学1年の秋ごろ、僕の清掃場所の分担は理科室だった。
女子がまじめに仕事をこなす中、男子はそうじそっちのけで、ほうきなどの道具を手にめいめいで遊び出すことも、少なくない。
かくいう僕も、そうじは好きじゃなかった。先生とかが見回りしているときなどは、そうじに取り組んでいるフリをしていたなあ。で、遠ざかると遊びに加わりにいくと。
しかし、今いる場所は理科室。そして隣の準備室へつながる戸は、開いているときていた。
――顕微鏡で面白いものを見られるチャンス!
そう察した僕は、近くにとがめる人がいないことを確認。そっと準備室へ入り込んだ。
壁際に、主に薬品を入れた棚が並ぶ準備室。
その部屋の中央に置かれた、2つ連なった長机の一角に、箱に入った顕微鏡たちがあった。
いずれも小型の銀色のケースにおさめられ、蓋を閉じられている。その形、その色合いに、いつも少しの近未来感を覚えつつ、そのひとつを開いてみる。
ケースの中身は本体をはじめ、各種レンズなどがキャップ付きではめ込めるよう、へこみがいくつもついている。
不備がないのを確かめて、さっと窓際へ運んでいく僕。各種レンズを取り付けて、光の当たり具合も調整して、いよいよお目当てのプレパラート探しだ。
薬品棚のすぐ下の引き出し。そこにはいくつか小さい箱があって、先ほども話したようなできあがっているプレパラートたちが、ぎっしり入っていた。
ラベルはスライドガラスにくっついている。けれども時間をあまりかけたくない僕は、最初に触った箱、その中身からラベルを見ず、適当にぱっと指でつかんだものを、顕微鏡のもとへ連れて行った。
何分も観るつもりはない。口うるさい誰かが感づく前に終わらせる、ほんのちょっとの息抜きだ。
プレパラートをステージにセット。リボルバーをひねり、3つ取り付けられたレンズのうち、一番倍率の低いものを真上へ持っていく……。
のぞき込んだ僕が初めに目にしたのが、紫色の点だった。
それは爪の先でつついてできたような、ごくごく小さいもの。けれど、視力に自信があった僕にはわかる。
その小さい点の中。ドライアイスの煙みたいに、湧いてひしめく煙らしきものが溜まっているのを。
リボルバーをひねる。2番目に倍率が高いものをあてがうと、先ほどの点ははっきりとした「球」となって、レンズの視界8割ほどを占領していた。
ボルボックスかと、思った。
球体を持つ細胞群体。その体細胞の内側に、自らの生殖細胞をいくつも抱えていて、子供を産むときは、その生殖細胞がきれいな球の内側から出てくる。そのような生き物だ。
けれども、色は緑ではなく、先ほどもレンズを通して見た紫色。点々と配される生殖細胞も、いまは代わりに無数の糸くずに埋め尽くされて、ちらりとも見えない。
糸くずは絶え間なくうごめき、ミミズのようにも思えた。
ここでやめておけばいいのに、僕は止まれなかった。
一番高倍率のレンズへと、レボルバーを回してしまう。このとき、僕の中には新しい発見をできるという、わくわくしか感じていなかったんだ。
そうして、ほぼガラスに接するかというほど、長い対物レンズをのぞき込んで、「うっ」とうめいてしまったよ。
おそらく、あの細かい糸くず一本一本にフォーカスできたほどの倍率だろう。
その糸くずらしきものは、米粒ほどの「目」だった。細い管の中でいくつも、いくつも中心の白以外を紫色に染めた、人のそれと同じような形をした目が、途切れることなく連なり、うごめいていたんだ。
まばたきをしないそれらは、虹彩にあたるだろう白い部分をこちらへ向けている。糸のどこをとっても、プレートをずらしても。
そのとき、ずるりとプレートが滑って、ステージから落ちる音。さっと接眼レンズから顔を離すも、ステージにはちゃんとスライドガラスが乗っている。そして、床に落ちるのはそれとは違うもの。
重なっていたんだ。
1枚だけ取り出したと思ったプレパラートは、2枚重なっていたんだよ。
ただし、下に重なる2枚目は、カバーガラスと見まごうような細さしかない。だから2枚を一緒につまんだことに、気づけなかったんだ。
1枚目、ステージに乗っているスライドガラスのラベルは「ボルボックス」。けれど、落ちたプレートはラベルなど張っていなかった。
それどころか、拾おうと僕が手を伸ばしたほんのわずかな時間で、みるみる理科室の床と同じ色に染まったかと思うと、同化するように消えてしまったんだ。
いくら指を動かしても、ガラスらしき感触には出会えない。そして「ボルボックス」も、確認したらあの紫色の球体の姿のまま、変わっていなかった。
プレパラートを台無しにした。
そうおののく僕は、あわただしく一式を片付けて、だんまりを決め込んでしまう。
先生にはもちろん、クラスの誰にもこのことは漏らさなかった。
数日後、別のクラスで理科の授業があり、彼らが理科室から戻ってくるときに話を聞いたのだけど、授業で出されたプレパラートたち。ある箱に入っていた数十枚が、まるごとダメになっていたらしい。
どれをのぞいても、紫色のボルボックスらしきものに変わっていて、その中に糸くずのようなものが浮かんでいるものだった、と。
僕はびくびくして、それ以上追及できなかった。
あの白い目のつながりを見たのか? とね。
かのプレパラートたちは、早急に処分されたらしい。犯人捜しはされることがなかったけれど、僕はそれ以来、顕微鏡が苦手になった。
次にのぞく時、僕はあの目の更に奥の奥と出くわすんじゃないか。
そう考えて、いまでも鳥肌が立つのを抑えられないんだ。