あなたにみる夢
特になし
あなたに見る夢
如月はな
今日もSの夢を見ている。
夢の中のSはいつも優しく微笑んで、わたしにその大きな掌で頬を撫でる。
キスをして、とせがむと触れるか触れないかのキスをくれる。
そのもどかしさが逆に、嬉しくてわたしも微笑む。
逞しいSの胸に身体を預けうっとりと目を閉じる。
瞬間、いつも夢が終わる。
またか…。
現実の冷たさにいつも通りため息がもれてしまう。
誰もいなく、少し一人暮らしには広い一軒家には道路から奥まっているせいであまり喧騒は聞こえない。
今は午後の2時だった。
本当に静か、まるでわたしは家ごと死んでるような錯覚に襲われた。
少し夢の余韻に浸る。
でもわたしは一人だ。
孤独感におそわれ、わたしは1人唇を噛む。
この家には小さい頃から父と母と住んでいた家だった。
両親は早くに他界し、わたしはそれから1人でこの家に住んでいる。
友人や恋人はいないので誰も尋ねてきてはくれない。
寝室にしている一階の部屋で寝起きしているが、それ以外の部屋はほとんど使っておらず、埃が溜まっている。
誰も来ないのをいい事にわたしはそれを放置していた。
わたしの名前は、片岡冬音。
雪の降る日にわたしが生まれ、雪がしんしん降っていたことから母親に名付けられた。
わたしはこの名前をとても気に入っているがその名前を結局あの人は呼んでくれなかったのが未だに淋しい。
Sは関西人でわたしのことを自分、としか呼んでなかった。
わたしはもう31回目の誕生日を迎えている。
この歳でもわたしに恋人ができることはなかった。
わたしは美しくも可愛いタイプでもなかったし、そんな自分がお洒落するなんて恥ずかしくて紅を引いたことすらない。
髪の毛も昔から黒いロング。
これはSが唯一褒めてくれたものだった。
癖もなくサラサラの綺麗な髪やな、一度だけだったけどSはわたしにそう、言ってくれた。
それからわたしはパーマやカラーリングはしていず、それは今も続いている。
Sも出会ったのはわたしが16歳の時。
もう15年も経っている。
それでもわたしはSのことをありありと思い出せる。
網膜に焼きついたように彼の姿を頭の中で描くことができる。
Sと出会ったのは高校入学して少し後のことだった。
当時わたしは定時制高校に通っていた。
中学の時は虐めなどはなかったのだがクラスメイトとは話が合わず、いつも、浮いていてすぐ登校拒否をしてしまったのだ。
おかげで学力のないわたしは高校に通うとしても定時制学校でなければ受からないのは分かっていた。
当時まだ生きていて過保護な母は、冬音、無理矢理高校なんかに行かなくていいよ。と言ってもらえていたが高校くらいはなんとか行きたいと反対を押し切った。
うららかな春。
わたしは緊張しながら受験した高校に向かった。
もし、今年がダメならばもう高校は、諦めるつもりだった。
しかし受験番号はボードに書いておりわたしは逆に驚いたものだった。
父はなかなかは博学で頭もよくて昔から勉強を教えてくれたがまさかその程度で受かるとは思ってもいなかったのだ。
はらはらと桜が舞う。
わたしの胸はときめいた。
中学をまともにいけなかったが高校生活は真っ当にやっていきたい、わたしは小さな笑いを抑えきれなかった。
しかし入学して2ヶ月が経ったが、わたしには友人は出来なかった。
わたしは人見知りで自分からはとてもクラスメイト達に話しかけることができなかったのだ。
なかなか授業にも集中できず早くも、中退した方がいいのかと少し悩んでいた。
そんな時、わたしはSと出会う。
始業の鐘は5時に鳴り、最後の終業の鐘は9時になる。
9時になりわたしは帰路についた。
そして何故かいつもは正門で帰るのにその日は裏門から帰宅した。
裏門の向かいには学校のグラウンドがあり、男の子達の歓声が聞こえた。
ふと、そちらを見るとグラウンドでは野球部の人たちが野球をしているようだった。
球が飛んでいかないようにネットで囲まれたグラウンドを見てみる。
男の子達は溌剌と大声を上げながら野球を心から楽しそうに試合をしていた。
わたしは運動は大の苦手ですぐにその場を離れようとした。
その時、S、走れ!!という大きな声が聞こえた。
見ると1人の男の人がすごい速さで盗塁していた。
それがSとの出会い。
わたしはS、と呼ばれた男の人に釘付けになる。
年齢は20歳くらいだろうか、定時制では珍しくはない。
背が高く、日焼けをしていて褐色の肌。
張り詰めた筋肉がユニフォームの上からでも分かる。
野球帽で、顔が見えないと思ったがグラウンドのライトで一瞬、Sの顔が見える。
女のわたしより大きな目をし、しかし女性のそれとは違い意思の強そうな鋭さが伝わる。
精悍な顔立ちで身のこなしからも野生の大型の猫科を思わせた。
わたしの胸は今までにないほど強く脈打った。
一目惚れというものがあるのならこれがそうなんだろう。
Sさん、と頭の中で反芻する。
わたしははじめての感情にどうしていいのか分からず逃げるように、そこを立ち去った。
家に帰り、母に風呂を沸かしてあるので入るように催促される。
頭と身体を洗い終わると湯船にゆったりと浸かった。
まださっきのS、という人を頭に思い起こす。
はじめて男性を好きになった感覚にわたしは狼狽えた。
恋愛経験が皆無のわたしにはどうしていいのか分からなかった。
風呂が終わると洗面台の大きめの鏡に自分をうつす。
そこには陰気な印象を受ける自分がいた。
一重の野暮ったい目、低い鼻、薄すぎて冷たく見える唇、痩せぎすの色気も何もない身体。
ため息をつく。
こんな自分があんなに魅力的な男性に似合うなんてつゆほどにも思えなかった。
それからはSを見つめる日々が続いた。
3年生のSの教室はわたしのクラスからトイレに近く、不自然にならないのを分かっていて休み時間用もないのにそこを通った。
彼は左利きのようでよく左手でペン回しをしていた。
盗み見ることでもわたしには十分過ぎるものだった。
しかし、見つめている内に気が付いた。
SはクラスメイトEを見ていることに。
Eは小柄で華奢で服やアクセサリーも自分に似合うものをよく知っているようで女のわたしから見ても魅力的な女性だと分かる。
わたしは焦った。
今は交際をしている気配はなかったが、今後のことは分からない。
しかしわたしは知っていた。
SとEはわたしは名前を知らない女の子の友人とでよく空き教室で談話していた。
少し離れたところで気にしてない風を装いながらよく会話を聞いていた。
Sが空き教室から軽く笑みを残して出て行った後にEとその友人はクスクス笑っていたのだ。
どうやらEはSの気持ちを知っていながらそれを弄んでいたようだった。
でも、わたしにはそんな事実すらSに伝えることができない。
悔しい、わたしは目線すら合わせてもらったことはないのに。
どうしてSを軽んじているような女がSの好きな女なのだろう。
わたしのことも見てほしい。
上手く話したり、可愛く微笑むことはできないだろうがこのままSの視界に自分が存在していない事実には我慢ならない。
わたしはSに話しかけることを決意した。
早速、その次の日にわたしは校内をSを探しに行ってみた。
しかしSは見当たらない。
校庭に出てみると隅にある花壇の辺りにチラチラと小さな光が見えた。
どうやら誰かが喫煙してるようだった。
Sだという保証はなかったが、幸いそこは旧校舎の入り口が近いので、違ったらそちらに行けば大丈夫だと踏んだのだ。
そろり、と近づく。
そこにはSがいた。
心臓がうるさいほどに高鳴った。
喉はカラカラで立っているのも困難なほどだった。
話しかけなきゃ、頑張らなきゃ、ここで諦めたら今後も話しかけることなんてできない、と思う。
Sの方に足を進めていく。
足が震える。
Sの前までなんとか歩み寄る。
するとSが顔を上げはじめてわたしを見てくれた!
わたしは狼狽し、上手く話せない。
どうしたん?Sが声をかけてくれた。
あの…、とわたしは言い淀む。
ん?Sはまた問う。
わたしは大きく息を吸うと、わたし片岡冬音といいます、よかったら今度飲みにいきませんか?と、なんとか口にした。
自分はまだ飲めへんのちゃうの?一年生やろ?とSは笑った。
どうして一年生だと分かったのだろうか?
一年の教室、おれの教室から見えるし、よくそこ通ってたやろ?
その言葉にわたしは歓喜した。
その勢いのままわたしな言葉を繋げる。
わたし飲めないけど、Sさんは飲めるかと思って、しどろもどろになってしまう。
Sはまた笑いながら、ええよ、おれ酒強いし酔い潰れて介抱して、とかは言わへんし、と言った。
少し緊張がほぐれ、わたしもぎこちなく微笑んだ。
いつ都合がいいですか?そう問うと、次の日曜日はどうや?その日なら空いてるで。とSが言ってくれたのでわたしも、それでいいです。と頭を下げた。
その当日、わたしは約束した9時に指定した焼き鳥屋の前にいた。
本当ならもっと洒落た店を選びたかったが、無知なわたしにはそれくらいしか思い浮かばなかったのだ。
わたしはお洒落な服装など分からなかったので一番ましだと思えた、花柄のブラウスと黒いロングスカートに踵の低いパンプスという出立ちだった。
しばらくそこで待っていると、右手から人が歩いてくる音が聞こえた。
確認はしてないのに何故かそれがSだと確信した。
少し顔を上げると、深呼吸する。
そしてSの方に顔を向ける。
やはりそこにはSがいた。
白い縦にラインの入ったカッターシャツに、ダメージ加工のジーンズ。
そんなに服装を気にしている風でもないのに、爽やかな彼の風貌にはとてもよく似合っていた。
こんばんは、わたしが言うとSも同じ言葉を返す。
飲み会やなくて自分と2人なん?その問いにどきり、とする。
わたしなんかと2人きりなんてやっぱりいやなのかな…。
一気にいたたまらない気分になってしまう。
まあええわ、とりあえず店入ろっか。Sがのれんを先にくぐり店の引き戸を開けた。
思った以上に店内は狭かった。
しかもカウンターしか空いていない。
この人と並んで座るなんてできない!また心臓が早鐘を打つ。
どうしたん?入らへんの?その言葉を聞き、なんとかわたしは店内に入った。
すみません、こんなところしか知らなくて…、わたしは俯きながら言った。
そんなん言うたら店の人に失礼やろ、飲めたら別にどこでもええよ。Sは軽く笑った。
そうですね、ごめんなさい、わたしには意外だった。
わたしは叱られる、ということを知らないで生きてきた。
学校もろくに行ってなかったし教師ともあまり話したこともなかったし、両親も一人娘のわたしを溺愛していた。
叱られた、それは心地いいことだった。
少なくとも叱る程度には自分に関心があるのではないかと思えたからだ。
混んでますね、つぶやくように言うと、日曜やもんなあ、平日の方が空いてたんやろうけどおれは平日は仕事やから、とりあえず飲みもん頼もか、おれはビールでええわ、自分は?慌ただしくメニューを見る。
じゃあ、オレンジジュースで、そう言うと、えらい可愛い注文やな、とSはまた笑った。
Sには本当に笑顔が似合った。
見た目は少しとっつきにくそうなイメージを浮かべさせるが、笑うとどちらかと言うと可愛らしくなる。
子供のような笑顔というべきか。
わたしはこの笑顔をずっと見ていたいな、と切に思った。
初恋は実らないもの…、世間ではよく使われる言葉だ。
なんとなく、自分自身でもSと恋人同士にはなれないという思いがあった。
でも、少しだけでも、その瞳に、わたしをうつしてほしい。
1秒でもいい。
わたしだけを見て、そう思っていると視界が涙で滲んだ。
どうしてこの人に恋をしてしまったのだろう。
はじめからそれは叶わないと、分かっていたのに。
どうしたん?気分悪いんか?Sが心配そうにわたしの顔を覗き込んだ。
なんでもないんです、少し人に酔ったみたい、曖昧にごまかす。
そうなん?じゃ今日は解散しよか、ここおれが出しとくわ、Sがそう言うので半分出すと言ったけれど、Sはそれを許さなかった。
店外に出ると、今日はありがとうございます、こちらから誘ったのにご馳走になっちゃって、と頭を下げた。Sはええよ、可愛い後輩のためや、あ…。急にわたしのほうに向き直る。
自分、めっちゃ綺麗な髪してるなー、癖も全然ないしさらさらやん、あ、口説いてるんやないから安心してや、とその時はじめて褒めららた。
いっそのこと口説いてほしかった、という気分は否めない。
EならSは口説いたりしているのだろうか。
また気分が悪くなる。
悟られないよう微笑むと、今日は本当にありがとうございました、また頭を下げると、さよなら、と言ってSと別れた。
次の日、わたしはまた勇気を出してみることにした。
野球部に差し入れとして、定番のレモンの蜂蜜づけを作ろうと思い立ったのだ。
もしマネージャーがいたら、と思うと躊躇われたが少しでもSに近付きたい苦肉の策だった。
タッパーにそれを入れ、袋に包む。
本当にこれを差し入れることができるだろうか?
他の野球部の人たちも変に思うのではないのではないか?
Eの愛らしい顔を思い浮かべる。
あの子には負けたくない。
その為ならなんでもしてみせる。
自分でそこまでの勇気が持てるのは自分でも信じられなかった。
放課後、案の定グラウンドでは野球が行われていた。
おずおずとグラウンドの入り口に立つ。
グラウンドを見やるとちょうど部員達は小休止を取っているようだった。
勇気を出せ!自分自身を叱咤する。
グラウンドに入ると部員達が屯している階段に向かった。
部員達はわたしのことを不思議そうに見ていた。
そりゃそうだろう。
いきなり知らない女が入って来るのだから。
あ、自分どうしたん?確認するまでもない。
それはSの声だった。
昨日のお礼に差し入れを持ってきたんです。わたしは震える手でタッパーを袋から出した。
お、気がきくやん!みんなでいただこうや!Sのその一声で空気は和み部員達はレモンを口にした。
あー、やっぱり美味い!Sの言葉でわたしは勇気を出してよかった、と思った。
その時にTと出会う。
Tも野球部員で、レモンを口にすると、美味いね、これは誰にあげたかったの?と薄く笑った。
嫌な笑顔。
T、あんまり女の子をいじめるなよ、別にそんなことどうでもいいし。1人の部員がたしなめた。
わたしは自分の顔が真っ赤になるのを感じた。
Tは少し小柄で、校則が厳しくないとはいえ茶髪で長い髪を後ろで結び、耳元にはたくさんのピアスが光っていた。
意図的に見たわけではなかったがレモンを食べるときに見えた彼の舌にも大きなピアスが見えた。
苦手なタイプ…。
関わらない方がいい。
そう思う、わたしの耳に口を近づけると、お前Sが好きなんだろ?と、にやりと笑った。
昨日2人で焼き鳥屋に行ってただろ?たまたま通りかかって見たけど、顔を見ただけで分かる。お前はSが好きなんだってな。そう言うとTはさも可笑しそうに笑った。
小声なのでSにはもちろん、他の部員には聞こえてはいないようだった。
よかったらSのこと、色々教えてやってもいいぜ。その為にはちょっと頑張ってもらうこともあるけどな。
わたしも小声で、頑張る?なにを?と問うた。
それは今から考えるよ。そういうとTはその場から離れた。
嫌な予感。
頑張るって?
でもTを受け入れさえすればSのことをもっと知れるかもしれない。
わたしは複雑な気分になった。
部活が終わり、みなが解散し何人かはレモンをありがとう、と言ってもらえた。
Sも、よかったらまた差し入れしてや!と言ってくれてわたしはそれだけでも天にも昇る気分になる。
Sがグラウンドから出て帰るのを見届けてわたしも帰ろうとした。
すると、踵を返してきたTと鉢合わせをした。
思わず身構えてしまう。
あんた、家近いの?Tが言う。
ここからなら歩いて20分くらい…、言い終わらない内にTは、送るよ、車だし。と言う。
わたしは警戒した。
ドライブがてらにSのこと色々話してやるよ。同じ野球部だしあんたよりかはあいつのこと詳しいからな。
それでもわたしは首を縦に振れなかった。
大丈夫だって、同じ学校の生徒にややこしいことして処分なんて受けてられねーし。Tは呆れたように言った。
気の弱いわたしは断りきれずついにはうなづいてしまった。
今考えるとなんて浅はかなことをしてしまったんだろう。
わたしの人生は後悔ばかりだったけど、未だこの後のTの恐慌には、自分を責めることしかできない。
わたしにはそれはなんという車かは分からなかった。
駐車場に停められた、青い小さな車。
ミニクーパーだよ、知らないの?Tは笑いながら言う。
同じ笑顔でもSとは全く違う…。
わたしは再度、不安になる。
早く乗れよ、ほとんどTに押し込まれる形でわたしはTの車に乗ってしまった。
あいつはロックが好きでさー、よくライブとか行ってるんだ。洋楽もハードロックが好きみたいだ。いくつかバント名を言われたがわたしにはひとつも分からなかった。
あいつ結構、馬鹿なとこあってこの前なんか同じ牛丼屋で味が違うのかって他府県まで牛丼食いに行ってやがるの。Tは可笑しそうに笑いながら言った。
わたしの知らないSの姿。
Tのことは気に食わないがそれを話してくれるのはわたしにはありがたかった。
あんた、全然喋らないな。Tは少しイライラしてるように見えた。
それはあまり言われたくない言葉だった。
自分でそれはよく自覚している。
本当にわたしは無口で人見知りをして口下手だ。
なんとなく車窓に目をやる。
道は川沿いで少し狭い。
周りは静かだ。
街灯もぽつぽつとしかなく、暗い。
それをまたわたしを不安にさせる。
どこまで行くの?気分を払拭する為にTに聞く。
はは、別にこの辺でもいいけどさ。どうせ人通らないし。Tはそう言うとシートベルトを取り、わたしに襲いかかってきた。
驚いたわたしは短く声を上げた。
誰にも聞こえないよ。暴れてもいいけど余計痛い目にあうと思うぜ。あんた処女だろ?その言い方にわたしは全身に鳥肌が立った。
おれはあんたみたいな大人しい女と無理矢理するのが好きなんだ。顔はいまいちだけど体のほうは良さそうだ。
そう言うと、わたしのシャツを捲り上げてブラジャーを邪魔そうに上にたくし上げると乳房を乱暴に鷲掴みにする。
それは前戯とは程遠い行為で痛みが走った。
小さい胸だなあ。胸に触れながらTは言った。
虫唾が走り、懸命にSの体を引き離そうとする。
しかしもちろん男の力にはかなわず、逆にショーツを剥ぎ取られてしまった。
羞恥と戸惑いでわたしの目には涙が滲んでいた。
Tはそんなわたしの陰部に触れた。
ちょっとくらい濡らせろよ、まあ処女じゃ仕方ねーな。Tはおもむろにズボンと下着を脱ぎ、男性器を取り出した。
舐めろよ。
とんでもない言葉だった。
もちろんわたしにその経験はない。
躊躇うわたしの頭を掴むとTは硬くなった自分の男性器をわたしの口に含ませた。
塩辛く、生臭いようなその味に思わず吐いてしまいそうになる。
しかしTはそれを許さず、頭を掴むと喉の奥までそれを挿入した。
嗚咽がもれる。
苦しい。
しばらするとTはやっと男性器をわたしの口から引き抜いた。
これで終わったのか、と思うとTはわたしに覆いかぶさり座席のシートを倒した。
まさか、と思った瞬間にはTの男性器はわたしのそれにゆっくりと挿入してきた。
そしてわたしは処女を失った。
余りの痛みに涙と悲鳴が止まらなかった。
Tはそれにすら興奮していたようで途中でやめようとはしなかった。
避妊具は使ってもらえず、外に出したから大丈夫だろ。とまたTは笑った。
あんたみたいな女見てると本当にイライラするんだよね。言いたいことも言わず、陰気くさくて、それでプライドだけ高い女。おれが悪いと思ってくれてもいいけど愛する人の為だと言っても男の車に乗るとかあり得ないだろ。世間知らずのお嬢さま。わたしは慌ただしく服を着ながら、恐怖、憎しみ、怒り、悲しみに打ちひしがれてしまった。
その後、Tはわたしを家まで送り届けると、また相手してやってもいいぜ。と、今までで一番陰湿な笑みを見せた。
家に帰ると両親は就寝していた。
わたしは自分で風呂を沸かすと入浴をした。
身体を懸命に洗う。
汚らわしい、この汚れ全てを洗い流したい。
隠部を洗うと痛みが走った。
出血していたのかもしれない。
湯船に浸かると足早に自室に戻った。
ベッドに横になるとまた涙が出てきた。
Tを責めることもできたが、Tの言う通り車に乗ってしまったわたしの方にも非があったのだろう。
なんてことをしてしまったのか。
これがもしSの耳に入ったらどうしたらいいんだろう。
わたしは心から自分を責めた。
それから1週間、わたしは学校を休み続けた。
Tと会いたくなかったし、Sにも合わせる顔がなかった。
しかし母が不審に思ったようなのでいやいやだったが登校することにした。
放課後、校門のところに男子生徒が立っていた。
自分には関係ないと思ったので通り過ぎようとする。
片岡さん?と、声をかけられた。
振り返ると、そこにはレモンを差し入れしたときに喜んでくれていた野球部員の1人がいた。
また幼い顔つきだったが背が高い。
なんでしょう?と、聞く。
TとSが退学したんだ、と告げられる。
え?わたしは狼狽する。
言いにくい話なんだけど、この前Tとトラブルがあっただろ?それをあいつ自慢げに話してたんだ。いつもは怒ったりしないSなのに激昂してTを殴りつけたんだ。Tも前からそういうのがたびたびあったし退学になった。Sは責任を取って中退したんだ。
わたしは絶望した。
Sに知られてしまった。
学校もやめたのなら、Sとも会うことはできなくなる。
頭の中が真っ白になった。
Sからこれを渡してくれるように言われたんだ。小さい紙を手渡された。
電話番号書いておいたから何かあったら連絡するように言われたよ。わたしの陰鬱な気分は消し飛んだ。
少なくとも嫌われてはないと思えたからだ。
ありがとう、そう言うとその部員ははにかむように笑った。
家路に着く。
自室でSの書いたという紙を取り出す。
少し癖のある書き方で電話番号が記されてあった。
初めて見るSの文字。
わたしはTのことも忘れて、その紙を見続けた。
電話を今すぐかけたかったがその日はなんとか我慢した。
夜はなかなか寝付けなかった。
でもわたしの胸は幸福感で満たされていた。
次の日は日曜で、今日なら電話をかけても大丈夫かと電話番号を書いてある紙を見つめる。
すでに夕方だったので今ならタイミングは合うような気がした。
わたしは震える指で携帯を操作し、紙に書かれた数字をプッシュする。
間違えがないか何度も確認した。
また少し躊躇った後で発信ボタンを押した。
しばらくコールすると、もしもし?とSの声が聞こえる。
あの、片岡冬音です。分かりますか?
ああ、自分か。大丈夫やったか?わたしは居た堪れなくなる。
大丈夫か、とはTのことに違いないのだから。
本当は自分の軽はずみな行動を責められるのではないか、と思ってしまったのだ。
Sさん、学校を辞めてしまったんですよね。わたしのせいでごめんなさい。Sは電話越しに笑うと、気にしんといて、おれああいうの大嫌いやねん。自分が平気やったらええんやけどそうはいかんわな。あんなやつどつかれて当たり前や。そのくらいでも足りひんくらいやわ。あいつ前からそういうトラブルばっかり起こしてたんや。自分にも注意してやればよかったな。ごめんな。と、言い、わたしの視界は涙で滲んだ。
まさかこんなことを言ってくれるとは思ってもみなかった。
Sが、あ、ちょうどバイトの休憩時間終わるわ。と言うので、ごめんなさい、邪魔をしてしまって。と電話を切ろうとする。
駅前の喫茶店で働いてるねん。あのT路地の向かいの美容院の横。コーヒー美味い店やからよかったら自分も来いや。ほなまた電話して!そう言うと電話は切れた。
その喫茶店なら知っていた。
入ったことはないけれど何回か前を通ったことがある。
1週間もSを見ていない。
わたしはいけないことと知りつつ、Sの姿を盗み見るために支度をした。
バイト先を知って早速顔を合わせるのはバツが悪いと思ったから。
駅前までは徒歩で行ける範囲だった。
わたしは建物の影からSの働いている喫茶店に目をやった。
Sの姿はすぐに見つかった。
喫茶店の制服の彼はいつもより大人びておりわたしはその姿に釘付けにさせた。
Sは慣れた様子で注文を聞いていたようだった。
しかし、次の瞬間わたしは青ざめた。
注文をしていたのはあのEだったのだ。
声は聞こえないのはもちろんだが二人は楽しそうに会話をしていたようだった。
下腹部が冷たくなり、眩暈がする。
わざわざ日曜日にSのバイト先に訪れるほど二人の中は親密だったのだろうか。
わたしはその光景に戦慄きつつも、目が離せなかった。
午後8時。
Eは店内から出て行った。
Sは店の片付けなどを他の店員達と行っていた。
日曜だけこのシフトなのか、学校を辞めたからこの時間にバイトをしているのかは分からなかった。
バイトを終えたSが店内から出てきた。
話しかけたいがそんなことはもちろんできない。
せめて今日はこれで帰ろう。
しかし、わたしはまた驚愕する。
死角にいたEがSに駆け寄ったのだ。
二人は笑いながら会話していたようだった。
わたしは途方に暮れる。
一度も触れたことのないSの掌。
Eはそれに指を絡ませていた。
二人は雑踏に溶け込んでいく。
わたしは後を付けたかったがショックが大きくその日はなすすべはなかった
次の日、Sがいない学校へと気は進まないのに登校した。
夕食はいつも学食で食べていたのでその日も学食に向かう。
食事のトレイを受け取って食堂の隅に座る。
ふと、食堂に目を走らせると、もう見たくもない、Eの姿があって前に一緒に空き教室でSと3人で話し込んでいた子と笑いながら会話していた。
ね?馬鹿でしょ。とEは友人に言う。
あいつ気のある素振りしたらなんでも言うこと聞くしさー。そのくせ手をだすことすらできないとか。意気地もないくせね。Eと友人は可笑しそうに笑い合った。
自分の中で初めて感じた殺意に近い怒り。
この女さえいなければ…。
そんなことを思う自分に驚いた。
わたしは考える間もなく、Eと友人のいるテーブルに近づいた。
二人は怪訝な顔でわたしを見る。
Sさんを弄ぶのはいい加減やめてください。わたしは俯きながら言った。
は?あんた誰?そうEに問われると返す言葉がなかった。
先走った自分の行動にわたし自身が一番戸惑っていた。
もしかしてあんた、Sが好きなの?Eは意地悪そうに笑った。
あいつ意外と面食いだからあんたじゃ無理じゃないの?また友人と目を合わせると二人で笑う。
これ以上なにも言えなくなったわたしは居た堪れなくなって食事も途中なのに食堂から飛び出してしまった。
なんて事を言ってしまったのか。
悔しさと後悔で自分がとてもちっぽけで小さくなってしまった気がした。
Eのあの笑顔。
完全に見下された。
自分は恥ずべき人間の気がした。
その日はどうしてもそれ以上学校にいるのに耐えられずわたしは早退した。
その夜、10時頃。
驚くことに携帯にSからの電話が入った。
胸が高鳴り、嬉々として電話を取る。
しかしその電話はいつもとは違うSの声がした。
自分さ、Eと面識あったんか?低い声でSは言う。
え…、わたしは言い淀む。
今日、Eから電話あったんやけど自分に因縁つけられたって困っとったんや。
そんなつもりじゃ…、と言いかけると、何が違うんや?と冷たい声で返された。
人に因縁つけるとかあかんやろ。何があったかは知らんけど。自分のことええ子やと思ってたけど違ったみたいやな。わたしは言葉を返せない。
今にも泣いてしまいそうで声が震える。
…ごめんなさい、そう言うと、とにかくもうそれはええけど、自分みたいに人にそんなこと言う子とはつるみたくない。悪いけど電話番号消しといて。そう言うと電話は切れた。
わたしは悲しみに暮れた。
どうしてこんなことに?
そもそも見ているだけで満足だと思っていたのに。
欲をかいた自分に天罰が下ったのだろうか。
ああ、神様。どうか時間を戻してください。
しかしそんな願いはもちろん通じず、わたしは一人で泣くしかなかった。
もしわたしがもっと可愛かったら。
淀みなく話せる子だったら。
こんな暗い子じゃなく誰にでも好かれるような子だったら。
いくら願ってもどうしようもない。
わたしは全てを失ってしまった、と喪失感に襲われた。
わたしにはもう何もない。
わたしはそれから学校を辞めた。
それからは毎日自宅に引きこもるようになった。
父や母は心配をしていたが、わたしは何も聞き入れなかった。
暗い性格はますます拍車をかけ、わたしは更に自分に対して嫌悪感を覚える。
食事もろくに摂らず、元から少なかった体重はどんどん減っていた。
無理矢理、食べようとしても体が受け付けず全て吐いてしまうのだ。
つるみたくない、Sの言葉が刺さる。
Eはそれを見通してわざとSに因縁をつけられたと相談したのだろう。
また、あの女がいなければ、と思った。
だけど分かっていたのは自分が一番いなくてもいい、ということだ。
そんなことを言っているうちに季節は巡り、夏が来た。
蝉の声がうるさい。
クーラーをつけているので気温は気にはならないが日差しの眩しさに目を細めた。
ベットから立ち上がると、窓際に行きカーテンをしっかり閉めた。
またSのことを想う。
わたしはあれだけ言われてもまだSのことが好きで仕方なかったのだ。
数週間ぶりにわたしは外出することにした。
母はそんなわたしに、暑いから気をつけてね。冬音は夏に弱いんだから。と久しぶりの外出に嬉しそうに言っていた。
そんな母に、すぐ帰る。と告げるとわたしは家を出た。
地味な黒いワンピース。
日光を吸収するせいで余計に暑く感じる。
せめて帽子を被ってきたらよかった。と思った。
行き先はSのバイト先。
わたしは自分の想いをSに伝える気でいたのだ。
このまま会えなくなるのは余りにも悲しい。
断られるのは分かっていた。
しかし、それでもわたしはSに伝えたかった。
Sのことを、心から好きだということ。
Sのバイト先の喫茶店に着く。
身を隠すようにして陰から様子を伺う。
まだSはそのバイトを続けていたようで、相変わらずわたしの大好きなあの笑顔で客に接していた。
久しぶりに見るSの姿に、わたしは嬉しくて堪らなかった。
前は8時過ぎにはバイトを上がっていたけれどその日は夕方にSは喫茶店から私服で出てきた。
わたしは人目をはばかうこともなく、Sに近づき、Sさん、と声をかけた。
Sはわたしの姿を見やると、思った通り怪訝な顔をした。
なんなん?やはりその口調は冷たい。
わたしはたじろいだが思い切って言葉を連ねた。
わたし、Sさんが好きなんです。Sは呆気に取られたような表情をした。
せやから待ち伏せて…。Sは顔を歪ませた。
ごめんなさい、どうしてもこれだけは言いたかったんです。だめなのは分かってます。ストーカーみたいな真似はしたくなくて…。そういうわたしにSは、十分ストーカーやん、と、言った。
わたしは驚いた。
自分のしている行為がそれに当たるとは思っていなかったのだ。
世間知らず、そういうことだった。
自覚のない自分の行為にわたしはその場から消えたい、と思った。
Sは、自分がおれをそう思ってたのはなんとなく気づいてたんやけど、自分は一生懸命になり過ぎて自分のことも見失ってしもてるやろ。そういう子は可愛くないで。自分をしっかり持って、自己主張くらいできひんかったらな。そう言われ、わたしは眩暈がするのが抑えられなかった。
頑張って、自分を見つめ直しいや。そしたらその内に彼氏でもなんでもできるよ。無言のわたしにSはまた、頑張れよ。と言った。
そしてSはそこから去って行った。
周囲の人達がそのやり取りを聞いていたようで、あっさり振られたわたしを笑っていた。
わたしも放心状態でそこにで立ち続けた。
蝉の声がまた耳をつく。
うるさい…。わたしは呟くとやっとその場を後にした。
自宅に帰る。
母はわたしの青ざめた顔を見て心配していたが、なんでもない。と言ってわたしはまた自室にこもった。
さっき起きたことが信じられなかった。
断られることは覚悟していたが、ストーカー扱いされて頑張れ、と。
頑張れってなに。
わたしはわたしなりに頑張った。
努力が足りなかった?
でもこんなわたしにどんな頑張りようがあったというのか。
頑張れ、また頭の中で復唱する。
頑張る、わたしにはこれが精一杯だった。
それからわたしはSの通うバイト先にこっそり様子を伺うようになった。
Sは存在感のないわたしには全く気付かず相変わらずの笑顔を客に振りまいていた。
もう関わることはできないと分かっていて、それでも諦めがつかず、せめて陰から見守りたかった。
そんな日が続いて、秋の初め。
不意にSがバイト先に現れないようになった。
わたしは気が気でならず、それでもしつこくバイト先に通った。
しばらくし、おそらくSはバイトを辞めてしまったのでは、と悟る。
わたしは躊躇したが、思い切ってその喫茶店にはじめて入った。
いらっしゃいませ、爽やかな声で若い男性店員がわたしに頭を下げた。
わたしは窓際の席に着いた。
いつもわたしがSを見つめていた建物の陰を見る。
車も通るので本当に注意していなければ見つかりはしなかったのだろう。
さっきの店員が注文を聞きに来たのでコーヒーを頼むと、Sさんはバイト辞めたんですか?と声を掛けた。
店員は、ああ、と頷くと、1週間くらい前に辞めちゃいましたね。どうやら引っ越しをしたみたいで。と言う。
わたしは咄嗟に、どこに越されたか分かります?と聞く。
店員は少し警戒したような顔だった。
急いで、同じ学校に通ってたんです。前にお金を借りたことがあるのでどうしても返したくて。と言った。
店員はそれで納得したようで、他府県のようではっきりしたことは知らないんです。と申し訳なさそうに言った。
そうしてSとの接点は完全に途絶えた。
わたしはどこにも行かず、自室にずっと引きこもり続けた。
わたしが二十歳になった時、父が肺炎でなくなった。
その一年半後、母も交通事故で亡くなった。
わたしは本当に一人っきりになった。
それでもわたしは両親の死にはあまり悲観しなかった。
それよりもSのことが頭を離れず、両親の死すらわたしにはどうでもよかったのだ。
幸い、両親が亡くなってもこの家と、遺産を相続することが出来たのでわたしの生活は続いていく。
わたしは今でもSを想う。
あれから15年経った今でも。
毎晩のように彼の夢を見る。
至福の喜び、そして目覚めて落胆。
繰り返し繰り返し何度も。
瞼に焼き付けた彼をうつす。
何度も何度も。
拒否されてしまった、はじめての想い。
わたしから去ったあの後ろ姿。
このままならわたしは二度と彼と会うことはないだろう。
でも、今更自分に何ができるというのだろう。
わたしは夢の中の自分にいつも嫉妬していた。
わたしは一度もSに触れることすらできなかったのに。
夢の中のわたしはSと触れ合い、微笑み合う。
なんという皮肉。
わたしはまた、チラシを見る。
この前、ポストに投函された探偵所のチラシ。
恩師、友人、元恋人、それらを見つけると謳っていた。
本当に15年間、音信不通だった一人の人間を見つけ出すことが可能なのだろうか。
いつも一歩踏み込ず、わたしはそのチラシを眺めている。
31歳、このまま老いていき、Sと二度と会えないのは嫌だった。
会う、そこまでじゃなく一眼見るだけでもいい。
わたしはやっと決心し、探偵所の電話番号を押した。
次の日、指定された時間に探偵所を訪れる。
久しぶりに出る外は冬のせいで傘をさしていても肩に雪がつもってしまう。
雪の中、なんとか探偵所にたどり着く。
部屋に通され、熱い茶を淹れてもらった。
色々、Sについて質問をされたがわたしの知っている情報はかなり限られていた。
それでも、一縷わわの望みを託しわたしは知っている全てを話した。
担当の探偵は気難しそうな初老の男で、小さな目を瞬くと、これならみつかりそうだな。と頷いた。
わたしの胸は大きく踊った。
それから数日が経ち、意外と早い段階で、探偵からの電話が鳴った。
急いで携帯に出る。
見つかりましたよ、探偵が言う。
わたしは喜びのあまり携帯を取り落としてしまうほどだった。
Sさんという方はK公園で住所不定で暮らしています。探偵はそう告げた。
k公園はこの市内にあり、それならSは引っ越し先の他府県だと言っていた場所からこちらに戻ってきたようだった。
一体Sに何があったんだろう。
あのSが住所不定?
それはホームレス、だということなのだろうか。
雪はやまない。
こんな寒い中、彼は震えているのではないだろうか。
わたしはまたSの笑顔を思い浮かべる。
もし、会いに行っても気持ち悪がられるのは分かっていた。
15年も経ち、尚も自分を思い続けているなんて気分のいいものではないだろう。
分かっている。
でも、せめてもう一度Sの姿が見たい。
わたしは手早に支度を整えると、K公園へと向かった。
雪は本当によく降り、太陽も翳ってしまっていた。
もう昼時だというのにそれが信じられないような寒さだった。
しかし、母のくれた名前、冬に因んだわたしは雪が好きだった。
Sに会える、わたしの胸は期待に満ち溢れ、寒さを忘れたかのように歩を進めた。
K公園に着く。
そこには昔、真ん中に大きな木が立っていた。
しかし、子供が登って事故を起こすのが連発したのでその木は切られている。
そんな公園の隅にはブルーシートやテントが連なっており、申し訳程度の木でできたテーブルと椅子のところで三人の男性が酒を飲んでいた。
Sの姿が見当たらない。
15年経っていようがわたしはSを見間違うはずはなかった。
なにか用かい?酒を飲んでいたホームレスの一人がわたしに声を掛けた。
Sという人を探してるんです。関西弁の…。わたしが言うと三人とも、ああ、と頷いた。
あいつならあっちのベンチで座ってると思うよ。こんな天気じゃ雪だるまになっちまう。あいつには協調性というものがなくてな、と、かかと笑う。
言われたベンチに目をこらす。
雪の吹き荒ぶ中、遠目にわたしはSの姿を認めた。
わたしは考える間も惜しむようにそこまで走り出した。
Sは全身雪だらけでぼんやりと何もない宙を見ていた。
Sさん、わたしは声をかける。
Sはわたしを見ると、誰や?と言った。
片岡冬音です。同じ学校だった。
Sはしばらく考え込んで、ああ、自分か。と頷いた。
わたしは彼の記憶に自分がいることに喜びを隠せなかった。
あの時はごめんなさい。わたしどうかしてましたよね。そう言うとSは昔通りに笑った。
自分まじで怖かったわ。と言うか今も怖い!なんでここにいるの分かったん?冗談混じりだったのでわたしは安堵する。
それは、まあ…。ところでどうしてこんなところで?わたしは必死に誤魔化した。
あれから色んな職についてな。ある会社で仕事仲間が借金で苦しんでて、いわゆる連帯保証人になってしもたんや。よくある話やけど身ぐるみ剥がされて何もかも失った。もうなんもする気力もなくてな。気づいたらホームレスの仲間入りや。でもどうしても馴染めへんくてこのベンチにずっと座ってるんや。自嘲的に笑う。もう帰るとこなんてないわ。Sは軽く鼻を啜る。
Sは無精髭だらけで、痩せて、すすけた服を着込んでいた。
寒くないんですか?わたしが聞くと、そりゃ寒いに決まってるやん。と少し咳き込んだ。
なんとなく間が空く。
こんなに長い年月を経てしても自分の想いが変わってないと確信した。
わたしはもう躊躇いをなくし、再度あの言葉を口にした。
Sさん、わたし、あなたのことが好きです。それをまた言葉にできたことへの感動でわたしは思わず涙を流した。
Sはしばらくわたしの顔を見つめた。
あれから何年経ってると思うん?可笑しそうに笑う彼を見てわたしはもう少しの勇気を出した。
帰る場所がないのならわたしのところへ来ませんか?
とうとう口にした。
両親が亡くなった時からわたしはそう願っていた。
一人きりの毎日、夢でしか見れないS。
もし、ここでSと一緒にいれたら、と。
ずっとずっと夢見てた。
多くを望んだことはなかった。
ただそばにいてくれればよかった。
それが打算であってもいい。
Sと共に生きていたい。
溢れかえるほどの長い長い年月。
わたしが切望していたこと。
Sは驚いた顔をした。
しばらくの無言。
Sはそれからゆっくり口を開いた。
何を言うてるねん。おれ、こんなやで?と、目線を逸らす。
冗談とかじゃないんです。わたしはSさんがこんなところで暮らしてるなんて耐えられない。わたしは真顔で言う。
自分、ほんまにおれのこと好いててくれたんやな。その言葉にわたしの頬は赤くなった。
ほんまに、ええんか?俺は昔自分に辛く当たってしもたのに。Sの声は心なしか震えているようだった。おそらく寒さのせいだろう。
いいんです。わたしはまだ涙を流しながら言った。
Sはしばらくの間、わたしを見つめると、小さな声で、ありがとう。と言った。
感情が昂ったわたしは何も言えないでいた。
おお、さぶ。Sは手袋もしていない手を擦り合わせた。
わたしはそんなSに右手を差し出した。
左手で涙を拭う。
一緒に家で温かいもの食べましょうよ。何が食べたいですか?
Sは、甘いもんに飢えてるし、寒いしぜんざい食いたい!と、言いわたしの右手を掴むと立ち上がった。
はじめて触れた、あれだけ恋がれていたSの掌。
それは少しカサついて冷たかった。
それでもわたしは嬉しくてどうにかなってしまいそうなほどだった。
これからどうなるか分からない。
こんな突発的な生活がいつまで続くのかも分からない。
また、悲しい結末になるかもしれない。
それでも、わたしは…。
傘をさしながら二人で雪道を歩く。
ふいに、Sがわたしの髪に触れた。
相変わらず、綺麗な髪やな。そっとSは微笑んだ。
わたしも微笑んだ。
自分の人生にこんな幸運が舞い込むなんて夢のようだった。
これで当分、Sの夢は見ないだろう。
彼はしばらくでもそばにいてくれるから。
わたしは神様なんていないと思っていたがもしかしたら神様は存在するのかもしれない。
夢は現実となったのだ。
わたしは神に感謝しながら、Sと二人、公園を後にした。