沼の通過
土地の起伏と森から突き出る枝に隠されている沼は、その姿を表す前に毒気を含んだ空気を届ける。
死の平原をものともしない銀紐隊でも、慣れない環境に緊張が走った。平原のこの辺りには、ヴィルヘルムとフリードリヒ、そしてゲオルク位しか来ない。討伐遠征でも滅多に来ることがないのだ。
通常の遠征では、門を出たら壁沿いは進まず、真っ直ぐに死の平原に入る。壁については、別途城壁の保守点検が設けられているからだ。稀に、壁に巣が多く作られると、壁周辺を集中的に掃討するのだが。
それで、事前の打ち合わせでは、沼の瘴気を吸い込まない対策が十全に練られた。沼周辺の地図は、かなり昔に作られたものだ。そこで、ヴィルヘルム達三人の実体験を踏まえた訂正が必要だった。最新の状況に合わせた装備も、裁縫屋マックスが新しく整えた。
「マスクを装着」
揃いで着込んだ胴着は、首の部分が伸びる。単なる布ではなくて、きちんと毒ガス避けのマスク機能が付けられている優れものだ。
「あれ?」
隊員達が、ジンニーナの防毒障壁を感じた。魔力を持たない人々でも、守りの魔法をかけられる感覚というものはある。
ハインリヒ・ハインツ城塞騎士団長に気取られないように、事前の説明がなかった為、皆は一瞬戸惑ったのだ。
ジルベルトにだけならまだしも、集団に遠隔魔法を掛けられると知られれば、また民間協力を要請されてしまう。
それを避けるために、ジルベルトは黙っていた。
まして、夫婦の魔力循環を利用した、ジルベルト専用の常時発動型守りの壁については、隊員にすら秘密だ。
万が一団長に知られたら、集団への応用を開発してほしい、との依頼が来るに違いない。
現在遠征に出ているのは、死の平原に居るジルベルト達銀紐隊だけではない。モーカル港と、堅塩鴎の飛来する崖にも、それぞれ討伐隊が派遣されているのだ。
三ヶ所同時に集団への遠隔魔法をかけるのは、いくらジンニーナでも過重労働だろう。
「通信切ったままにしときますか?」
天才通信員ジークフリート・エルンストが問えば、神速記録係ルードヴィッヒ・シュヴァンシュタインも、
「オフレコですね?」
と、確認をとる。
ルードヴィッヒは、ティルの地図とは別に、行動記録を付けているのだ。彼は、記録作成が神業的に速く正確な隊員だ。大抵の仕事は、帰還と同時に報告書を提出する勢いである。
得物は短剣。投げてよし、切ってよし、懐に飛び込んで刺してよし。今も、記録を取る傍ら、ひょいひょいと投げるダガーで、森から這い出す万力蛇を仕留めている。
このダガーは、使い捨てだ。上着の裏側に大量に仕込んであった。かなりの重量に成る筈だが、ルードヴィッヒ・シュヴァンシュタインは、涼しい顔で歩いて行く。
隊員達の視線が、一斉にジルベルト・タンツの冷徹そうな薄紫の瞳に集まる。
ジルベルト隊長は、無言で頷いた。
ジンニーナの遠隔魔法は、文字通り、オフレコードと決まった。記録には残さず通信にも乗せない。それが隊長の意思だった。隊員達も、その判断に納得の意を示す。
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