人間になりきれなかった人間
ペットボトルから流れる水は生きている。生きているから口に入る。
ふと寝る前に、もう少し起きていたくなった小さな欲望と。朝起床して、もっと多くの時を寝ていればと後悔する人の様。
人が英雄と掲げられる時代に平和はない、平和とは頂点が居ないことを云う。
人の知識は可能性であり、正解ではない。
80年本を読み続けて得た答えは、つまるところこの時間が無駄だったことである。
私は不幸な男だ。
私は不幸な男だ。
人、それに通ずる周りの全てが幸福に見える。
だが、幸福とは幸福を問題にしない時を言うらしく。私は瞳を閉じている時こそ問題にしない。
かくして、私は幸福など存在しなかったと。なれば、この瞬間こそが幸福そのものであると言えて差し支えない。
──一人の男が走る。私は類稀なる超能力者なので、それを目で追う必要も無く、視線を落とすだけで人間が走っていると十分に判断できる。
「この先に桜が見えたらしいぞ」
こだまするように騒ぎ走る。辺りの人間は反応しない。子供達が遊んでいると思ったのだろうか。
だが不可思議かな、一人の男、だ。
「はぁはぁ……疲れた」
ふと漏らしてしまった溜め息、動くのは方ばかりで口なんか分からない。
走った先は無意識だったかもしれない。いいや、無意識じゃなかったと信じたかった。
見上げる。 見上げる。
桜花、開花、舞。一目見て思いついたのはその単語だった。
「私には桜が舞っているようにしか見えないが」
呆れた感じに呟く。確かに綺麗だし、美しい。
だが所詮は桜、風に吹かれ花びらが落ちているだけだ。
「あぁ……!だから桜が舞っているんだ!」
私は再び首を傾げる。
「お前は……なにを見ているんだ?」
「桜だよ、俺もそれを見たんだ」
ゆっくりと首を傾げる私に対し、男は神でも見ているかのような目で桜に注視し続ける。
そうか。私はちっぽけな人生を送ってきたのだな。
木霊の中でそう理解した。
吹き荒れる桜と当たり前の世界。
そうだ。当たり前の世界に浸っていたのか。私は。
振りむけば歩んできた道がある。とても凄い事だ。
何故なら、私はその地に足跡をつけていないからだ。その道を道と思うに至らない。
「なあ、もう一度聞いてもいいか」
「なんだい」
霞む視線を男に向ける。
電柱に落とされた亡霊の間際、開闢と終焉の終わりなき日々。
「お前は何を見たんだ?」
「……」
男はしばらく沈黙した。
そして青い空へと指を立てた。
「その答えは俺には出せない、俺は生きていないからだ。生きているのはこの身体で、この神経で、俺と言う意志はコイツらのものだ」
「嘘を。この世界に神は存在しない」
「そうかい、ならこれで別れの挨拶としよう」
男は満足した表情で立ち去ろうとする。
それは引き止めなければならない意志。
男は知っていた。知っていた答えに結論を見出した。
虚ろな人生を送り、綴り、そして灰の様に消えていく。そんな人生があっても。
「──お前は何を見たんだ?」
私は大きな声でその後ろ姿に声を掛けた。
何度も繰り返した運命の狭間から。自分が生きてきた意味を出すために。
「……桜さ、桜を見たんだ」
男ははっきりと、口元を上げているのが分かった。
思えば陽が昇る、虎の進行。不格好な格好の虎登り。
そうさ、桜を見たんだ。それは「桜」として、俺の目に映るんだ。真だ。
「俺はそうさ、人間だと思っている。だからお前もきっと人間だ。お前の意志は人間と言う媒体を得て発している仮初にすぎない。そうだろう」
「俺は桜を見たんだ。だが桜しか見れなかった。お前は一体何を見たんだ?」
「それだよ、俺が見たのは」
長い時を掛けて歴史を学び、狂い、原点へと回帰する。
男が水を飲み干す口に。掛ける言葉などない。
「──俺達は一つの真理を知ったんだな」
「真理は知った時点で真理じゃない、思い返せ。俺はどこにいる?」
「ああ、いるさ。桜の木の下に。お前はいつも俺の下から離れようとしない」
照らす太陽は後頭部を覆い、救いようのない自分を明るくしてくれる。
ましてや自分のことだ。分からないはずもない。
「もう夕暮れだ。夜は嫌いだろう?」
「ああ、夜は一人になるからな」
這い寄る悪魔はいつも人間、人間が作りし人間の世界だ。
そこに希望的観測を正す概念はつまるところ、汚物である。
「そろそろ、診察の時間ですよ」
意識が離れ、現実は戻る。
男は桜の木からゆっくりと離れて行った。
当たり前は当たり前じゃなくなって、私はまた、現実の世界へと戻っていく。
揺れる光に焼かれながら、ペットボトルを口につけて余った水を飲み干した。
「何が見える?」
「──何も」
私は紅色に染まる葉を踏みしめながら。希望に満ちた死屍累々の現代社会へと向かっていった。