分からない。それでいいと思う。
詩のような、随筆のような。
SNSで、
思想をつぶやく人がいる。
内容の善悪だとか、そういうのは置いておいて、それは尊いことだと『私は』思う。
それに返事を返す人がいる。
内容の善悪だとか、そういうのは置いておいて、それも尊いことだと『私は』思う。
でも、やはり大事なのは中身。
人は、その行為のみを見ることなど無いのだから。
私はこの【小説家になろう】にて小説をよく書く。
ライトノベルと呼ばれる、登場するキャラクターを中心として物語が紡がれ、「泣いたり、笑ったり」を重視する、娯楽性の高いものだ。
稚拙ながらも、誰かに読んでもらって、楽しんでもらうことに喜びを感じているから、私はここで小説を書いている。
稚拙な文章を書くが故であろうか、それとも、当然のことなのだろうか。
時折、私は心にある情景や、心理、真意を「伝えられているか」という不安を抱える。
もしかしたら、時折という表現は間違っているかもしれない。
不安の原因は――『文章というものの限界』、
ではないかと最近思うようになった。
ああ、読みたくないな。
そう思った方はそっと、ページを閉じてしまっていいと思う。
これは私個人の妄想であり、主観であり、ただの『独り語り』なのだから。
私が小説を書くとき、『読みやすさ』というものを意識してはいない。
いや、もしかしたら意識しているのかもしれない。
私が書くときもっとも大事にしているのは、『美しさ』だから。
ああ、楽しい。生の自分がここに表れている。
ああ、嬉しい。読んでいる人がここにいる。
ああ、素晴らしい。
数学で証明を書くとき、証明の文章の『美しさ』について説かれたことがあった。
「証明の文章は、逆三角形を描くものが美しい」
はて、どういう理由だったか……?
数学の問題は、始めは多くの情報を持っている。
証明は、その整理を行い、1つの解へと持っていくことを目的としている。
表現が違うかもしれない。
情報は整理され、数を減らしていく。
式は洗練され、項を減らしていく。
解は形作られ、1つになる。
逆三角というのは、その流れを意味している。
その人はアンリ・ポアンカレの本を読み、こう言っていた。
「数学とは調和の精神である。美しくなければ数学ではない!」
『美しさ』とは『読みやすさ』なのだろうか。
それは知らない。分からない。
しかし数学の『美しさ』は、数学に魅了された者が理解している。
私も数式を書くとき、『美しさ』を気にしている。
私は自身の小説に、『美しさ』を望んだ。
証明の『美しさ』と小説の『美しさ』は、全く異なるものだった。
しかし、私は望んだ。『美しさ』を。
はて、私の文は今、美しいだろうか……?
私は今――これを書いている間、悩んでいない。
書くことに悩まないことにしている。
いつもは、ずっと、悩んでいる。
台詞回し、地の文と台詞の使い分け、一人称、語り手の印象、等々。
しかし、今は悩んでいない。
ふと思い浮かんだこと、今考えていること、全てをここに記している。
『生の私』だ。
『美しさ』を、『生の私』は理解していない。
でも、『感じ』てはいる。
故に、何度も読み返しては、『美しい』と『感じる』かを悩んでいる。
これは、どこかへ向かう文章ではない。
悩んだ末に最後の妥協で、私の小説は積み上げられていく。
故に私は、私の作品を心から愛してはいないのだろう。
妥協の積み重ね、そんなものを愛せる人間はいるのだろうか。
しかし、私は妥協せざるを得ない。
私の力が足りないが故。
文章に限界が無いが故。
……矛盾か?
いやしかし、文章というものには限界がある。
会話にあって、文章にないものが確かにある。
故に私の心にあるものを、伝えることはとても難しい。
それは『生の私』を書いていても同じ。
伝わっていることなど、ほとんどないであろう。
私が、文章に求めることなど何もない。
私は、文章に望むのだ。『美しさ』を。
結果なぞ知るものか。知れるものか。
結果なぞ分かるものか。分かれるものか。
意味なぞ知るものか。知れるものか。
意味なぞ分かるものか。分かれるものか。
全て、知らなくていいはずがない。
全て、分からなくていい。
ああ、疲れた。
分からなくていい。
いつか分かるかもしれない。
いつまでも分からないかもしれない。
今は、分からなくていい。
知らなければいけない。
いつか知るかもしれない。
いつまでも知らないかもしれない。
今、知らなければいけない。
書けば書くほど、文章の形は無限に変わり、文章の中身は無限に増えていく。
書けども書けども、文章の姿は有限であり、文章の意味は有限になっている。
ああ、分からない。
伝わらない。
それが分かっている。
伝わらない。
それを知っている。
伝わらない。
それでいい。
『私が』望むのは『美しさ』であり、『読みやすさ』――『伝わるか』ではない。
私は小説を『描いている』。
文章は芸術であり、小説は作品である。
つぶやきもまた、作品だろうか。
分からない。
主義、主張、思想……個々にあって当たり前のもの。
私は、それらを分かることはできない。
故に、私は理解されようとしない。
故に、私は『美しく描こう』とする。
……この文は、私の中で形になっていない。
「俺の崇高な理想」
嫌い。
「僕は悪い人だ」
嫌い。
「俺に出来ることは祈ることのみ」
嫌い。
「本当の善は――」
嫌い。
私は分からない。
真意が、背景が、感情が。
だから、私の好き嫌いで一旦終わりにしてしまう。
いつか、分かるときが来るまでそのままにする。
そんなに自分を褒めるなよ。
ごめんなさい。
私の好きを、今書くことができない。
嫌いばかりでごめんなさい。
互いの主張に違いがある。当たり前。
互いの主張を批評する。当たり前。
ああ、嫌い。
ああ、好き。
認め合い。好き。
貶め合い。嫌い。
いがみ合い。嫌い。
睨み合い。好き。
奪い合い。好き。
高め合い。好き。
諦め。嫌い。
褒め合い。嫌い。
正しい。正しくない。
大切。大切じゃない。
美味しい。不味い。
好き。嫌い。
違う。
君の声は好き。
君の思想は嫌い。
君の意志は好き。
君の言葉は嫌い。
君の主張は好き。
君の主義は嫌い。
自分がそんなに尊いのだろうか。
私は分からないから、知ろうとする。
でもそれでも分からないから、私は好き嫌いだけ言う。
否定もしないし肯定もしない。
認めないし。消しもしない。
私は間違っている。
文章が『美しく』ないから。妥協したから。
会話には言葉以外の情報がある。
心が、伝わるかもしれない。
文章には、限界があって、限界がない。
いつまでも、『独り語り』ができる。
いつでも、叩きつけることができる。
もう、終わりでいいかな。
どうか、全てを認めないでください。
どうか、全てを消さないでください。
どうか、全てを肯定してください。
どうか、全てを否定してください。
ここだけ悩んだな。
ああ、美しく、ない。
衝動のままに、書き連ねました。
そのときに思ったこと、そのときに考えてたことがそのまま文章になってる部分も多いです。
訳が分からないうえに、私っぽくないし、そもそも作品なのかさえ怪しいものですが、これは本当に、生の私が書いた、独り語り――文章です。
最後まで読んでくださった方には、大きな感謝を。
この独り語りが、貴方に何かを与えたのであれば、それは私の喜びです。
何も分からなかったのならば、分からないままで大丈夫です。
ただの、独り言ですから。