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それにしても人は、なぜ攻撃的になるのだろうか? 何がスイッチとなって、他人を攻撃するのだろうか? 自分を棚に上げて目上の人間を攻撃したり、自分と関係のないただの二次媒体作品を攻撃したがったりなど、そういった攻撃性の誘因は一体なんなのだろうか?
怒り自体は防衛反応によるものだろう。自分の心が脅かされているために、それを必死に守ろうとしているのだ。そして、攻撃を誘発するのだ。目上の人間を陰で攻撃するのは、勝手に脅かされている自分の自尊心を守るための行為なのだろう。
ならば、自分に危害を加えない、自分とは関係のないものを攻撃するのはなぜだろう? 自分を脅かすわけでもないものに攻撃をするのは、防衛と言えるだろうか。蟻の巣を壊したり、馬鹿な奴を面白おかしく貶したりするのは、怒りによるものではないのか?
そうかもしれない。しかし、そうではないのかもしれない。もしかしたら、両者の攻撃に厳密な区別はつかないのかもしれない。なぜなら、怒りの対象と攻撃対象がずれているのかもしれないからだ。ずれの存在によって、攻撃の理由が、不特定の直接関係のない誰かに脅かされたことである可能性が否定できなくなるのだ。蟻を虐殺するのは、普段他者から与えられているストレスのせいなのかもしれない。
そもそも、攻撃によって、何を得られるだろうか? 排除ではなくいたぶるための攻撃は、ほとんど優越感を求めるものだろう。優越感を得たいから、攻撃をするのだろう。
ではなぜ、優越感を得たいのだろうか? ご飯を食べたいのは、食欲に突き動かされたからだ。同様に、優越感を得たいのは、優越感を得たいという欲求があるからだ。これはつまり、アプリオリで機構的な優越感を求める欲望が存在するということだろうか。もしくは、怒りを前提とした優越感を求める欲望なのか。結局は他者からの圧力が生み出す不純なものなのか。
そうかもしれないし、そうではないのかもしれない。言いきれないのは、「なぜ優越感を得たいのか」という理由が、直接優越感に関わってくるからだ。こうした理由如何によって、人はいくらかの優越感を得られるのだ。つまり、どう答えるかが自分の人間性を指し示している。あけすけに優越感を求める答えは浅はかだ。直接的に優越感を求める人間はみっともない。逆に、優越感に捉われない人間は優れている。そういう答え方をする人間は格好いい。だから、優越感を得たい理由を人に問うても、厳密な答えは返ってこない。答え方によって優越感を必要としないアピールができるのだ。そのアピールは優越感を創りだす。優越感を求める気持ちが、答えに影響してしまうのだ。
人にとって優越感は何が何でも欲しいものだろうし、攻撃は優越感を得るにはうってつけの行動だろう。単純に誰かを打ち倒してもよし、また実際に倒してなくとも倒した気分になって優越感を得るもよし(これがまた集団においてよくよく発生する行動なのだが)、もしくは攻撃と反抗をすることによって特異な自分を演出して自分を肯定するもよし。実際に、中学生くらいになると、サイコパスを気取ったり暗黒微笑とかして自分の特別感を出したがる人間もいる。
そうしたときの気分は最高だ。ご飯を食べるときに感じる幸福感、それに匹敵するような気分だ。なら、誰かに脅かされるまでもなく、人はこれを求めたりしないだろうか。空腹からじゃなく、甘いお菓子を食べたくなる気分で、誰かを攻撃したくなっても自然ではないか。
しかし、日々受けるストレスとそうした攻撃性に因果関係が無いとする理由にはなり得ない。
甘いお菓子を食べたくなるとき、空腹と関係のないことを示すにはどうしたらよいのか? ガムだとか、栄養にならないものを欲したらそう言えるだろうか? しかし、空腹感を紛らわすためにガムを噛むこともある。噛むことが満腹中枢を刺激するということもある。口の中に入れる行為が、擬似的な食事のためのものであり、それが空腹感からくる欲求であることも否定できない。あくまで、空腹感が存在する限り、ガムを求める欲求との因果関係の存在の可能性は否定できないのだ。
それならば、空腹感のない状態で、甘いお菓子を食べたくなったら、因果関係のないことが示せるように思える。ご飯を食べた直後に、胃の中に内容物が八割以上を占めている状態で、甘いお菓子を食べたくなれば、それは空腹感と因果関係のない欲求と言えるかもしれない。
しかし、食後であることが、胃に食べ物が詰まっていることが、空腹感が少しも生じないという理由になるのだろうか? もしかしたら、よく噛まないで食べて、満腹中枢を刺激せずに食事を終えてしまっているのかもしれない。その場合、食後に空腹感が残っていても不思議はない。その時点で甘いお菓子を食べたくなっても、そのことは因果関係が無いことの証明に寄与しない。過食症の例もある。胃の内容物と空腹感は必ずしも連関しない。
ならば、満腹の状態で、甘いお菓子を食べたくなったら? 良く噛んで満腹感でいっぱいの時に甘いお菓子を食べたくなったら、空腹感と関係のないことを示せるだろうか?
それを示すためには、満腹感と空腹感との関係性を示さなければならない。満腹感と空腹感は同時に存在し得ないか? 同時に存在し得ないとして、満腹感と空腹感の間は連続的であるのか? つまり、満腹感を得た直後に空腹感を得て、また満腹感を得ることは考えられないのだろうか? 満腹感を得ているときに甘いお菓子を食べたくなったとして、それが外的刺激から反射的に空腹感を得たことによる瞬間的な欲求であることがどうして否定できるだろうか? その欲求をきっかけに、空腹感が発生してしまうかもしれないことをどうして否定できるだろうか?
満腹感と空腹感を、定量的にしっかりと計測できない限り、このように何とでも言えてしまうのだ。そして、優越感と劣等感は定量的に計測できない。ならば、攻撃による優越感を求める行為が、防衛反応からの怒りを発端としていないことをどのようにして証明できるだろうか?
行動の目的が欲望を満たすためというのは簡単だが、その背景に存在する要素は決して無視できない。
しかし、攻撃性が怒りから来ていないことを否定できないとしても、攻撃性が怒りから来ていることを肯定することもできないと言われるかもしれない。ただ、ここで考えて欲しいことは、怒りは優越感を得る最も手軽な方法の一つであり、また、脅かされ劣等感が生じることで、怒りが発露されて優越感は得られる、ということである。ならば、日々劣等感を抱いている人間が、その劣等感の多くを攻撃性に発露していないということは不自然ではないだろうか。いやいや、怒りを発露するのは単にみっともないから、やらないのかもしれない。しかし、怒りがうまく隠蔽されているのならばどうだろうか? 誰にもみっともないと思われないのならどうだろうか? 怒りでないという免罪符は、みっともないという邪魔な足枷を取っ払うものではないのか? その、隠蔽された怒りを、俺達は普段よく目にしているのではないか? 大小はあれど、人間の感じる劣等感は相当なものだ。その劣等感からくる攻撃性は確かにどこかで発露される。
例えば、TVで誰かの不祥事を叩く人たち。TVに向かって当然の権利を行使しているがごとく悪口で叩く人たち。誰かをやっかむ際に、その誰かのぼろを見つけてとにかく貶したがる人たち。などなど挙げればきりがないし、そのどれにも怒りが内在しているとは完全に肯定することはできないけども、まあ分かるだろう。劣等感丸出しだ。
確かに、攻撃性の全てを怒りによる発露だと肯定できるわけではない。しかし、全てではなくとも、かなりの数が怒りによる攻撃だと言えるし、劣等感の存在を否定できない限り、怒りでないと判断する材料よりも、怒りであると判断する材料の方が、どうしても多くなってしまうのだ。
当然、人は常に劣等感を受けながら生きている。その程度にはとても大きな個人差があるにしても、多くの人間はそれを埋めるべく、優越感を求めて攻撃するのだ。
普段何気なく攻撃することも、自身が抱える劣等感が根本原因であることが多いのだ。八つ当たりという分かりやすい言葉があるが、まあこれに一捻り二捻り加えた症状などもそこらで簡単に見られるだろう。
これまで散々注意してきたように、完全に肯定できないことを逆手にとって、別に劣等感に苛まれていなくとも普通に攻撃しているだけだよという認識の人が多いだろう。例えば義憤にかられてだとか、別に何の理由も無く単に弱い人間を攻撃して優越感を得ているだけだとか。そこに劣等感は介在していないよと。
しかし義憤に関しては、これは防衛反応によるものであり、自分の価値観を否定されるような行為をされることで、また相手が優越感を得ているのだと考えることによって、自分の劣等感が苛まれての結果なのである。そもそも、義憤という、まるで天に与えられた使命であるかのような絶対性を含む言葉がいけない。この世に絶対的な真理など存在するはずもなく(少なくとも真理という概念が利己的に作られた抽象物の域をでないことは間違いない)、あるのは人間に浸透している人間によって作られた価値観である。全てが無条件にそれを肯定するようなアプリオリな価値観が存在するはずもないし、そういった認識やイメージは単に攻撃性を肯定するための方便でしかないのだ。あくまで、義憤が特定の価値観を否定されての行為に過ぎないことは言うまでもないだろう。
また、弱い人間への攻撃に関しては、少し複雑だ。答えそのものが実際の状態に影響することを少し前に挙げたとおり、自分は劣等感関係なしに相手を攻撃して、そうして優越感を得ているのだという認識こそが、この場合に重要なのだ。
その認識こそが優越感を得るための重要な前提であり、その優越感を得ようとする行動が、実際に劣等感に苛まれての行動だとしても覆らないのだ。劣等感に追われて攻撃をするという認識が、余計に自分を弱い人間だと自覚させて、劣等感を刺激してしまうのだ。だから、そうではない自分を認識して、強い人間として優越感に浸るのだ。
こういう奴らは中学生の時によく見たことがある。例を言えば、一種の中二病を患っている人間だとか、弱者をいたぶってサイコパス気取っている奴らだとか、集団で人をいじめてDQNぶっている奴らだとか、ネットの人間とか、まあこれに限る訳ではなく、要するに強者を演じる人間のことなのだ。
そういう奴らはこういうことを指摘しても嘲笑うだけかもしれない。何見当違いのことを言っているのだと。俺は強者だと。
しかし、そうやって笑うのは本当に自覚がないか、もしくは何かしら図星を突かれての防衛反応なのだと思う。中でもそういう時にすぐ仲間内で自分に対する了承を取りたがる人間は間違いなく後者である。仲間内の価値観に縋るという、実に分かりやすい防衛反応である。
そもそも、ことさら、そんなものは気にする必要のない瑣末などうでもいいことだという態度をとる時に、その胸中に防衛機構である攻撃性はきっと存在している。相手にしたら負けだと自分に言い聞かせる必要がある程度には存在する。その行為こそが、防衛機構を意識しないための、その実防衛機構によるものであるのだ。劣等感を意識しないための劣等感による行為なのだ。
しかし、これは本当に微妙な話であり、事実関係があやふやないくらでも誤魔化しのきく話であって、だからこそこうした行為の不当性らしきものへの追求がされたとしても効果をなすことはなく、人は依然として堂々とそうした余裕アピールを含んだ攻撃をできるのだ。
例えば、本当に見当違いなことを言われた時に、人はその見当違いな奴が優越感を得ているだろうと想像したときに、むかむかと劣等感からくる苛立ちを感じることがあるだろう。だから、笑い飛ばすときにそれを理由にすることもできる。俺は別の理由で今お前を攻撃するのであって、決してお前の指摘が正しいからではなくそれに対する反発なのではない。俺が以前に誰かを攻撃した理由は、単に弱者をいたぶることで優越感を得たかっただけなのだと。全く、そんな見当違いの事を言って本当に馬鹿だなぁ。というふうに、変わらずに攻撃することができる。
人間の頭の考えていることを現時代で克明に測り知ることはできない。人となりもそれに関する事実も推測するしかないとてもあやふやなものであって、そんなものはどうとでも誤魔化せるのだ。
このあやふやさはきっと、集団の価値観が人自身に作られたものであるということが少なからず関係しているものなのだろう。
そう、前述した指摘にまつわる一連の都合の悪い部分を、集団の空気感によって一掃することもできるのだ。いわゆる数の暴力という奴で、言及している事柄が、より大きな集団によって保障されていない事柄であれば、簡単に排除することができる。
そもそも絶対的な真理など存在しないということだ。この世全ては各人の認識を通してしかなく、そして共通の作られた価値観こそがその集団にある真理なのだ。正しいと思う認識は全てそいつ個人の価値観によるもので、その価値観はそいつの所属する集団に寄せられている。
そもそも集団を形成することは、人間の持つ劣等感と優越感にとって切り離せないことでもある。なぜなら、人は優越感を得るために集団を形成することが多いからだ。
優越感と劣等感を求めるのは根本的な人間の原理だ。各人間は、自分が持つ価値観によって、自分を優れているだとか劣っているだとか判断して、それぞれ優越感と劣等感を感じている。この価値観の形成は人間の認識によるのだろう。
ところで、人間は生存するために他人との協調を余儀なくされる。狩りをするためにとか、農作物を作ろうとして川から水を引こうとするためなど、まあ人間以外にもいろいろ言えるのだが、それが実際の生物同士の相互作用の結果としてもたらされるのは、進化の過程によって組み込まれた生物の協調機構によるものだろう。
しかしそうした人間の他人との協調に関わる機構は、具体的に人間のどこに備わっているのだろうか? 協調心という分かりやすい原子的な機構など実際には存在しない。ならば、他人を思いやる心か? それとも他人を憎む心だろうか? そうとも言えるかもしれないが、そうとも言えないかもしれない。これらは複雑な組み合わせにより発生した現象とも言えるから、これはもう少し分解してミクロに見ることができるだろう。
人はいがみ合うこともあり、他人を尊重することもあるが、結果的には集団を作り、協調という動作をそのローカルにおいて作り出すことができている。その強調の発端は、どんな機構によるものなのか?
俺は、劣等感と優越感こそが、協調の発端を担う機構の大部分だと思っている。もう少し具体的な部分に分割すれば、他人の感情を自分の感情に置き換えて推測する機構の存在がそうだと言える。いわゆる投影機構という奴だ。
劣等感と優越感は、他者との関わりをなくして発生しない。ここで、他者とは、自身が認識によって感情を推測できそして感情を投影できる個体のことだ。赤ん坊が真似をしようとする個体のことだ。
人間が自分の優れている部分を判断する一連の流れとして、他人=自分かつ他人=優れているならば、自分=優れているという論法がある。他人=自分は額面通りではなく、投影によるものだ。ここでは投影を通して自身の客観的な認識を行っている。その認識の重要度は投影の度合いそのものであり、つまり投影の動機が関わってくるのだが、それは一般的な同族意識とかそういうレベルではなく、根源的な他者を認識したときの同一意識が問題となってくる。
まあこのことは簡単な一例なのだが、投影が生かされた重要な事柄でもある。投影が優越感と劣等感を生み出し、そしてその投影は他者を通じて行われるのだ。
あくまで双方にとって、自分の感情>投影感情であって、他者はコミュニケーションによって相互作用するただの現象ではあるのだろう。
しかし、生存していく内に手が器用になったり不要部分が退化していったように、投影機構とこうした他者との相互作用こそが、現在の人間の最適な価値観を形成していったのだと思われる。これがいわゆるコネクショニズムという奴だろう。優越感と劣等感を核にして相互作用を通じて価値観が形成されるのだ。
優越感や劣等感は、生得的なものなのか創発的なものなのか。これ以上にミクロへと考えていくこともできるのかもしれないがそれはとても難しいから、とりあえず投影機構による優越感と劣等感を最小粒度として捉えたレベルで考えてみよう。
つまりは、優越感と劣等感は集団の価値観から得られて、集団の価値観は優越感や劣等感によって作られる。
今の社会的な集団のための価値観は、古来集団から進化を経てより生存のために最適化されたシステムだ。生存のためとはいうが、局所的にはそれは優越感のためである。
優越感のために作られた価値観こそが、集団を形成する根本なのである。自分を肯定する価値観のもとに人は集い、人類は発展を遂げるのだ。
集団が作り出した集団のための価値観は、人間の奥底に浸透するくらいになれば、それは人間にとっての真理と呼ばれるようになる。真理は、人間の優越感と劣等感を生み出すために重要なものだ。真理は自身を肯定するための道具なのだ。
個体ごとの価値観は、自分の優越感のために自由に変化をすることができるが、とはいえ優越感や劣等感が他者と切り離せないことから、また環境や自身に存在する制約から、それほど自由自在に価値観を変化することができず、今のような社会的な集団による価値観がその上に必要とされ、形成される。
要は、そうした作られた価値観の中で、他人を肯定することで、投影を通じて自分を肯定することができるのだ。言わば自作自演を集団でするようなものだ。自分と同じ他人を肯定することで優越感を得ることができる。至極簡単なことだ。それが、集団をつくるときの機能的な原因である。同じ要因でできた集団があちこちに存在し、敵対し合うこともある。それぞれの集団の中でローカルに自身を肯定し合っているのだ。
そうした社会的な優越感を得る目的の観点から言えば、やはり他者は優越感を得る必要な道具でもあり、劣等感をもたらす危険な障害でもある。
前者は共通の価値観を持つ他者、後者は異なる価値観を持つ他者のことである。この価値観とはそれぞれ集団で作られた価値観であるが、補足すればそれぞれ双方が持つ価値観同士の全てが違うということではなく、重なり合わない部分が、ある面において顕著であるということだ。それぞれ集団の価値観の内容は、説得力があり、生活の基盤に沿って、なおかつ自身に都合の良い方が望ましい。しかしそれらの必要条件は場所によって異なり、異なる場所ごとで形成される価値観は、部分部分で異なっていく。
共通の価値観を持つ人間同士が集まれば、数による力とその説得力と正しさの感覚と自分たちに良い都合が得られる。よく儀式だとか習慣だとかそういったものが非科学的で前時代的なものだと言われることがあるが、これはその集団においての共通の価値観を作り出す重要なプロセスなのである。それを否定する気持ちになるのは、その価値観とは異なる、科学などを崇拝する価値観に所属しているからなのだ。
こうしたそれぞれの価値観の形成に関わるような、つまり集団の形成を促す外的要因はさまざまあるだろうが、外見や生息地域などはわかりやすい例だろう。共通の価値観を作れるきっかけがあれば、その人間たちは集団として形成される。もちろん、これ以外にも特定の目的のための条件としてなど、複雑な理由も挙げられるだろうが、まあ全ては生存のためにと帰結する。
共通の価値観を持つ他者に対して攻撃はできない。なぜなら、それは自分が得られる優越感を破壊する行為であるからだ。
しかし、そうでない異なる価値観を持つ他者に対しては簡単に攻撃を行える。なぜなら自身の優越感に対して何の悪影響もないからだ。また、自身の価値観の正しさの感覚の補強にも繋がる。正しいということは唯一であることが望ましいのだ。そうした他者を認識するだけで、まあ投影の度合いにもよるし自らを支える価値観に沿えば問題ないが、もし自身の劣等感が苛まれる場合には、かなり激しい攻撃性が発露される。
他者への攻撃は、自身の集団を強固にするためにも行われる。時には残虐とも呼べるほど過激な行為がなされる場合もあるが、これは際限のない劣等感と集団の基盤の不安定さの表れである。優越感を得続けていても劣等感が消えることはない。むしろ、常に感じている優越感が大きい程に、劣等感も大きくなるのである。
他者を他者として認識する限り、つまり他者と関わる限り、人間はいつまでたっても追い立てられるように優越感を求めるように構造ができているのだ。
ただし家畜への攻撃だと称するのならば直接的な劣等感は関係ないのかもしれない。ただ、示威のために自身の防衛的な動機を押し隠す場合もあるからそれを額面通りに受け取ることはできない。もっとも、食料や生息場所を得るための攻撃ではなく、そこに優越感が存在するのであれば、他者を他者として投影できていることは確かではないのか。それが例え鶏を相手にしていてもだ。まあ、そこは、やはり突きつけてもはっきりとはできない部分なのだろう。
さて、集団の基盤の不安定さは人の足並みが揃わないことから生まれる。同じ集団内の人間同士においても、お互いに重ならない価値観の部分など、排他的な論理和的な共通しない価値観を持っていることは言えるだろう。また、別の集団に属する人間とはいっても、同じ人間であるのなら多くの共通点を持つはずであるし、それならばある程度の積集合的な共通の価値観を持っていることも言えるだろう。同じ集団において、足並みが揃わないとはこういうことだ。
だから、集団内に複数の価値観が存在してしまう。それぞれ人個人の価値観をつき合わせたそれぞれローカル内のまたローカルな価値観が、その集団内においてまかり通るのだ。そもそも集団の集団において共通の価値観が存在できるのだから、それは当然の事とも言える。
元々個人の価値観それぞれの上に社会的な価値観があるのだからこうした不安定さは自然的とも言えるが、これこそが集団が崩壊する原因とも言えるし、逆にそうした不安定さからくる劣等感による排他行動も、部分的というよりは世界全体的に最適化された集団形成の重要な要素なのかもしれない。こうすることでいくつかの集団が分布し、流動的に移り変わって、そして連綿と生き物のように地球上で存在し続けるのだ。一つのものを丁寧にこねあげるのではなく、破壊と創造を繰り返して成長するのだ。
まとめると、投影機構による優越感と劣等感が集団の価値観を形成し、その中で人々は出来レースを行って優越感を作っていくのだ。ただし、それら集団はそこらで発生し、またその状態は不安定である。
集団にとって都合の良い価値観とはそうやって作られる。個人ごとの最大公約数的な価値観を、投影を通じて見つけ出すのだ。その価値観の元で、他者に自分を見出して優越感を得るのだ。ただし、その価値観がそれぞれ人個人の全てを満たすようにはできないし、だからこそそれが集団の中の人間を満たす唯一の価値観ということでもない。
具体的な価値観の形成例を挙げてみると、たくさんあるだろう。価値観は倫理観、国属意識、宗教、科学信奉、もしくは多々ローカルの共通認識などいろいろ存在する。
それらは集団が生活する上で必要な制約を人々に与えてくれる。最終的には、生存のためにそれらの価値観は必要とされるのだ。
しかし、元々の人間が、優越感の取得と劣等感の排除のみを求めていることと、そうした人間にとっては価値観がそれを実現するたくさんある内の一つの道具であることを忘れてはいけない。
集団は価値観を共有して形成される。そしてその集団は数によって力を得る。その力とは、もっとマクロな見方における価値観での高い価値なのである。集団に帰属すること自体が、このマクロな価値観のもとでは大きな価値を持つのである。その集団自体への投影を通じて、マクロな価値観を持って自身を肯定することもできる。
集団は不安定である。この何十億もの人間の中に多数の価値観と多数の集団とまたさらにそれを覆う多数の価値観が存在し、集団は流動的に変化する。科学信奉による広範囲な価値観があれば非科学信奉によるローカルな価値観も存在し、その中に大きな集団や小さな集団が存在し、その帰属意識が広い価値観の中で大きな価値を得るようになり、また小さい集団の中でそのまた広い価値観のもとで大きな価値がもたらされるような価値観を持つ集団が形成される。
ここまで書いてごちゃごちゃになってきたが、価値観は階層的な物になってきている気がする。一番上にプリミティブな価値観が存在し、その下の最大公約数的な価値観がいくつも存在しさらに階層を作っているのだ。一応の注意点として、どこまで上に行こうとも価値観は作られた物に過ぎないことは言えるだろう。もっとも、どれをどう原子に分割するかはわからない。
ここで大事なのが、人間は優越感と劣等感のもと自分本位に価値観を形成し、それが故にどこそこで価値観による集団を形成し、それぞれが自分本位の価値観のもと生存しているのだ。全体の流れなど関係なく、最終的な目的も関係なく、人間は個人の世界の中で生きているのだ。それが結果的に人類全体の繁栄につながっているのは、人間の持つ投影機構とそれぞれ個人の外界との相互作用によってコネクショニズム的に多種多様な集団が形成されているからなのだ。
であるならば、個人ごとの人間の優越感の獲得は結果的に人類の生存のためになるのだとしても、小さい領域では生存に背いた事象も発生するだろうし、当事者的な世界の見方だと少し印象が違ってくるかもしれない。つまりは集団に発生する不安定さの中で人間は生きているのだが、そしてその混沌の流れ一つ一つを全体のための部分として受け取ることは簡単であるのだが、実際に人間の目を通した場合、重なり合った価値観の中で人間個人は、一体いかにして投影機構を通じて優越感を得ようとし、迫りくる劣等感を退けようとしているのか。
つまり、俺達の生きる世界において、俺達はどのように生きているのか。俺達はどのようにしてそれぞれの世界を作り上げて、生きていけるのだろうか。俯瞰視点で考えてきたことをそういった視点からもまた考え直してみて欲しい。人間はそういった一視点でしか考えられないのだから。
本来的に人は皆己の人としての機能によって価値観を形成しており、それらは全て自分本位であり、そして他人とすり合わせている。
人間は優越のために集団に属し、さらに当然として矛盾の中に生きる。多種多様な価値観を形成し、それはそれこれはこれ精神でいくつもの集団の価値観を同居させている。常に自分の優越感劣等感を優先させて、投影を通じて様々な集団の中で自分を満足させる。
価値観はいろいろ存在する。大きな価値観、それに反する価値観、小さな価値観などいろいろだ。それらの内今の自分にあったものを選択し使いこなさなければならないのだが、そううまくいかない。
投影さえできて、さらに自分との共通項があれば、あらゆる集団の価値観の中で自分を優れているように感じられる。
集団だろうが個人だろうがなんだろうが投影と共通が大事だ。
道理だとか正義だとか善悪だとかそういったものを全てひっくるめて優越感のための価値観は存在する。全ては優越感に優先されるものであって、真理などという認識とイメージは己の万能感と高潔感をわずかに満たす心の拠り所でしかない。いかに特別で美しく思おうが変わらず全ては優越感の上にしか成り立たない。
全てを投影と共通項によって生み出された現時点におけるまでの最適化の結果が今の社会に蔓延している価値観なのだ。当たり前は当たり前でなく作られた物なのだ。
これらはふとした、そしてありふれている瞬間に露呈する。皆がそれを認識してそれでも社会が崩れないのは、その最適なシステムの強固さを示しているのか、それとも根本の奥底から全てにおいて満ちている人間の原理が許容するのか、既に崩壊は始まっているのか、それにしても矛盾は存在するはずが、全ては指向性の機能的に物事が進んでいくのだから、今の意味を持つ言葉は何とも微妙な土台に乗っかった言葉なのだろうか。
分かりやすく言えば、雪山で遭難したり死刑囚をいたぶる看守を演じたりなどこういう極限状態においては人の持つ倫理観は崩壊するだろう。
これは別に倫理観が脆いだとかそういうことではなく、ごく自然に人間が持つ優越感を求める機構が環境に適応し、今まで通りに優先事項が変わってしまっただけだ。絶対的なものを裏切ったとかそういう類の話ではない。ここで崩壊に面して倫理観をやたら否定する悲観的な気持ちが生まれるのはアウトローな優越感を得たいがための感情に過ぎず、これまた真理だとか言われているのを盲信するために生まれるものなのだ。ここまで信用されるほどに倫理観は強い価値観なのだと言い換えてもいい。
もっとも、元の世界という、いずれ戻るかもしれない世界を考えると、それがいわゆる良心だとか、まあそういった保険の役割を持つ善性という美徳を価値のあるものとするのだが、それにしてももうそれが必要の無いものであるとしたら、驚くほどにあっさりと人間は今までの良い子をやめるだろう。
それは割と頻繁に起こる事象ではあるのだが、それでも倫理観はとても強い集団の価値である。なにせ集団の生存のための機能として今までに大きく貢献してきたのだから、それは形を変え品を変え行く先々でその亜種やらなんやらに出くわす。倫理観に基づいた考えはたくさん存在し、そこらで見かけられる。人が人と生きていく限り、他人を尊重する価値感と打ちのめす価値観が充満していなければならないのだ。
他人という必要不可欠のキーパーソンをいかにして扱うか、そして他人とそれを通じて培った自分をどう見出すかの方法は、人類の命題として様々な形で語られている。
そしてそれは世界が広がっていくごとに形を変えていっている。環境が変わり世界が交わるごとにその公約数が増えていき、今のお利口などでかい価値観たちが存在するのだ。
さて、ここでネットという場所における優越感と劣等感を考えてみよう。
ある人種はネットに傾倒している。例えばツイッ○ーだとか、2c○だとかで、執拗にあからさまに優越感を求めるような発言を繰り返す人間が存在する。匿名であるに関わらずである。
身元をはっきりとさせた有名人がそういう発言をする理由はわかりやすいものだろう。現実世界と同じで、自分の考えを発信することが単純に優越感に繋がる行為なのだ。
そして、匿名の人間も同じようなものなのだ。自身の発言が、投影を映す鏡になるのだ。匿名性故のその発言が持つ独立性は、得られる優越感が直接的でないもののその分安全なものではある。もっとも、ネットの匿名性は現実的に考えていつだって簡単に崩れ去るような脆いものなのだが、しかしそんなものでも、ネットに傾倒する人間は自分とは直接関係のない投影の為の人形を通して、間接的に優越感を得るのである。
作り出す言葉はシンプルなものでいい。2か3行程度でも、投影するには十分である。問題は、その言葉が、その環境の中でどういう位置づけになっているかだ。
その言葉に賛同している人間は多いだろうか、それとも誰にも相手をされていないのか、その言葉によって相手にどれだけ衝撃を与えたか、また表す意味がどれほどの共感と反応を誘っているのか、現実世界の自分をどれほどその世界に浸らせてくれるのか。
その環境は、それぞれ言葉の独立性故に特異と呼んでもいいくらのものにはなっている。とは言っても、それが現実世界の延長であることは全く変わらない。
つまりは、この環境の中でも集団形成による一定の価値観の形成が行われ、その作り出した言葉の位置づけを良いものに変えよう変えようとするのだ。
これの特異性はその集団の作りやすさだろうか。シンプルな文の集まりでしかないその環境では、多数の共通認識があればいかようにしても簡単にその価値観の方向性を決定することができる。選民思想、攻撃性の高さ、自虐性、優位性の確保、劣等感の隠蔽、優越感を求めるそれらのなんとネットで溢れてあからさまでいられることか。
現実と同じく集団的に攻撃性を高めてそれに属する自分の言葉に投影し優越感を高めたりするのだが、自分の投影の材料として言葉しか使用しないために、現実世界における自分への制限に捉われないのだ。
その分好きなだけ言葉を発せられる、取り繕うことができる、多数の人間と共通認識を得て優越感を得られる、発言の特異性によっても優越感を得られる。
倫理観は少しだけ崩壊し攻撃性は露骨に晒される。優越感と劣等感を得るための人間の本質が現実よりも如実に見てとれる。
しかしそれでも、現実世界から完全に離れられていない。雪山の過酷な環境の中だとか、いじめる相手をルールとして許容されている環境だとか、そこで見られるまでの社会的な価値観の崩壊が見られない。モラルは足りないが、モラルを利用しての優越感を取得する様はそこらで見かけられる。モラルに反することは価値観の崩壊と直接結びつかない。所詮は、大きな価値観の中でローカルに作られている場に過ぎないのだ。
まあこれは当然とも言えようか。いくらネットに傾倒しようがネットの世界に生きることはできず、現実世界の他者と関わりなしに生きていくことは難しいのだから。
むしろネットによる優越感の獲得はより現実世界における社会的な優越感の獲得を放棄させて、それでも結局社会的な価値観から逃げられずに、自身を強い劣等感に陥れてしまうものなのかもしれない。
そうした劣等感に苛まれて、より過激にネットで優越感を得ようとする人間は数多くそこらで見られるだろう。
このネットと現実世界との乖離は、近々深刻なものになりつつあると俺は思う。
ネット世界における優れた自分を現実世界においても同じ自分であると思いこんでしまう人間がいるからだ。
いるだろう、やたら口が悪い人間だとか、ネットでの意見を世界のルールとでも言うかのようにベラベラと喋って周りからの冷たい視線に気づかないでいる人間だとか、ネットでの定型句を現実世界で喋ってしまう人間だとか、現実世界でうだつのあがらない人間が他人をこきおろせる場所を自分の世界と認識してしまっているような人間とか、絶対こいつ社会で通用しないだろうなと思わせる人間とか、まあいるだろう。
いいだろうか。ネットの人間は、他人から同意を得ることと他人を打ち負かすことを、歪な状況でそれぞれ体験しているのだ。
それは匿名だからこそ得られるものだ。自分の存在が、特別でない標準の一つであるからこその歪な状況なのだ。ネットの人間は、現実にある世界ではなく、ネットにある材料を使って、ネットで通用するような、このネットの世界に適した価値観をつくりだしたのだ。世界にある、特定の、数あるうちの価値観である。
それは、やはり行動原理は普通の人間と変わらず、また決して現実を超越したと言う訳でもなく、むしろ現実の圧力がそうした歪な価値観の形成の要請に繋がっている訳で、現実を捨てきれない人間たちの現実世界の価値観による劣等感に追い立てられている悲鳴があちこちで聞こえてくるような、そんな歪な世界なのである。
それは、本質的にはそこらの人間と変わらない行動で、価値観を捻じ曲げて、その世界に適応しているのだ。その分、現実世界に合わないその価値観によって現実世界からとてつもない圧力を味わうことになるのだ。
狂気の泉の話を知っているだろうか。その泉の水を飲むと狂ってしまうらしいのだが、その泉のある国の人間のほとんどがそれを飲んでしまっているのだ。
ただ一人飲まない人間がいて、その人間は狂っていないのだが、さて、狂っているとは一体、どちらの側の方をそう呼べるのか、一人だけ狂っていない人間は耐えきれずに泉の水を飲んでしまうのだが、そんな簡単な水が現実世界にあったのなら、どれだけ人間は楽に生きられるのだろうなあ。
また、胡蝶の夢という話もある。夢と現実とどちらが本当かわからなくなる話だ。あの楽しい夢は本当に現実ではないのだろうか。今こうしている現実は本当に夢でないのであろうか。俺はそんなはっきりとした夢を見たことが無いから良く分からない。もし本当にわからなくなれるのなら、それは楽しいものだろうが、しかし実際はそうもいかないのだ。少なくとも、ネットと現実と、どちらが本当かなんてものは、束の間の勘違いでしか迷うことなどできはしないのだ。
ああ可哀想だ実に可哀想だ。今だけ勘違いをしているあの人間は本当に可哀想だ。この先奴に待っている過酷な現実に奴は耐えきれるのだろうか?
奴に限ったことではないし、ましてやネットに傾倒している人間にも限った話ではないのだ。これは全ての劣等感を抱える人間に言えることなのだ。
彼らは彼らの世界の中で生きている。彼らにとってはそれが全てだ。普通、人々が社会で生きていくということは、社会に生きる人々のそれぞれ世界に共通部分を持たなければならない。
倫理観、生まれ、立場など、それらを共有する人間同士で、公然と優越感と劣等感の出来レースをしているのだ。
そして、これが集団をつくるということだ。共通の敵を持つと今まで敵同士だった奴らが団結するのは、共通の世界の部分をもっているからだ。もっとも、そんな簡単な例ばかりではないのがこの世の複雑さなのだが、こうして人類は、あちこちでそれぞれ世界の一部を共有する集団をつくる。
それが結果的に人類全体の繁栄を作り出せていても、その不安定の中で部分的な人間はそれにぶんぶんと振り回されて生きていくのだ。
それが、社会で生きていくことなのだ。結果としては、これらはマクロ的にもミクロ的にも人類の発展に必要不可欠のものだった。確かに、本当に、人間の体はよくできている。しかし、そこに個人の幸せはどれだけ含まれているのだろうか。
俺達人間はひたすらに刻まれた道なりに苦痛をずっと味わい続けていくのだろうか。
いや、違う。この考え方自体がすでに優越感と劣等感の上に成り立っているのだ。悲観主義者は自分に同情することでいやらしい優越感と劣等感に対する癒しを得ているのだ。いやしかしそれこそつまりは不安定さの中で生きるということがやはり苦しいのだということではないのだろうか。何だろう、これは人間に判断できる事柄なのだろうか? 判断するためには何を考えるべきなのだろうか。
優越感と劣等感は発展のために極限までスリムになっている。環境に埋め込まれた知識によって、全てはコネクショニズムに生まれるのだろう。全ての原初を考えると頭がひっくり返るようだ。世界を考えるということが矛盾そのものに思えるが、考えていくうちに結局物理的な現象に帰結してしまう。与えられた要素によって何を語ることができ、どこまで意味を持てるのだろうか? 一体、ヴィトゲンシュタインはどんな気持ちだったのだろう。意味から離れるべきなのだろうか? これが人間の限界なのか? 真理という、それを思う気持ちにだけ意味がある存在。なんだか、世界がとてもくだらないように思えてしまうが、しかしながらそれもまた人間の機構によるものなのだ。