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大学生活はどうだろうか。
楽にしていられるだろうか。高校生活は結構息苦しいものだった。一つの教室に何十人を詰め込んで、時には周りとコミュニケーションを強いられた。大学では、教室に四六時中詰め込まれることはない。高校生活よりも解放的で良い生活ができると期待してもいいのだろうか。
とにかく俺は、大学に移り変わるということで、不安でいっぱいだった。不安は不安でも、社会に出るよりマシではあるだろうし、家から出る訳でもないから、大学進学は現状を踏まえたうえでの最適解なのだろうとは思っていた。
しかし、それにしても環境の変化は大きい。何と言っても、大学だ。高校とは、良い意味でも、悪い意味でもいろいろと違う。具体的に大学生活がどうなのかもよくわかっていなかった。
入学の手続きを進めていくにつれて、これからに対するよくわからない不安がどんどんと大きくなっていった。自然とため息が多くなった。ため息はほんの一時的にでも不安を和らげる効果がある。
とにかく不安だった。不安でしょうがなかった。しかし、不安は不安でも、やはり期待は消えなかった。
教室で無理矢理人間関係に組み込まれることもない。人と話すこともない。自由で、気楽に生きられるのではないか。今までは嫌な事を享受しながら苦痛の中生きてきたが、それも無くなるのではないか。
授業にでて真面目に勉強をしていれば単位とやらが取れるはずだ。そして、真面目に単位をとっていれば進級は出来るはずだ。ならば、真面目に勉強さえしていればすんなりと大学生活を送れるはずで、詳しくはまだ分からないが、うまくいけば、今後一切において他人とのコミュニケーションが問われることはないはずだと、考えていた。
高校のときは体育の時間などですぐにグループ作ってとかなんとかあったが、大学ではそういうのがないのではないのかと思っていたのだ。
ただし、他人とコミュニケーションを取らないことで、重要な情報を掴めずにいつの間にか詰むことも考えられるが、大学からの情報発信を積極的に受け取っていけば問題はないだろう。
まあそんなこと言って結局、期待は裏切られた。シラバスを見てああもうってなった。期待を外されて不安が的中したことを知った。授業でグループワークを課せられることが多いらしい。しかも、一年の前期で初っ端からだそうだ。
衝撃だった。
グループワークってなんだ。
そんな事実を知ってから、授業日が近づくにつれて、不安でお腹が痛くなっていった。憂鬱な時間がとても増えた。
しかし、ストックホルムよろしく不安がピークを越えて、逆にもしかしたらという期待に移り変わっていった。そもそもグループもので難題なのはグループを作ることで、それが解決されている今は思ったよりも深刻な事態ではないのではないのかという理屈もついていた。
別に大学デビューとか言う意味の分からない言葉に影響された訳では決してないが、こんな俺でも、時には前向きになることがある。
というか実は新しい環境に移り変わる時は結構ありがちなのだが、不安を裏返したような、やったろうじゃんという誘惑がふらふらと湧いてくる時期がある。なんだかやる気になって、意味の分からない期待をさせられて、それはまさに誘惑そのものだった。
こんなものは今までさんざん耐えてきたものなのだが、春の陽気さとランナーズハイのような自信を一時的に併せもつようになった俺は、ついにはそれも悪くないかなと、ほくそ笑むようになっていた。
最初は皆同じ条件だ。俺の事を知っている奴もここにはいない。ここでやるのも、悪くはないかな、と。うまくやれるのではないかと。
もちろんこんなものは妄想だ。こうした妄想は以前にもいくつも退けてきたのだ。
実にありがちな妄想ではあったが、授業の前日まで頭の中で妄想のあれこれを延々とリフレインしていた。ふと我に返って憂鬱になりながらも、少なくとも、不安がピークを過ぎてから当日に至るまでは、割とのんきに妄想をしていた。
しかし、当日のいざとなったら妄想は消えた。不安がどっと戻ってきて、今まで通りに行動力とやる気が根こそぎ失せた。
というか、そもそも、思考と行動が完全に伴う人間などいるのだろうか。想像と現実のズレは大抵深刻だ。実際になってみないとそれは実感できない。今までに積み上げてきた経験もある。そもそも性格を変えるためには、その性格になるまでにかけた時間を必要とするのが道理ではないのか。行動をあっさりと修正出来る人間なんてこの世にいるのだろうか?
いよいよ授業が始まった時、とりあえず俺は最初にグループ内の人間を見渡した。俺と似たような奴はいるのか探してみた。
グループ内では見つからなかったが、グループ以外の人間でなら、あたりをきょろきょろ見回したときに、一人ぐらいそんな奴を見つけた。
俺と同類の人種だ。うだつの上がらなさそうな放っておいたらスマホを独りでいじっていそうなヒョロヒョロした男だった。周囲に馴染めそうにない雰囲気だ。いやだからどうしたということでもないのだが。
そしてそうこうしているうちに、グループワークは始まるのだが、全員、最初の内は恐る恐ると言った感じに様子見が続く。誰がしゃべるのか、誰が舵を取るのか、皆一様にそわそわしていた。そしてそうこうしている内に、俺はあっという間に他と後れを取ってしまった。俺だけ終始そわそわしていたからだ。最初のそわそわした空気のときの安心がブレーキになったのではないかと思う。そのまま惰性で、何もしなくてもいいやという自己正当化が頭の中で生まれたのではないかとも推測できる。
それに、どうやらグループの連中同士の話を聞くに、連中はいろいろな趣味を持っているらしかった。そして、俺はろくな趣味を持っていない。いやそんなことはどうでもいいのだが。
そのグループではM田という学生がそこそこのリーダーシップを取っていた。最初に様子見から抜け出し、進んで意見をし、また他のメンバーにやんわりと意見を求めて、グループの流れを作ろうとしていた。
その内にグループの方向性は決まり、設定された目的に船は邁進するようになった。M田の舵によって。
思うに、こうしたグループで発言するにはなかなかの勇気が必要だ。自分の意見が全くの見当違いだったら、普通と考えていることが違ったら、それは恥であるからだ。
普通とは、大多数がもつ巨大な共通認識である。人間だれしも長いものに巻かれたいもので、巻かれないものに対しては冷たい視線をよこしたがるものなのだ。価値観のずれた相手にほど、冷たくなれることはない。
しかし、こうしたしがらみを振り払って、勇気を振り絞って、さらに普通に沿った意見を発せたなら、M田は、今のM田のようにリーダーじみた、メンバーの中でも上位な存在となれるのだ。
そして他のメンバーは安心してその長いものに巻かれて追従する。
ぞろぞろと群れをなして後をついて行って、仲間意識をもつためにいろいろな会話をする。そして談笑する。
「え、ギターとかすんの?」
「うんまあね(笑)。でもちょっとかじってるだけだから」
ちなみに俺だけはその一歩引いたところにいた。
さらにそうこうしている内に、最初のグループワークが終わった。成績は割と良かったように思う。俺は何もしてないが。
そして大学生活における最初の前期が終わった。
自分たちの価値観を補強するために、価値観にそぐわない他者を攻撃することはよくある。
攻撃方法はさまざまあって、分かりやすく攻撃することもあれば、仲間同士で示し合わせて話の種にしたり、小粋な皮肉にすることも、なんなら無視して相手にしないというのもある。
これらの攻撃は、自覚的なものもあれば、無自覚的なものもある。いや、無自覚というよりは、盲信というべきか。こうした価値観の補強は、自分が存在するという事実くらいに当たり前の行為なのだ。しかしそんなことはどうでもいい。
とりあえずこれからはなるべくグループワークが無い授業を取りたかったが、必修の授業が多かった。ありえない。
どうやら大学はグループワークを推奨しているらしい。他人との協調はかけがえのないものらしい。そういうのはやりたい人たちだけでやればいいと思う。一人でいたい人には一人でいさせればいいと思う。そんなんじゃ協調性はつかないとかいうかもしれないが、こういうので協調性が無い人に協調性が身に着くとも思えない。
つくづく、大学を間違えたと思う。他の大学なら、こんなことにはならなかったのかもしれないのに。文系か理系かというのも重要な要素かもしれない。しかし、今となってはもう遅い話だ。一期一会。