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 俺は旅行をしたことがない。

 ないというのは全くないという意味ではなく、義務ではなく自発的にそして前向きな気持ちで旅行に出たことは一度もない、という意味で使った。だから、旅行をしたことがない、と言い切ると嘘になってしまうが、要するに旅行が嫌いだという意味をこの言葉に含ませたかった。

 俺が生まれてからのほとんどは、多少の変化はあれど、家の内観や、それと家から学校までの道の景色、あとは精々家周辺のどこかしらの景色など、全く見慣れた景色に囲まれて俺は生きてきたし、そうした場所以外で生きようとも思わないし、ましてやちょっとの間でも滞在したいなどとは全く思わない。

 旅行が好きな人の大体が言いそうなことには、知らない土地には刺激と解放感と楽しみが存在するとかなんとかありそうだが、俺はそんなふうに思ったことは一度もない。

 そもそも刺激と解放感という概念が実にあやふやではないだろうか。それらは具体的になんだといえるのか。見慣れない景色、美味しくて珍しい食事。なるほど、しかしそんなものは現代においてそこらにありふれている。ネットを活用すれば全てが一所で済む話だ。

 そうではなく、間近で綺麗な景色が見たいだとか、臨場感がどうとか、もしかしたらそういうことを言うかもしれない。しかし、とても乱暴に言ってしまえば、土地の構成要素なんて日本においてはどこも大枠で似たようなものだ。もちろん、確かに諸国で違いはあるだろう。だが、それをどうやって言い表せられるのか。綺麗とか凄いとかそういう語彙しか持ち合わせていない人にどうしろというのだろうか。いや、そこまで極端でないにしろ、例えばウィキペディアに載っているそれぞれ山の違いなど、標高と所属地域についてしか分からないのではないか? 実際に登ってみても、どっちも辛いくらいにしか思わないだろう。構成要素に違いがあったとしても、大体においてその場所の雰囲気にも空気感にもそれを感じる平凡な人間の気の持ちよう以上の意味はほとんどないと思う。つまり、大枠で、似たようなものなのだ。

 平凡な人間にとっては二束三文の骨董品からもそれなりに雰囲気を感じ取れるし、それをありがたく拝見してなんだか厳かな気持ちにもなったりできる。立派なものを見て喜ぶためにはそれに対する知識が無くとも勝手な先入観と甲子園を応援する一般女子のような浸りたがりの自己意識があれば十分だ。深い理解ができる人間にとってはなにかしらそれは特別な感情を抱けるものなのだろうが、それ以外の人間にそれほどの理解と感情があるのかというと、それはいかがなものかと思うのだ。登山家と一般人、書道家と一般人、鑑定人と一般人。所詮、一般人に過ぎない。それも、あやふやな概念しか語れない一般人だ。

 そもそも奴らが旅行先に対してどれほどの知識を持っていると言うのだろうか? 旅行先のパンフを見て、ネットで簡単に調べて、あとは何となく旅行先の名前をどこかで聞いたことがあるとか、その程度の人間が多いのではないのだろうか?

 要するに、雰囲気で満足できる程度の頭であれば、大層な場所に行かなくとも近所で十分に満足できると思うのだ。別に貶す訳でもないが、ご都合な頭は誰にだって備わっているのだから近所にも楽しいことや驚くべきこともたくさんの人々が想像する限りにたくさんあって、そしてそれはどこに行っても同じようなものだ。所詮奴らはおしなべて画一的に物事を感じるのだ。奴らが一体どれだけの感動のための語彙能力を持ち合わせていると言えるのか? すごーい。かわいい。でっけー。きれーい。おいしーい。その程度だろう。他にあるとしてカンペの蘊蓄くらいで、所詮は使い回したような感覚と雰囲気にのめり込むことで得られる信仰の力によって感動しているにすぎないのだ。表現能力が足りていないと言うことはそのまま感情の種類の少なさに直結するのだ。大体言葉にできないなどと、誰がそんないい加減なことを言い出したのだ。そんなものは考えの足りない奴らの為の免罪符でしかないだろう。

 旅行先への期待の具体的なイメージも、知識も、語彙能力も奴らはあやふやなのだ。何となく雰囲気を味わっているだけで、遠くの土地の浪漫を本質的に感じ取れていないのではないか? 遠めに見たらどんな顔の女でも美人に見えるとかそういうふわふわしたレベルで旅行先の土地の楽しみを語ってないだろうか? 本当にそれは楽しいことなのだろうか?

 いや、しかし、雰囲気で楽しめる頭があれば確かにそれで楽しい訳で、それはそれでいいのだろう。だが、それはどこでもできる。別に旅行先ではなくてもだ。わざわざその旅行先でできることの本質はなんだと言えるのか。そこまで考えていないのなら、わざわざ行かずとも身の回りで満足していればいいだろう。形だけなら周辺で間に合う。ふわふわとした特別感をどうして恥ずかしげもなく開き直って自慢げに語れるのだろうか。もう少し物事を深く考えたらどうだろうか。いや、その単純さは時として社会に必要な要素でもあるのだろうが、それにしても多数の人間が抱く旅行に対するふわふわとしたイメージには実に許容し難いものがある。そのやたら前向きなイメージは人間の持つ脳機能によるものなのだろうか。

 俺は、旅行で知らない土地と言えば、たまに、見たことのない場所で迷子になって、汗をだらだら流して不安に晒されているのを、悪夢として見たことはある。

 人生で何が起こるかなんて、数分先のことすら誰にも知れない。もしかしたら、旅行の最中に事故が起きたり、宿で寝ている最中に火事が起きたり、そもそも手違いで宿が見つからず、さらに金もない状況でどことも見知らぬ場所に置いて行かれることもあるかもしれない。

 もちろん旅行をしなくても同じような危険は考えられるのだろうが、知らない土地へ行くことでそうした危険に巻き込まれる可能性が高くなることは確実に言える。

 だというのに、旅行に出ることを喜ぶ考えの人間が、それなりに多いらしい。旅行は楽しいとか、海が見たいだとか、美味しいものを食べたいだとかなんだとか、言ってそうだ。

 しかし、それがそんな知らない土地へ行く理由になり得るのだろうか。本当に、普段住んでいるところからわざわざ離れるほどなのか。

 家にいても楽しいことは楽しいし、海なんてTVで見れるし、それを、わざわざ好んで塩水を被りに行くこともないだろう。なんなら浴槽に塩とわかめでもぶちまけてそこに潜ってみればいい。目をつぶれば、そこは海の中とおんなじだ。しおからーいとか、わかめくさーいとか、言っていればいいだろう。

 また、美味しいご飯などというのも近所のちょっとお高いお店に行けばそれで十分に満足するはずだ。そんな山の幸とか海の幸とかご当地の料理とか、その場でしか食べられない新鮮そうなものは食わないでいても生きていける。

 要するに、満足なんてある程度で良いと俺は思う。例えば、10万円の料理を食べた時の満足はどれくらいだろうか? それは今まで食べたどれよりも美味しいのかもしれない。もしかしたら感動して涙を流すほどかもしれない。しかし、そうした体験は人生において必要だろうか? トータルで見てその体験が人生全体の満足に寄与する効果はどれほどだろうか? むしろ、これからの食生活のハードルを上げて、全体の足を引っ張ったりしないだろうか?

 その体験がなければ人生は満足できないのだろうか? 大多数の一般人は、千円くらいの料理で満足できる。しかもいろんな種類のものを食べることができるから飽きない。生きるために必要なそこそこで満足できる感性を普通の人間は備えているのだ。海の香りを知らずとも山の絶景を知らずともそこらで空を見上げればそれなりに爽快な気分にもなれるし、そもそも知らなければ不満もない。そんな事をせずとも、充実して生きていくことはできる。

 いやはや、まったく、旅行をする必要が、人生においてどこにあるのだろうか。

 一体、旅行に出かけたそこに何があると言うのか。本当に旅行に出かけるほどのことなのだろうか。旅行に行かなかったら人生で詰むのだろうか? そもそもどうして今ある以上の物がそこにあると思うのだろうか。

 いつもと違う場所に行っても、ただストレスにさらされるだけだ。これはもう環境の変化に対応する生理学的な現象として避けられないことだ。

 いつもより周囲への警戒を要して、移動に時間を無駄にして、なおかつ自覚的にも無自覚的にも不安になって、それで何かが得られるとして、それは本当に苦労に見合うことなのか。

 メリットよりデメリットの方がずっと大きいと思う。プラマイで言えばマイナスだ。少なくとも俺はそう思う。

 そんな訳で、俺は、旅行に行くような奴の気が全くしれなかった。学校の教室で、お土産を配っている奴を見る度に、なにくそと思った。

 家に籠っていれば、何らかの災害が起きない限りずっと平穏でいられるのだ。平穏とは苦しくない辛くない穏やかな気持ちでいられるということで、平穏じゃないとは苦しくて辛くて穏やかじゃない気持でいるということだ。

 だったら、平穏は人間が最終的に求めるものだ。大体多少のスパイスとかいうのも平穏があってこそのもので、人生は限られていて、その時間を出来る限り平穏で楽しいことに費やすことは本来あるべき人生の大きな目的なんじゃないだろうか。

 人生は苦痛と楽しみで構成されていて、その中で苦しい思いをするのは最小限にすべきだ。全く、当然のことである。

 しかし、しかしながら、誰が考えたのかは知らないし、何のためにあるのかも分からないし、子供の気持ちを全く考慮していないような、大人の独善だけで決めつけたような子供を追い詰めるためだけの行事は、小中高と確かに存在する。

 修学旅行なんて、誰がどういう経緯で考え付いたのだろうか。

 小学校や中学校、高校での修学旅行は、吐きそうになるくらいに嫌な出来事だった。

 例えば、HRの時間を使ってわいわいとグループの皆で自由時間の予定を決めるときも、テストの日程を自分で決めているような気分に一人陥って、とても気が重かった。

 他のグループの奴らは、友達同士で随分とわいわいきゃいきゃいはしゃぎながら話し合っていたようだが、俺は違った。

 そもそも俺に友達なんてあんまりいなかった。

 ほんの顔見知り程度の奴を含めた何となく大人しい他のメンバーたちと、ぎこちなく、そして事務的に予定を決めていく中で、俺は飛行機に乗ることやホテルに泊まることや良く知らない土地を彷徨うことなどをまざまざと想像させられて、胃が痛いような胸がむかむかするような、そんな不安と憂鬱が混ざったような気持ちを一人で抱えていた。

 ところで、ここまで中々極端な考えをしてきたが、これが極端なことは自覚していて、ある程度自嘲的な認識のもとで俺はこのことを考えている。俺は俺の考えていることが、皆が思うべき正しいことだと考えている訳ではない。そんな視野の狭い考え方はしていない。

 俺は俺の正しいと思う考えを持っているだけで、それを周囲に認めてもらおうとは思っていない。

 新奇探索傾向という俺の持っていない要素が、人間の発展と向上に必要な燃料であり、そして俺はそれが欠けているが故に、世間の進化に貢献しないであろう駄目な人間であると周りに認識されているだろうことも、まあまあ自覚していた。

 思考と行動の全てが保守的な傾向で染まっている事は違いない。積極的に動くことはなく、そして、それでは駄目な場面も人生に存在することも理解している。

 親にも良く俺にとって余計なお世話的な文句を言われることはある。お前の将来が心配だとか、そんなんでこの先生きていけるのかなんて言われたことがある。別に、それは否定しないし、実際、俺と同じ性質の反面教師をこれまでにいくつも見てきて、その度に、こいつみたいになりたくないなぁと思ったこともある。

 ただ、それでも自分を変えようとしないのは、繰り返すが、俺なりの考え方があるというだけだ。

 大体、やりすぎても駄目なのだ。積極的に行けばいいというものではない。俺と正反対の性質を持つ反面教師もたくさん存在する。そういう類を見る度に、こいつみたいになりたくないなぁと思う。

 どっちの類の人間にもなりたくない。俺は賢く生きたい。賢く生きるにはどうすればいいのだろうと、日々考えながら生きているのだ。

 しかし何のかんの言っても、これは何もしない言い訳に過ぎない。俺は単に駄目な存在なのかもしれない。だから、何もしないのではなくて、何もできないだけなのかもしれない。

 そんなことを考えつつも、俺は常に消極寄りで、ハイリスクハイリターンなどもってのほかで、ローリスクノーリターンな行動戦略を今までに取ってきた。そして今までとは書いたが、これからもそれは変わらないんじゃないかとも思う。人生を最小ダメージで進んでいこうという狙いだ。

 そういう観点でいくと、新しい環境に移り変わるときは人生最大の難所だ。

 見知らぬ安心でないものが周囲でいっぱいになるということは、周囲から常にダメージを与えられ続けるということだ。自分の知っている物に囲まれるようにならないと、受けるダメージはずっと消えない。

 だから、俺はなるべく今いる自分の環境を手放さないようにしてきた。例えば、住居、学校などで、いたずらに変化が生じないように慎重なふるまいをしてきた。

 最低限の変化、例えば学校を移るときなどは、なるべく自分の殻に引き籠って、迫りくるストレスと誘惑に耐えていた。最小ダメージになるべく抑えて、要するに俺は何もしなかった。そうして、徐々に自分の知っている物が周りに増えてくるのを待つ。

 俺は新しい環境への対処を手放し、落ち着きやすい位置にすっぽりと収まれるように努力することに専念し、見知らぬクラスメイトとの交流を断念し、そういう訳で俺の友達はいつまでたっても少なかった。

 ところで、話はころころと変わるが、友達がいない奴は、勉強がよくできる奴か、全然できない奴かのどっちかだと、俺は考えている。

 これはそもそも子供がなぜ勉強をするのかという事をテスト前に延々と考え続けたときに結論付けたことなのだが、まず前提として、勉強への大部分の動機は大人に強制されたものであるという事実がある。

 なぜなら勉強とは子供にとっては大人に強制される義務教育のことでしかなく、そして義務教育は、判断能力がまだまだ発展途上であり、まだまだ大人の言うことを比較的素直に聞く内から、刷り込みの様に行うものだからである。教育は子供にとって義務で、やらなければ叱られることなのだという認識を強制的に教えこませるのだ。

 とはいっても、ただ強制するだけで子供が勉強をするという単純なことではなく、むしろ強制したらしたで逆効果なんてことも多々あるわけで、義務の押しつけが即行動に結びつくということはない。お前は勉強が好きなのだとただ叱られてはいそうですかだなんて、そんなロボットみたいな子供はそういない。

 しかし、こうした強制は子供にとっては強い圧力なのであり、そしてそれが子供が持つ価値観に多大な影響を与えることは否めないのではないだろうか。つまり、即効的ではなくとも、勉強をする動機の形成を強いる背景に、義務教育があるということである。

 実際、なぜ勉強をするのかと子供に訊いてみたとして、「先生に言われたから」という主体性のなさが極まった答えが大半を占めそうな雰囲気はあるように思える。

 統計的に十分なサンプルをわざわざ聴取することはしないが、一人のサンプルとして、少なくとも俺はそう答えただろう。そして、もしそれが一般的に正しければ、そうしたぼんやりとした答えは、動機の形成が自発的でなく、受動的な与えられた形のものであることを示す良い例証なのではないだろうか。

 義務であるだけで、子供がそれに素直に従って勉強をするようになることはない。しかし、外からの圧力があったときに、子供たちはそれに反発するだけなのだろうか。圧力による直接的な変形ではなく、むしろ、逃れられない圧力に適応するように、さながら進化の発達のように、自ら変形して、強いられた勉強を受け入れることはあるかもしれない。

 つまりは大人と子供の共同作業で、自分を勉強に追い込むということだ。圧力と、その受容。各々子供が勉強をするには、大人に義務付けられた上で、そこからの、勉強を行うための、更なる理由付けを各自で行う必要がある。そうした理由付けが、生きていくための自分の価値観の変形であり、圧力を正当なものへとして、圧力に対する反発を極力しないで、圧力から受けるダメージを軽減するのだ。

 言い換えれば、勉強しなきゃいけない環境に後付けで適応すると言うことだ。勉強する気持ちと理由は圧力への適応の結果だ。そういう気持ちも理由もなかったら、理不尽へ向かって無謀な反抗をしなければならない。それは酷い劣等感によるストレスを生むだろう。

 このような圧力への適応としてひどい例を言えば、ストックホルムシンドロームだろうか? 適応できない奴は反発して直に受ける圧力によって落ちこぼれる。落ちこぼれはそこらにたくさんいる。落ちこぼれていない奴はうまく適応出来た子供だ。

 具体的に、圧力へ適応するために行う理由付けとは、一方では、それは勉強内容に対する消極的(稀に積極的)な興味であり、他方では、それよりもさらに主な例を述べれば、学力における点数づけられた価値観そのものを形成することであり、それにより絶えず生じてくる優越感あるいは劣等感に追い立てられて、子供は勉強をすることになるのである。

 元来人間はどこまでも優越感を求める生き物だ。そして、子供はどのようにして他人より自分を優れているかどうかを判断するのだろうか? 足が速いこととか、ケンカが強いこととか、家が金持ちなこととか、さまざまあるだろうが、大人につけられる点数は、子供にとって、格好の判断材料ではないだろうか? それが、自分の置かれている環境の正当化に値するのだとすればなおさらだ。

 つまりは、他人より点数が高いと快感だから勉強をし、点数が低いと不快だから勉強をするという、至極単純かつ正当な価値観による理由が、子供を取り巻く環境と本人の脳構造から生まれるわけだ。

 ただし、こうした価値観による理由はあれど、それに従った素直な反応をする人間は少ない。

 なぜなら、勝てる人間がいるのなら負ける人間も当然でてくるのだ。そして、他人に負けると言うことは直視するに耐えがたい事実であり、一瞬でも考えていたくない案件であるからして、それについては逃げた方が楽なのである。繰り返すが、勉強をしない落ちこぼれはたくさんたくさんいるのだ。そうした落ちこぼれは、義務教育の圧力に劣等感の圧力が合わさった状況で、どうやって生きていけるのだろうか?

 どうしようもない環境に対する適応の要請に応じて、形成された価値観はさらに複雑になる。ゴミ汁をすするがごとく、わかりやすく無様な価値観を築き上げて、自己の優越感を無理矢理に保とうとする。

 例を挙げると、自己防衛のために、自分よりも下の人間を見下したり、自分よりも上の人間をくさしたり、逆に自分よりも上の人間をやたら持ち上げてニヤニヤ笑ったり、他人と違うという部分において自分に価値を見出したり、そもそもの理由を理屈をつけて放棄したり、自分と同じような人間を探して、そのコミュニティに属して、駄目で良いんだと安心したりする人間が、周りをよくよく見なくてもやたら目につく。

 こうした行為は、自分の価値観を都合良く捻じ曲げて優越感をひっぱりだしたり劣等感を押し込めたりしている訳だが、人間はそうしたことを白々しくできるような機能を持っているのであり、そうした適応によって人間は圧力に耐えて生きていけるのだ。義務教育の圧力に対する適応の行き過ぎた延長線上にこの適応は存在する。

 そしてこうした自己防衛を行おうとしたとき、友達がいると便利なことが多い。

 優越感も劣等感も他人がいなければ生じることはなく、仲間うちで示し合わせれば簡単に紛らわせる。女子とかチャラ男は、それが顕著だと思う。中学生とか高校生がとにかく友達を優先したがるのもそれだ。奴らは、まずなにより仲間の同意を得たがる。「そうだよね? 俺正しいよね? これに同意しない奴は正しくないよね?」という空気を作るのによく苦心している。まず人の顔色を窺う。同調圧力をよく利用する。それさえしていれば、自分が矮小でも問題ない。相手が教師だろうと関係ない。仲間内において自分は優れた存在だと、仲間に自分を認められているのだと、そういう優越感を真っ当に感じることができるのだ。

 クラスで頭の良い奴のそばにすり寄って必要以上に「天才かよ~」とかなんとか褒め殺して騒ぐ奴とかテスト後に「やべえよ~今回マジやべえよ~やべえよ~」みたいなことを大袈裟に友達と喋っている奴はそこらで見かけられると思うが、それもそうなのだ。奴らはそうして劣等感を誤魔化し、さらに優越感を遠回しに生み出しているのだ。仲間である優秀な人間に自己を投影し、もしくは他人との状況の共有による仲間意識からお互いを認めあう意識を作り出し、また自らの状況を理解してるフリをする弁えてる自分にねじ曲がった価値を見出し、自己の劣等感の正当化をしているのだ。

 そして、友達がいない奴はそれが出来ないのだ。

 一人でいるしかないから、もしくは同調できる人間がいないから、劣等感を紛らわせることが他の奴と同様にはできないのだ。

 自分の中にどんどんともやもやしたものを、耐えがたいものになるまで、溜めこんでしまうのだ。

 だから、俺は劣等感と戦いながらも、勉強をやらなきゃ駄目だという強迫観念のもと、最低限の宿題はこなしてきたのだ。それでもかなり逃げ続けてきたことは認めたいと思う。

 俺のいた高校は特にレベルが高いということもないとはいえ別にレベルが低いという訳でもないのだが、とにかく一人で最低限の勉強をしつつ、劣等感から逃げつつ、それでも比較的いい成績を叩きだして優越感に浸りつつ、それを卒業までキープすることができたのだ。

 そうしてそのまま俺は地元の大学へと進んだ。

 学力がその大学と丁度見合っていたのは運が良かった。正確に言えば、もっと上のレベルを目指せる位置に俺はいたが、そして教師にもそれとなくそう勧められたが、それでも俺はその凄くうちに近い大学へ進むことにした。

 俺は、俺の望んだ方向へと惰性で進み、ずっと環境の変わらない実家で過ごし、そしてその大学に通うことになる。

 別に、勉強がしたかったわけではない。大学の教育内容に興味が特別あったわけでもない。勉強をすることが楽しかったからでもない。

 勉強の成果はでれば嬉しいが、それは小さいころから植え付けられているどこにでもあるような幻想なのだ。


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