ラーメンとか支那そばとかの由来
先日、希少な私の読者の方から相談を受けた。
「支那そばとラーメンはどう違うのか」
その方はひどくお悩みのようで、髪を振り乱し、目には隈をつくり、その憔悴しきった様子に私は強く胸を痛めた。
この方は、私があまりラーメンが好きではないと結論付けたことをご存じないようだったが(私の過去のエッセイを参照頂きたい)、
とかく私も思うところがあり、先日、近所の支那そばを看板に掲げるお店に出向いてみた。
お店に入り、私は本来の趣旨を早速忘れ、チャーハンに目が止まるわけだが、そこで”あるメニュー”が目に留まった。
「おすすめ!炭火焼地鶏らーめん」
はて、ここは"支那そば"屋ではないのか?
看板が支那そば、メニューはラーメン、どういうことか?
私は高まる気分を抑えられず、店長の胸倉を掴みかかるように、相変わらず美味いチャーハン大盛りを平らげて帰ってきた。
そして本件についてしっかりと読み手の皆さんに答えなければならない、と今に至るわけだ。
結論から申し上げる。
まことしやかな由来なぞない。ラーメンの由来はただ「店長のフィーリング」だと。
時代が違う、地域が違う、発祥が違う、そんなの当たり前だ。そもそも人、個人が考えれば自ずとそうなる。
出来上がったものをその時の勢い、気分で決めるから、そこに歴史もロマンもないのだ。
強いていうなら、その人の美学、のみだろうか。
考えてみて欲しい。
そもそも「中華そば」を作った人は「中華そばを作ろう」と考えて存在しない料理を作ったのか。
否。
できたものを見て「これは・・・言わば中華そばだ!」と決めただけなのだ。
例えば、ラーメンの名称も、「南京そば」「支那そば」「中華そば」「ラーメン」とある。
この順で、日本におけるラーメンの名称が変化を遂げた、という一説もある。
これも同じだ。
本当にこの順なら、私はこう考える。
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Aさんは、日本で中華麺を使い、中国本場の味をアピールしようと考えた。
作ってみたら、いい感じ。そうだ。私が旅した場所になぞらえて、これは「南京そば」としよう。
ほどなくして、Bさんは南京そばの美味さを知った。
しかしよ、俺のほうが美味く作れるぜ!!・・・なんだよ、本当にうめえ、俺天才。
これは南京なんて都市の表現よりビッグだぜ。これはまさに「支那(China)級」だ。だから「支那そば」だ。
そして支那そばが世の中を席巻した。
ちょっと離れたところにCさんがいた。
おし、俺も真似して作ろう。おおっ、なんだこの美味さは。他にはないぜ。
これは国では収まらない「中華圏」・・・むむっ「中華そば」だ!!
ここでDさんが登場するが・・・もっと美味いものを作っても「世界そば」にはならないと考える。
もう、何が何だかわからないからだ。
そこで本格的な、本物志向的な表現を求めた結果、それが「ラーメン(拉麺)」となったのではないか、と。
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あとはある意味”横展開”だ。
創意工夫する人は、多種多様にここから手を加えるからだ。
味にアレンジを入れよう。「塩」「味噌」「とんこつ」、そういえば「レモン」ってあったな。
地域性をだそう。「札幌」「博多」「尾道」「喜多方」、新しいところで「富山ブラック」。
呼び方を柔らかく変えよう。「らーめん」「らうめん」「らあめん」。「ら〜めん」なんてあるかも。
私はここに存在するのは、その時に受け入れられた味と、命名された名前しかない、と捉えている。
当然ながら、なにも私はラーメンを否定していない。料理人の味への探求心、創意工夫、失敗の連続はあったはずで、美味いラーメンを作り出した人の熱意は賞賛という言葉でも足りないほどだ。
そして美味しいラーメンは、そんなお店は、どんな料理だって総じて美味いものだと、日々味わいながら思っている。
また別の話をしたいと思う。
ある和菓子屋さんの話だ。実在するかどうかは読み手の判断に任せたい。
そこの店主はこう考えた。
「あそこのあのお菓子は美味い。そうだ、作り方は同じだけど、砂糖を水飴に変えて売ろう」
これで実際そこそこ売れるわけだ。
下手をしたら・・・もとい、上手くいけば、"名物"、"銘菓"と呼ばれ、いつか老舗の看板も、と至る。
この話が本当かどうかは置いといて、この話を聞いて、某北海道のラングドシャ風のお菓子や、某伊勢のあんころ餅なんかは、極論、そこでなくても近場の駅、空港、高速のサービスエリアで類似品を食べることができる世の中であることを、お気づきになるだろう。
それでいて、何故これがこれまでのラーメンに、ラーメンの歴史に当てはまらないというのだろうか。
当てはまるにきまってる。
逆にぶつけたいのだ。ラーメンという日本人が魅了され続けているその料理に、美化されすぎたブランドに目を奪われた者よ。現実に目をそらすなと。
だから、もう一度いう。ラーメンをはじめとするこれらの名前は、店主の努力から生まれた産物だ。
そこに何かしらの厚みがあるかのような、名前の由来、ルーツ、由緒ある歴史などというものはない。
なるほどなあ、と、何かラーメンにまつわる美談を求めたかった方には、味気ないかもしれないが、そこは本物を食べて本物の味で補完して頂きたいと思う。
そして改めて私から最後に伝えたい。
この論調は、ほとんど何も調べず、ただ矢田の頭1つで考えて勢いで書いたものだ。つまり、まったく信憑性はない。
意外と筋が通る気がしているので、一人歩きしないことをただただ祈るばかりである。
ラーメン研究家、これも嘘です。
前に続いて、一生懸命考えました。
支那そばのルーツはヨーロッパだ、とかも考えたのですが、ラーメンという大きすぎるテーマに、発想を変えざるを得ませんでした。
重ねて書きますが、根拠はありません。
でも、こんなもんじゃない?と少し思ったりしました。