37 人間失格
「おい坂下、坂下起きろって」
そう揺すっても、残念ながら俺の隣の坂下朱美は俺の肩を枕にしてぐーすか寝ていた。
坂下の住んでいる駅は普通しか止まらない。そして今その駅に止まっているというのに、坂下はガチ寝しているのだ。さっきまでは狸寝入りしてたくせに。
ぷしゅ、と閉まる扉を電車の中から見てため息をつく。
腕を組んで寝ているその姿は可愛いというよりもオッサンを彷彿とさせる。
とにかく、次の駅は俺の最寄駅だから起きて貰わないと。と思い、坂下を前後にシェイキング。
徐々に近づいてくる自分の駅。
普通に乗っている人で、俺の最寄り駅のような大きな駅で降りる人は少ないが、前のサラリーマンがカバンを肩にかけ始めた。
待て、やばい。どうする、これお姫様抱っことかそんなクソ恥ずかしい事をしないといけなかったり……なんて考えればぶるっと背筋が震えた。
「おい、坂下起きろ」
電車のスピードが緩んでくる。
そしてホームが見えてきて、俺の焦りは最高潮に。
そんな時、ようやく坂下が目を覚ます。「ああ、どうも」なんて呑気に俺に挨拶。
ドアが開き、そこそこの人が電車から降りる。
俺もそれに遅れまいと坂下の手を取ってばっと電車から降りた。
「……お前マジで一回殴る」
坂下にそう言うと、坂下は駅の看板を見て「私の駅じゃない!」なんて声をあげた。バカだろお前。
かなりホームの端の方で降りたので、エスカレーターまではなかなかの距離を歩かなければいけない。
あーやらかした。なんて漏らす坂下。
俺も坂下も今さらながら手を繋いでいた事に気が付いてぱっと手を離した。
「お前どうすんの」
「どうしよう」
「電車来るまで一緒に待っててやろうか」
「そんなの糀谷さんに悪い」
「じゃあどうすんの」
「……糀谷さんのお家行きたい」
「お前マジで俺と同じ日本で育ってきたよな? さっきの『糀谷さんに悪い』って考えどこ行ったんだよ」
ずる、と脱力してしまうようなそんな感覚。
それでも坂下はマジらしく、顔を少し赤くさせて黙って頷いた。
「わ、わざと寝たんじゃないですからね、これほんとに!」
「……左様でございますか……」
ここで「お前、男の部屋に来るってどういう意味か分かってんの」なんていうワイルドな言葉を吐くでもない。だからと言って「お前はもっと自分を大事にしろ」なんていう優しい言葉をかけるでもない。
俺の中にはただただ「もうどうにでもな~れ」という思いが渦巻いていた。
マンションの扉の鍵をがちゃと開け、扉を押す。
部屋片付いてたっけ。なんて思いながら部屋に足を進めた。電気をぱちぱちと付けていくと、坂下が「おじゃまします」と言って部屋に上がる。
きょろ、と俺の部屋を見渡した後坂下は「綺麗な部屋」と漏らした。そして遠慮なくコートやマフラーをぽいぽいと机の上に投げる。
すとん、とベットにもたれるように座り込んで俺を見る坂下。俺も黙って、その横に座る。
「……糀谷さん彼女いたってマジですか? 脳内彼女じゃなくて? 部屋から女の子っぽい感じ全然しないんですけど」
「前に言っただろ、全部捨てた」
もはや断捨離のごとく。そう付足すと、坂下はけらけらと笑った。
ポケットからタバコを取り出して、火を付ける。ベランダに行くのは面倒だし、どうか火事が起きませんようにと祈りながら。
黙って煙を吐いていると、坂下がうつむきがちに「糀谷さん」と漏らした。
「お前ドーナツ食えよ。俺も食うから」
「……お腹減ってない」
「……はー?」
「緊張して、全然お腹すかないです」
あっそ、と言ってテレビを付けて冷めたドーナツを口に含む。
チャンネルをぽちぽちと変えていると、坂下が体操座りをして、その膝と膝の間に顔を埋めた。……ほんとどうしようこいつ。
「お前さ、俺の家来たいとかどんな神経してんだよ」
「それを拒否しないあんたもどんな神経してんだよ」
ほんとこいつ一回殴ってやろうか。そう思いながらドーナツをもう一口。
坂下は顔を未だに膝と膝の間に埋めたまま「浮気された」と衝撃のカミングアウトを。え、ええーと謎のリアクションを取ってしまった自分を恥ずかしく思う。
坂下は顔をばっと上げたが、泣いてるなんて事もなく、俺を見てへらりと笑った。
「坂下さん、俺が昔に言った脳みそゆるふわガールの法則を思い出してごらんよ」
俺がそう言うと、坂下は「ウザ敬語やめてください」と言う。それでも俺が昔言った「脳みそゆるふわガールは彼氏と上手くいってない事をさらっと他の男に言う」という法則を思い出したらしく、坂下は黙って俯いた。
「やったね坂下、お前も悲劇のヒロインの仲間入りだ」
冗談交じりにそう言うと、坂下はまた笑った。
そしてポケットからタバコを取り出すと、俺に無許可で火をつけ煙を吐く。
「この浮気された経験を元に携帯小説書いて、大ヒット目指すしかないですね」
タイトルは愛空で。と坂下はタバコを加えて笑う。
そういえば、昔恋愛ものの携帯小説が凄く流行ってたな。なんてぼんやり考える。
「お前みたいなクソが書いても共感を得れるとは思えないけれど」
そう言うと、また坂下はタバコの煙を吐きながら笑う。
坂下の意図がようやく分かった今。俺はため息をつきながら口を開いた。
「俺を使って彼氏に復讐。相変わらず良い度胸してんなお前」
「度胸だけは一丁前です」
「褒めてないから」
坂下がタバコをとんとん、と叩いて灰皿に灰を落とす。
それでも、何で浮気されたかとか、私ってば可哀想でしょなんて泣く事もない坂下朱美はまだクソレベルが低めなのかなぁなんて。
「まぁ考えとく。とりあえず今日は飯食お」
「考えとく、ってどういう時使うか知ってますか」
話題を逸らしたい時に使うんだよ、なんてご丁寧にも俺の脳細胞は返事を用意してくれたが、坂下にそんな事を言う気が失せてしまった。
何故なら、坂下が俺のシャツの襟元をぎゅっと握って「こっち向いて」と突然の命令をしてきたから。
「……坂下さん、君は俺の部下です」
「知ってます」
「……ついでに言っとくと君には彼氏がいます」
「知ってます」
考える時間、終了。
坂下の鼻をつまんで唇にキスをすれば、坂下はすぐに口を離してびっくりしたように俺を見た。
「お前から言ってきたくせに、そういう顔は勘弁して」
「糀谷さん」
「なに」
「……私、ほんとはちょっと強がってる」
俺の胸にとんとおでこを付けた坂下がそう言う。
坂下さんちょっと勘弁してくださいよ、そういうの。なんて思いながらもう一回唇を重ねた。
「糀谷さん、電話なってます」
「気のせい気のせい」
ぷるるる、と鳴る音を無視して首筋に唇を這わせながらそう言うと、坂下が「彼女」と小さく呟く。
ぱっと携帯の画面を見れば、見慣れた名前が表示されている。
「それ、メルマガ」
「すごい、糀谷さんメルマガから電話かかってくるんだ」
坂下が、ディスプレイに表示されている名前ををぽつりと口に出す。
それ以上聞けば、本気でしらけてしまいそうだから「黙って」という意味を込めて唇を塞いだ。
「ベストセラー、間違いなし」
俺を見上げた坂下がそう言って笑う。
お前が実体験を元にして書いたとしても、あの漫画じゃあるまいし、ヒロインがタバコを吸ってる時点でももういろいろアウトだろ。
そもそも、浮気されて自分も浮気するってヒロイン失格にもほどがある。
キスマークはやめとこうか。と言えば坂下は、気にしなくて良いと笑う。
もうこれ、ヒロイン失格なんて騒ぎじゃないな。
もはや、俺も坂下朱美もまとめて人間失格。




