35 彼氏と同じ匂いがする
彼女からのメッセージが入っていた。
それに気づいたのは、休憩時間にスマホを触っていた時。
前までは見るだけで口元が緩んだ、彼女の名前なのに。
今は、何も感じなかった。
なんとなく、返事はできなかった。
「あー糀谷さん、うーっす」
会社が終わって、前の自販機でコーヒーを買っていた時だった。そんなうざい声で俺に声を掛けたのは勿論坂下朱美。
ポケットから出した手は俺に向かって振られている。ほんとこいつ俺の友達かよ。なんて思いながらも、手をぐぱぐぱとさせる。
坂下は俺の背後にある自販機でカフェオレを買った後に、俺を見て笑った。
「しけた顔してますね。らしくない」
「うるせー」
プルタブをあげれば、坂下がわざとらしくずいっと俺の方に自分のカフェオレを寄せる。それにちょっと笑いながら、こつんと音を立てて乾杯すれば坂下は「よろしい」と満足げに笑った。
「なんでそんな元気ないんですか、ちょっと怖い」
「いや、彼女から連絡きてて」
「……え、別れたんじゃないですか」
隣を歩く坂下はやけに驚いたようにそう言った。
そんな坂下を見て少し黙っていると、「あ、いや別にそういうつもりじゃなくて」と付け足した。そういうつもり、がどういうつもりなのかよく分からない。なんて考えながらコーヒーを口に含む。
「……っていうか何で別れたんですか」
「喧嘩した」
「……ふぅん。謝ればどうです」
坂下はカフェオレから暖をとっているようで、いつもより遅く歩きながら、ぐっと俺を見上げた。
「……考えとく」
「考えとくってのはイコール絶対やらない。って事ですよ」
坂下がけたけたと笑いながらそう言う。確かにそうなんだけれど。
喧嘩のきっかけはものすごくどうでも良い事。でもそれを皮切りに今まで我慢していたお互いの不満をぶつけあったせいで、恋人関係はジ・エンド。失恋の歌を聞いても他人事に聞こえてしまうような、そんな別れ方だった。
「ずっと嫌な所を我慢してたから、良くなかったのかもなぁとは思う」
「どういう事ですか」
「いや、その我慢してたから最後に爆発したっていうか。普段から言っとけばきっとよかったんだろうけど」
坂下はその言葉にふぅん、と呟く。
そして急にまた歩くスピードを緩めて、俺のコートの裾を少しだけ引っ張った。は?と思って横目で見れば坂下は「そんなに早く歩けません」と笑った。
あの日、ずんずん俺を置いていく勢いで歩いていった坂下朱美はどこへ行ったのやら。
「私も普段から、不満を言い合えるようなそんな人を好きになれたらなぁ」
坂下が伏目がちにそう言った。
遠回しに自分の彼氏はそんな人じゃない。と言っている所に同情しながら駅に向かって足を進める。
「坂下なら凄い勢いで彼氏に不満言ってるだろ」
「……そんな事ないです。嫌われるのが怖くてなにも言えないし」
「やだ、坂下さんらしくない」
そう笑うと、俺がバカにしたのに気がついたらしい、坂下は俺を軽く殴る。
お互いの歩みがゆっくりとしてきて、普段なら十分で着く駅までの道が今日は十分で着きそうにない、なんて時計を見る。
「あ、すいません糀谷さん時間ヤバいですか」
「いや、別に」
嘘だけど。もうすぐいつも乗る快速出るけど。でもそうは言えなくて、普通しか止まらない駅の近くに住む坂下の歩みに合わせて駅までの道を歩いた。
「お前の彼氏、もしかして時計見る癖ある?」
「大正解」
目をまんまるとさせた坂下がそう言う。
「あれ、気になるよね。俺の彼女もそうだったわ。帰りたいならさっさと言いだせばいいのに。チラチラ時計みるとことかほんっと嫌いだった」
あ、やばい。このままだと不満が噴出し続けそうだ。と思って少し口をつぐむ。坂下は俺の言葉に少し驚いたような表情を見せた後にマフラーに顔を埋めた。
「私は、さっさと帰りたいのかなぁと思って悲しくなります」
坂下がらしくないもの悲し気な表情でそう言って見せたので、俺はその言葉の後に五回ほどわざと時計を見た。
坂下はそんな俺のしぐさを見て「バカにしないでくださいよ!」とまた俺の脇腹を軽く叩く。
「さっさと帰ればどうです!」
「いや、もー快速でたからゆっくりで良い」
どうせ次まで時間あるし。そう言うと坂下は何も言わずにカフェオレを口に含んだ。
それにつられて俺も温かなコーヒーを口に含む。
すると風がぴゅうと吹いて、思いっきり耳を冷やした。やばい、耳当て欲しい。なんて思った時坂下が俺を見上げながらまた笑った。
「糀谷さん、私の彼氏と同じ匂いがする」
「……はー? 俺とお前タバコ違うけど」
坂下が前に言っていた「彼氏と同じ匂いになりたかった」なんていうたばこを始めるには不純すぎるきっかけをその時思い出してそう言った。
坂下はそういう事じゃなくて。と笑う。
「柔軟剤の匂いですか、それとも香水? よく分かんないけど一緒の匂い」
犬かよ、とぼそっと付足せば坂下は笑う。
そして本題本題なんて言いながらカバンをごそごそと漁った。待て、本題もってくるタイミング遅すぎるだろ。
「これ。妖怪ぼっち、姪っ子さん好きなんでしょ。私たまたまマッケでハッピーセット食べたんです。その時おもちゃで付いてたから……」
坂下がそうやって突き出したおもちゃの入った袋。
どう考えても外国産のそれは袋の外側に英語でつらつらとおもちゃの説明がされている。そして、おもちゃの袋の透明な部分から中身を見ればそれは俺の姪っ子の推し妖怪である「じべにゃん」がちらとこんにちはしていた。
「じべにゃん!!」
道の真ん中でじべにゃんと叫ぶアラサー。相当ヤバい。
勿論道行く人にちらちらと見られたので、恥ずかしさから少しマフラーに顔を埋める。
このじべにゃんは、姪っ子が欲しいと言っていたので勿論俺も入手しようと頑張ったのだが、俺が行った頃には当然の如く完売。
このおもちゃは終了しましたなんていうシールにモザイクされたじべにゃんをもの悲しく見つめたもんだ。
「すっごいたまたまですよ、ほんとに。私ポテトとかSサイズで良いタイプだから、それで買ったときにおまけで貰っただけですし」
安っぽいじべにゃんの人形を持つ俺に坂下が、ぷいとそっぽを向きながらそう言った。
その日の夜、超ルンルン気分で自分の姉に電話すると、そのじべにゃんが発売一日で販売停止になるくらいの人気商品であった事を教えてくれた。
手に入れられなかったから、きっとあの子も喜ぶ。なんて嬉々と言う姉の言葉を聞きながら、俺は坂下のあの時の表情と態度を思い出して「ああ、ちょっとやばいかも」なんて数か月前の自分では考えられないような事を思っていた。




