31 世界中のロマンチストが黙ってない
「朱美が、薫が浮気してないかって心配してた」
風呂から上げれば、ヤケルトタワーをバックにロリックマがそう言った。
俺は、くしゃとタオルで濡れた髪を拭く。
「浮気? してないけど。何で急に……」
「だよね、薫も朱美も、もう浮気なんかするわけないよね」
ロリックマがそう言った。
意味ありげなその言葉。この言葉の意味が分からずに「なに言ってんだこいつ」となれば良かったものを。
俺はこの時、思い出してしまったのだ。
朱美と自分が前世で一体どういう関係であったか、を。
椅子に腰かければ、やけに心臓がばくばくとした。
そういえば大学時代、教授が初めての授業の時に自己紹介のスライドを映し出しながらこう言った。「今の嫁さんが、僕のはじめて付き合った人です」と。
その発言の後、大教室は急にざわめいた。五十歳近い教授の恋愛事情なんか皆どうでも良かったにちがいない。でも、この教室がこんなにもざわめいたのは多くの人間が「凄い」なんて思ったからだろう。
あいにく、俺はそこで「すげー」と声をあげる側の人間だった。
誰かひとりをただ強く想い続けるなんて、普通の人間には難しい。
きっとこの教室の90%の人が「すげー」なんて思っていただろう。現実ではそんなものなのだ。
恋愛小説では、初めて付き合った人とゴールインするのが正義かもしれない。
けれど、俺も朱美もそんな甘っちょろい世界では生きていなかった。
だいたい、皆が皆純愛を突き通せば、シンガーソングライターは何を歌えばいいんだよ。別れの歌が存在しない世の中なんてあり得ないだろ。
俺と朱美の関係は、間違っていた。
なにもかもが間違っていた。
けれども、それでもいいと、間違いでもいいと思えるほど盲目だった。
世界中から非難されても、確かにあれは愛だった。
*
「お前はコピーの概念がない国で生まれたのか」
キーボートを叩きながらそう言うと、坂下は大きく舌打ちをした。
椅子を少し回転させて、俺のデスクの斜め後ろに立つ坂下を見上げる。今にもキレそう、そんな表情。いや、キレたいのこっちだから。
坂下が渡してきたコピーはもれなく斜めっている、というクソ仕様。
「反省してまーす」
「お前が何でクビにならないか俺には理解できない」
坂下朱美は本当に使えない女だった。
コピーも下手くそ、パソコンを打つのが早いわけでもない、仕事をこなすのも遅い。これがまだ世に言うドジっ子だったら許せたものを。
俺はこの坂下朱美が死ぬほど嫌いだったが、周りはそうでもなかった。
俺の同期も、坂下の同期も、上司も皆「坂下は良い奴だ」と言う。
そこそこの大学を出て、そこそこの会社に入る。なんていうテンプレ人間のくせに。まぁ俺もそうなんだけれど。
人懐っこい性格でもなく、周りを和ませる雰囲気をもっている訳でもない。
喫煙コーナーでいつも気だるげな雰囲気でタバコを吸っている女なのに、何故か良い奴判定。俺には全くこの女の良さが理解できない。
「糀谷さん、ライター忘れてましたよ」
さっきに自分のミスはまるでなかったかのようにして坂下はそう話を切り出した。
ぽい、と俺に安物のライターを渡し「もっと高いの使えばいいのに」と軽く笑う。
「糀谷さん、それよくコンビニとかで売ってるやつじゃないですかー。シッポとか使えばいいのにー!」
「……ジッポの事か?」
「あ! 間違えちゃったー! 恥ずかしい……」
俺と坂下の会話に入ってきて、今恥ずかしさからしゅんとするのはゆるふわ系女子新谷。
新谷は、坂下の同期だ。いつも気だるげな坂下と違っていつもニコニコしていて、でもどこか抜けている。そんな社内でもかなり人気の高い社員だ。
坂下朱美より、新谷の方が五千倍くらい可愛い。そして和む。
坂下朱美は特に何も言わなかったが、俺を見て少し笑った。
「お前も、新谷くらいの可愛げがあればいいのに」
そう呟く。新谷は「もう、糀谷さんってば」と俺の肩を軽く叩く。
坂下朱美は俺を見下すような目で、また俺を見て笑った。
今日も仕事が終わらない。
イライラする気持ちを抑えるために喫煙コーナーに行くと、そこには坂下朱美が居た。イライラした気持ちを抑える為にここにやってきたのに。
「あ、糀谷さん」
坂下がぱっと手を挙げる。
お前は俺の友達か。なんて思いながらタバコをくわえて火を付ける。
「お前、女のくせにタバコ吸うなよ」
「じょせいさべつはんたーい」
煙を吐きながら坂下がそう笑う。
珍しく、喫煙コーナーの定番メンのおっさんどもは居なくて、坂下と二人っきりだった。そう言えばこいつとここで二人になるのは初めてかもな。なんて思いながら息を吐く。
「糀谷さんがタバコ吸い始めた理由って、漫画のキャラに憧れてなんでしょ」
突然そう言って坂下が笑った。
何で知ってる、と口からこぼれそうになったがぎゅっとつぐむ。
「誰から聞いた」
「喫煙コーナーの皆が言ってました。糀谷さん漫画とか好きそうに見えないのになー。意外」
「……うるせー」
俺がそう言うと坂下は笑った。
坂下は、自分の好きな漫画に出てくるヒロインにほんの少しだけ似ているな。なんて思いながらタバコを吸う。
「私もその漫画読みたいです」
「買えよ」
「貸してください」
「買えよ」
「お金ないんです。それに買ったのにつまらなかったら困る」
確かに。あの漫画はつまらなくないけれど、坂下は女だし好みじゃないかもしれない。
こいつの為にわざわざ漫画を会社まで持ってきてやるのは少し不服だったが、あの漫画は俺のバイブルでもあるため、布教活動の一環として考えればいいか。
「……女向けじゃないと思うけど」
「タバコ吸ってる時点で女子力は皆無なんでいいですよ」
「確かに。お前料理とかもできなさそうだし」
「はぁ? 私の作るカレー超美味しいですから。ほっぺた落ちますよ」
「……絶対うそだろ」
そんなことない、私の彼氏も朱美カレーが好きだもの。なんて坂下は笑いながら言う。
遠回しに彼氏いますアピールされたのに若干腹が立つ。お前に彼氏が居ることなんか知ってるわ。
坂下朱美は、いつもいつも喫煙コーナーでおっさんどもに彼氏の愚痴を言っていた。
俺の盗み聞きした限りでは、坂下の彼氏は就職浪人してからその後はフリーターなんていう典型的なダメ男だった。
別れろよ、なんて笑うおっさんどもに坂下は煙を吐きながら笑う。
「私にはあの人しかいない」と。
いつもいつもどこか冷めた目をしていて、ゆるふわクソアマなんて他の女子の事をバカにするくせに、脳みそお花畑なんだなと俺は一人で思っていた。
坂下朱美はバカな奴。いつもそう思っていた。
おっさんどもは、優しいからかあいつをバカなやつだと言ったりはしなかったけれども。
そんな俺が、バカな坂下朱美以上にバカな男になってしまうのは、もう少し後の話である。




