25 隠語
「早紀はねー、颯太くんと秘密の言葉決めてるのー!」
本日も、早紀ちゃんプレゼンツ「ヤマなしオチなし惚気報告会」開始のゴングが鳴る。
大体彼女が部屋に来た時点で覚悟はしているのだが、よくもまぁそんなにも颯太くんとのラブラブエピソードが出てくるものだ。
「そ、そうなんだ」
「颯太くん、にゃあ♡って言えば、『颯太くん、すき♡』って意味なの!」
にゃあって言うより、すきの2文字の方が楽だろうが。
だがしかし、早紀ちゃんが首を傾げていう「にゃあ♡」はなかなかの破壊力である。こりゃ颯太くんもイチコロですわ。
「ただいま」
薫さんがいつもみたく、疲れ切った表情でそう言う。そしてとりあえず寝室に向かう彼の背中を目で追った。
いつも通りジャージ姿に着替えた薫さんは、私が食卓に置いていた料理を見て「どうした」と真顔で私を見る。
「……早紀ちゃんと一緒に作ったから味は大丈夫だと思います。まー、まずかったら出前とりましょう」
そう言って食卓の椅子を引いて座る。
薫さんはロリックマと少々戯れた後、ロリックマを食卓の上に座らせて私の前に座る。
いただきます、と薫さんがお箸を持って言う。私はどうか食べれますように、と祈りつつ食事に箸を進める。
「すげぇ、食える」
「お前もそこそこ練習したら料理できるようになるだろ」
薫さんが料理に視線を落としながらそう言った。
確かに、今日も早紀ちゃんにはほぼ見守ってもらっていただけだし、私も頑張れば料理出来るようになるかもしれない。なんか人間としてのハードルが低い気がするけどそこら辺は気にしないでおこう。
「もうちょっと上手くなったら、朝も私が作ります。悪いし」
「……助かる」
薫さんはそうとだけ言うと、無言で食事に箸を進めていた。
薫さんの男のくせに長い睫が、彼の顔に影を落とす。この人、ほんとに女に生まれるべきだったんじゃないの?
私がじっと見ていた事に気づいたようで「なに」と言って彼は眉を寄せた。
なに、と言われて「かっこいいと思ったから見つめてました」なんてカミングアウトを出来る訳がない。
私は必死に脳内の、会話のネタタンスを荒らし回す。
「あ、ああそう言えば今日早紀ちゃんが颯太君との間に隠語作ってるって言ってました」
思いついた内容は、どうでもいい早紀ちゃんの話であった。
やはり薫さんは心底どうでもいい、と言った表情で私を見ている。
「か、薫さんにゃあ」
私は、なぜ体を張って笑いを取りにいっているんだ?
薫さんはじとっとした目で私を見た後に、スマホで「猫 霊 憑りついている」とキーワード検索をしていた。
なにこの人、私になんか猫の化け物にでも憑りついてるとでもと思ってんの?
「ちょっと待ってください。私は正気ですよ」
「まだ何かに憑りつかれてる方が、気が楽なんだが……」
頭を抱えた薫さんがそう言う。
確かにそうですよね。正気で「にゃあ」とか言われる方がぞっとしますよね。
「うん、それ、そう」
次の日、いつも通り薫さんは朝食を作ってくれる。
でもいつもと違うのはその横に私も居るという事。薫さんに見守ってもらいながらようやくできた目玉焼き。
私が目玉焼きを一枚作る間に薫さんは、9.9割の用意を済ませてくれていていた。
私が目玉焼きを皿に乗せ食卓に乗せると、薫さんがコーヒーを注いだ後に椅子に着く。
「……薫さん、私の作った目玉焼き美味しくないですか」
「自画自賛すんな」
薫さんは、コーヒーを飲みながらそう笑う。
今日は目玉焼きだけど、明日はパンを焼けるようになりたい。なんて低い心ざしを胸に自分の目玉焼きを食べる。
薫さんは時計をちらと見た後に、トーストをさくさくと食べ、コーヒーを飲みほしてカバンを取り立ち上がった。もう出勤時間か。なんて私も時計を見る。
薫さんは「行ってきます」と言い玄関に足を進める。「いってらっしゃい」と言うロリックマに私も小さく「いってらっしゃい」と言う。
そろそろ私も玄関まで送るべきかなぁなんて、トーストをかじりながらぼんやり思う。すると、食卓に薫さんのスマホが置きっぱなしである事に気が付いた。
流石にこれを置きっぱなしはやばい、と思い玄関までだっと走って健康サンダルに足を突っ込みドアを押す。
すると薫さんはまだエレベーターの前でエレベーターを待っていた。
「薫さん、これ」
「あ、どうも」
薫さんにスマホを手渡す。ミッションコンプリート。
よし、帰るか。なんて思った時、隣の家に扉が開いた。花崎夫婦、襲来である。
「あ~! 薫くんに朱美ちゃん!」
そう言って早紀ちゃんと颯太くんがエレベーターの前までやってくる。
薫さんはエレベーターの下がるボタンを連打しているが、そうやってもエレベーターが早く来るわけもない。当然私たちはこの夫婦に捕まってしまった。
「朱美ちゃんも、薫くんのお見送り?」
「ま、まぁそんなとこ」
ちら、とエレベーターの上の表示を見る。
この階は四階。しかしエレベーターはまだ二階のご様子。さっさと来いよ……と思っていた時、私と薫さんの目の前で、早紀ちゃんと颯太君はちゅっと軽くキスをした。
「薫くんと朱美ちゃん何でキスしないの?」とキスを私たちにまで強要されなかった事に胸を撫で下ろす。
颯太くんは、早紀ちゃんの可愛さにめろめろのようで「早紀」と朝からイチャイチャしている。
「颯太君、にゃあ♡」
早紀ちゃんがそう言った。
薫さんはスマホを開き、先ほどの検索結果をまた見ている。
「……早紀、何言ってんだお前」
「えー! にゃあって言うのは『好き』っていう意味なんだよー!」
薫さんが、私を見た。
ちょ、待て。
「朱美さん、随分遠回しですこと」
ちん、という四階にエレベーターが付いた音をバックに薫さんがニヒルな笑みを浮かべる。
違うってば、そうじゃないってば!と私は声を上げるが、薫さんは「はいはい」と返事をした後に颯太君と一緒にエレベーターの中へ足を進める。
「颯太君、薫君、いってらっしゃーい!」
「違う、ほんと違うんだって、ちょっと!」
私の必死の叫びも虚しく、エレベーターの扉が閉まる。
違う、まじで違うんだって!ともう一度小さく呟く。
「朱美ちゃんと薫くん、今日もラブラブだったね早紀超ハッピー!」
え、どこが。と言いかけるのをぐっと抑える。
薫さんが私をみてニタニタ笑っていたのが早紀ちゃんからすれば、バカップル特有の「恋人の顔みたら頬の筋肉緩んじゃうの病」に見えたのだろう。
まぁ、今日は早紀ちゃんと颯太君を朝から死の淵に追い込まなかったからいいか。
なんて私は、心の中で「隣人を殺しかけなかった記念日」をお祝いしていた。




