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21 けんか

 喧嘩がはじまるのは、どちらかの機嫌が最悪な時が多い。

 とんでもなく些細な事でも相手の事が許せなくなるのだ。


 私は、どうにも薫さんの「地獄みたいな夜だった」という言葉に傷ついていたらしかった。



「朱美、今日の朝はー……」


 薫さんは、朝から目玉焼きなんかつくりながらどうでも良い話を続けている。

 私は、いつも通り冷蔵庫から牛乳を取り出してラッパ飲みをする。



「おい、お前やめろって言っただろラッパ飲み」


 じゅううと卵の焼ける音を背景に、薫さんはそう言った。

 普段なら「メンゴメンゴー」なんて言って終わる所だが、今日は何故か、そんな言葉を発せずに黙ってしまう。



「しかも、ちゃんと服着ろ服」


 薫さんはどうにも、私のもう随分寒い時期だというのにちゃんと足を隠さないスタイルが気に入らないらしい。

 私は「うるさいな」と何故かマジトーンで返してしまった。

 薫さんは、驚いたような表情で私を見る。フライ返しを持ったまま。



「朝から、ウザい」


 本当にこういう、幼稚な言葉使いしかできない私よ。

 じゅうっと焼ける音がやけに耳につく。

 ほんとに、どうしてこんなにも朝からイラついてるのか自分でも分からない。


 正直、薫さんの小言にはそこまでイラついていなかった。

 ただ、彼の「地獄みたいな夜だった」という言葉が何度も脳内で反射して。それにイラついて。そして、嫌いなはずの彼の言葉でこんなにも心を乱してしまっている自分に対してもイラだって。



「……お前、なにそんなに朝から機嫌悪いわけ? 昨日、一緒に寝てやったのに」


 薫さんは、私が思っていた以上に大人な人だった。

 目玉焼きに視線を戻して、少し笑いながらそう言った。

 普段なら別にこんな言葉に腹は立たない。「~してやった」とわざとらしく言うのは薫さんの癖だし。



「……ほんとそういう言い方もウザい、死んだらいいのに!」


 私がそう言うと、彼は私を見た。

 そして、かちゃとコンロの火を消した。



「おい」


 薫さんの声は、低かった。

 目が合えば、何故か逃げ出したくなった。



「そういう事、ぽんぽこ言うのやめろよ」

「……あんただって、今まで普通に『死ね』って私に言ってきてたじゃないですか。なのに何ですか? 急に正義ぶって」


 私はその時、薫さんと二人で飲んだ時、薫さんにどうして最近「死ね」と私に言ってこなくなったのか、と。問いかけた事を思い出した。

 彼は「朱美に死んでほしくないから?」なんて笑いながら言っていた。

 薫さんは、少し目を伏せる。そして何故か自虐的な笑みを浮かべながら口を開いた。



「……お前は、本当はどうしようもない位弱い人間なのに。それを隠すために必死に強い言葉を使ってるもんな。可哀想に」

「……は?」

「今も図星だから、何も言い返せない」


 薫さんは真っ直ぐ前を見たままそう言った。

 ……本気でウザい。何なのこの人。



「私の何を知ってそんな事言ってるわけですか? ただの上司だったくせに」


 薫さんは何も答えなかった。

 


「本当にウザい」


 イライラした気持ちを抑えようと思って、ズボンのポケットをまさぐるけど、タバコはない。そう思えば尚更イライラが募る。


 だいたい、『お前は口が悪い』なんてここまで来てこの人は何を今さらな事を言っているんだろう。私の口の悪さが徐々に露呈してきて文句を言うのなら分かるものを。

 そのくせ「俺はお前を分かってる」みたいな口調。非常に腹がたつ。



「私の事なんか何も分かってないくせに、知ったような口きくのマジでやめて貰えません?」

「……俺はお前をよく知ってる」

「あんたが知ってんのは『あーたん』。前にも言ったでしょ。『あーたん』は死んだって」


 は、と鼻で笑いながらそう言えば目の前の薫さんは私をぎっと睨んでいた。

 彼のこんな表情を見たのは初めてだったので少し背筋がぶるっと震えた。……会社に居た時に、怒られた事は何回かあったけどこんな表情をする人ではなかった。


 そういう表情をされると、言わなくて良い事まで言ってしまうバカな自分がいる。



「ほんと、私いつまであんたとこんな仮面夫婦生活続けなくちゃいけないんですか?」


 こういう事を言うなら、本人の顔をちゃんと見て言えよ。と自分でも思う。

 でも、何故か私は薫さんの顔が見れなかった。

 

 自分が一番分かっているはずだ。隣人のお陰と言えども、最近何だかんだ言って薫さんと過ごす生活もちょっとずつ楽しくなってきているという事も。

 なのに、どうして、私はこんな事を怒りに任せて口にしてしまうのだろう。



「いい加減にしろよ」


 薫さんが、私の手首をぐっと掴んだ後に震える声でそう言った。


 糀谷薫の怒り方は「あーマジで、お前みたいなバカに付き合わされる俺可哀想だわーマジついてないわー」という感じの相手を責める、というよりも、自分がどれだけの被害を被ったのかという事を伝えてくる、そんなウザい怒り方。



 今日は違った。

 私を睨んでいるくせに、手と声は震えている。


 怒っているんでしょ。なのにどうして薫さんは泣きそうになっているの。



「お前は、俺の気持ちも知らないで」


 普段なら「ハァ?当たり前でしょ、私はあんたじゃないからあんたの気持ちなんか分かるもんか、っていうか分かってたまるか」なんて反論するのが私である。


 今日は違う。薫さんの表情が、声が、仕草が、私の言葉を奪ってしまう。



「いい加減にしろよ」


 薫さんが、噛み締めるように、またそう言った。

 私は何も言う事が出来なかった。


 今までならこんな風に喧嘩をしていれば必ずと言っていいほど、隣人が登場してきたのに。


 電話が鳴らない。

 私と薫さんの間にあるのは沈黙だけ。


 このまま、私と薫さんが喧嘩別れしても隣人は構わないのだろうか?

 薫さんだって気づいてるはずだ。こんな喧嘩をしているのに、隣人からの電話やメンヘラ家庭訪問がない事に。



「喧嘩してるのに、隣、何とも言ってこないですね……」


 視線を下に落としながら、そうぽつりと呟いた。

 薫さんはぱっと私の手を離した。


 隣人からのアクションがあったから、いつも何だかんだ私と薫さんの喧嘩は「とりあえず停戦」状態に持ち込めていた。でも今日はそれが無い。



「お前なんか、大っ嫌いだ」


 隣のメンヘラ攻撃がないのを良い事に、薫さんはそう言った。

 私は、さっきまで薫さんに対して暴言を吐いて居たのに、薫さんのその言葉を聞いて何も言い返す事が出来なくなってしまった。


 私と薫さんの間に愛情はない。

 隣人に死なれたら困るから「夫婦っぽい何か」を演じていただけ。そんなの自分が一番分かっている。

 それでも、この人に。糀谷薫に面と向かってそう言われると、どうしてこんなにも胸が痛むのだろう。



 薫さんは、机の上にあった車のキーを乱暴に取ると、上着をさっと羽織って玄関へ向かって歩いて行った。

 車でどこかへ行くのだろう。簡単にそこまで予想はできたのに、玄関まで行って「行かないで」なんて引き留める事ができるような女でもなくて。私は黙ってキッチンをぼんやりと見ながら玄関のドアが閉まる音を聞いて居た。



「……朱美」

「うるさい」


 机の上に座っていたロリックマがようやく口を開いたが、「うぇーん薫さんと喧嘩しちゃったよー」なんて泣きつく気にはなれなくて。

 私はイライラした気持ちを抑える為にも、机の上に置いていたタバコの箱をばっと取って、ベランダに向かった。


 そして、健康サンダルに足を突っ込んで、ベランダに立つ。

 普段ならここから外を眺めながら薫さんとタバコ吸ってるんだけれど。そう思うと、いらだちと哀しみが一気にやってきて何とも言えなくなってしまう。


 白い室外機の上にどんと座り込む。

 か弱い朱美ちゃんの体重くらい支えてみせろ。なんて思いながら私はタバコに火を付けた。



 そう言えば、薫さんとこんな風にちゃんとした喧嘩をしたのは初めてだな。

 隣のメンヘラサポートって偉大だったんだ。なんて思っていた時、私の携帯がぷるると音を立てた。


 薫さんかな、なんて思ってしまった自分よ。

 それでも、画面に映し出された文字は「花崎早紀」なんていう今さら過ぎるメンヘラサポートセンターからの電話であったのだ。



「……もしもし?」

『朱美ちゃん!?!? 薫くん、さっき車でどこかいっちゃったみたいなんだけど……早紀、不安で不安で……』


 電話越しに聞こえる震える声。

 なんで今さら。なんて思いながらも私は、とんとんとタバコの灰を落とした後に口を開いた。



「かーくん、ちょっとお買い物に行っただけだよ、大丈夫♡」


 語尾に無理やりハートを付けながらそう言った。

 ……いや、本当に大丈夫かどうか分からないけれど。


 私は、ぷちと電話を切った後にタバコを灰皿に押し付けてキッチンに戻った。


 薫さんが作ってくれていた、卵焼きが残っていた。

 薫さんが用意してくれていた朝食が、机の上で寂しく私を待っている。



「あー今日は一人で居れるしラッキー」


 そう言ってみた。

 心の底から、そう言っていたつもりだったのに何故か鼻がつんとした。

 泣きそうになった自分がいた。

 自分の事が、もっと嫌いになった。













 次の日、目を覚ますといつも通り朝食の良い匂いが私の鼻をかすめた。


 寝室のドアを押して、キッチンを見ればいつもの通り薫さんがキッチンに立って朝食を作っている。


 その背中を見て、夢なんじゃないかと思って頬を少しつねってしまうバカな私。



 そして、昨日の喧嘩は全部なかった事にならないか。なんて思ったが人生そんなに都合のいいものではない。

 机の上にいるロリックマは「朱美、ちゃんと謝りなよ」なんてお節介を焼いてきた。



「……あの、……おはようございます」


 私がそう言えば、薫さんは卵を割りながら「おはよう」といつもと変わらない様子で答えた。薫さんは朝食作りを行っている為、私に背を向けている。


 昨日の事、薫さん的にはもう無かった事になっているのだろうか。私的にはこのままウヤムヤのままでいいんじゃないかな。なんて思ったが食卓のロリックマがじろじろと私を見てきた。謝れ、という事だろう。



「……あのー……」

「なに」

「そのー……」


 謝るなんて、「ご」と「め」と「ん」を言えばいいだけの作業。

 なのに、どうして私はこんなにも脳みその中から言葉を探しまくっているのだろうか。



「きのうー……」

「……うん」


 薫さんはあくまで、私が謝るのを待っているらしい。

 こんな時「お前から謝れよこのクソが!!!」なんて思うのが、クソアマ界の重鎮・朱美思考であるのに。



「その、なんか、ごめんなさい」

「……ちょっと、言い過ぎたかもしれません」


 「ちょっと」を強調させつつそう言う。

 薫さんからの返事はなく、私は数秒間ただ卵が焼けるジュウウという音を聞いて居た。

 薫さんは、依然私に背を向けたままである。



「……俺も、昨日は言い過ぎた」


 そんな短文だったのに、私の中にほんの少しだけあった薫さんへの怒りはすっかりと消えてしまう。彼もこうであればいい、と少しだけ思った。



「……昨日、どこ行ってたんですか?」

「……1人で頭冷やしてた」

「ふーーーーん、そうですか。私は1人でベッド使えて超快適でしたよ」


 そう言った瞬間脳内朱美が「お前はバカか!?!?!?」と迫ってきた。

 なんで私ってこんな口の利き方しかできないんだろう。なんて自己嫌悪。


 本当は、1人で寝るのがとても寂しくて、とても悲しくて、薫さんと喧嘩した事を後悔していたのに。


 それでも薫さんはそんな私の「意地っ張り」な所に気づいているご様子。

 はいはい、なんて呆れたように返事をした。



「朱美」


 そう言って薫さんが振り返った。

 薫さんは笑っていたけど、彼の目元は軽く腫れている。

 昔、自分があーたん時代に、かーくんからプロポーズして貰った日にギャン泣きして目が腫れた、あの日を思い出した。




 薫さん、泣いていたの?



 そんな言葉を言いたかったのに。


 何故か、言えなかった。

 ……言わなかったの方が正しいか。

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