10 好きなマンガのワンシーンをなぞる
結局、花崎早紀が黙ってない(アダルト)な状況に耐えかねた私たちは、寝る事を諦め、ソファに座って全く見たことのないアニメを無言で見ていた。
そしてそこで流れたコーヒーのCMを見て、「コーヒー飲みてぇな」と珍しく意見が一致した私たちは、ジャンケンを行った。そしてそこで負けた薫さんが今コンビニまでパシられる事に。
「カフェオレが良い」
私がそう言うと、薫さんは「了解」と小さく答える。
椅子に掛けていた上着をさっと取り、袖を通すと玄関へと消えていく。私はそれをソファに座りながら見送った。
今さらになってなんか外に行きたくなってきたな、なんてソファから立ち上がる。まぁコンビニまで行くのは勘弁だけど。
ベランダは寝室から繋がっている。寝室を耳を塞ぎながら通りぬけ、窓を開けて健康サンダルに足を突っ込む。
二人ひとが立てばやっとなこのベランダからは、目の前の国道を見ることが出来る。もう少し上の階なら綺麗な夜景なんか見えたのかもしれないけれど。
つるんとしたコンクリート造りのベランダから下を見る。
ロリックマはやけに場所を取っている室外機の上に座り込んでいた。
「朱美、なにしてるの」
「もうテレビおもしろそうなのなかったし」
「さっきのアニメも全く展開分からなかったけど」
ロリックマがそう言って笑う。
確かにあの深夜アニメ全く意味が分からなかった。なんて思いながら下を見れば、薫さんが横断歩道を渡っていた。私が上から見ている事なんか知らないようで携帯を触りながら歩いていた。事故るぞ。
「……ねぇロリックマ」
「なぁに」
「あんた、ほんとに天使なの」
「うん」
「私には、あんたが悪魔にしか見えないね」
ロリックマの方を見ずに、ただただ国道を走る車を見ながらそう言った。
ロリックマは何も答えない。なんなの本当にあんた悪魔なの。なんてため息まじりに後ろを振り返ると、ロリックマはいつも通りの表情で私を見た。
良かった。ここでいきなり悪魔の才能を開花させてナイフでも突き立てられたら困るし。
「なんであの人なのよ」
ぽつ、とそう呟く。
糀谷薫が嫌いだ。前世の時から。
ムカつく上司で、いつもいつも嫌味ばかり言ってくるようなそんな人。
「なんでって、薫だからとしか」
私はロリックマのその言葉にため息を漏らした。
下を見れば、薫さんがもうコンビニから出てきている。ほんと早いな。
ため息交じりに今度は上を見てみる。大して綺麗でもない夜空。ぴかぴかと動いているのは飛行機の光。昔、あれが流れ星だと思っていて、「何だ三回祈るのなんかチョロイじゃん」と思っていたのが懐かしい。
「朱美はさ、もし一つだけ願いが叶うとすればどうする」
ロリックマの意味ありげな表情に何故か腹が立つ。
私はまたぼんやり車の光を見ながら「願いを三つにしてもらう」と言った。ロリックマを見ればため息を付かれる。悪かったな、小学生みたいで。
すると薫さんが帰ってきたらしい。ドアががちゃと開く音がした。
「朱美」
私を呼ぶ声がするので、「ここです」と言ってみると薫さんが寝室に顔をひょこと出す。
コンビニの袋をもったまま寝室の明かりをつけようとする薫さんに「つけないで」という意味を込めて首を横に振った。
寝室よりも、ベランダの方が明るかったから薫さんにはその仕草が見えたらしい。電気を付けず、ベランダまで一直線にやってきて健康サンダルに足を突っ込んだ。
コンビニの袋をがさっと漁った後に、ん。といって私に淡いクリーム色のカフェオレを手渡す。温かい缶を手にして自分で頬に寄せてみる。じんわりと温かい。
「よくそんな甘いの飲めるよな」
真っ黒な缶のコーヒーを開けた薫さんがそう言う。
コーヒー飲める奴ってどうして皆こうなのか。カフェオレがまるで悪のような。そしてブラックコーヒーは善のようなそんなもの言いをする。
「悪かったですね、甘党で」
少し後ろに目をやると、ロリックマが薫さんが買ってきてくれたらしいぺろぺろキャンディを舐めていた。
良いな、私もどこか口が寂しい。なんて思いながらプルタブを上げる。すると薫さんと目があった。
どちらともなく、何故か缶を合わせる。コーヒーで乾杯なんて。かこ、という間抜けな音を耳に残しながら私はまたぼんやりと外を見ていた。
「何でわざわざベランダに」
「なんとなくです」
「ふーん」
そう言って薫さんはコーヒーを飲む。
興味ないなら聞くなよ。なんて心の中で悪態をつく。
がさ、と薫さんはコンビニの袋をまた漁って私に小さな箱を投げる。ぱっと取るとそれは私の好きなタバコだった。
「これ、お前好きだろ」
「あー、そういやタバコ吸ってないなぁ……」
前世では、よく会社の喫煙コーナーでこの人と鉢合わせるくらいにはよく吸っていたのに。
私もこの人も転生する事で自動的に禁煙できていたのに。私は苦笑しながらビニルの袋をぺりぺりと剥がす。
ライター。と私が探したのを見て薫さんが、おまけに買ってきたのであろう、安っぽいライターを私にまた投げる。
ぐ、とカフェオレを飲みほし、私がもたれかかっている転落防止の為の壁にそれを乗せた。
隣の部屋の夫婦にバレると、色々面倒だろうけど少しくらいなら良いか。と一本だけタバコを箱から取り出しカフェオレの横に箱を置く。
「女のくせに、タバコ吸うなんて」
「女性差別はんたーい」
「喫煙所で会うたびに、オッサンたちとスパスパ吸ってるから可愛げのない女だって俺は思ってた」
「……薫さんがタバコ吸った動機って好きだった漫画に憧れて、でしょ。ダッサー」
「うるせぇ」
人差し指と中指の第一関節あたりでタバコを挟んで、もう片方の手で火を付ける。
懐かしい匂いと感覚に埋もれながら、私は喫煙所の光景を思い浮かべていた。
「……いつもお前は喫煙コーナーで彼氏の愚痴ばっか言ってた。さっさと別れろよなんていうオッサン共のアドバイスは聞かないし」
薫さんはなぜかそう、つらつらと続ける。そんな事あったっけ。というよりこの人よくそんな細かい所まで覚えてるな。
何も言わずに、ただ大きく息を吐く。私が口を開く前に、何故かロリックマが「薫」と彼の名を呼んだ。
「バカなやつだと思ってた」
薫さんはそれ以上は何も言わなかった。ただ私が吐く息をぼんやりと見つめている。
私はとんとん、軽く指で叩いて灰を少しだけカフェオレが残っている缶の中に落とした。この人は一体なにが言いたいのだろう。
多分表情からして何かを私に伝えたいのは違いないんだけれども。もう一度息を吐いてそんな事を考えてみる。
「バカって言う方がバカなんですよバーカ」
「……確かに」
反論してこない事に少し気味悪さを感じながら、私はもう一度小さく「バーカ」と言う。
飲み口の近くで一度たばこを、ぐと押し付けてから、まだ少し残ったカフェオレの中にタバコを落とした。
「私、なんでタバコ吸い始めたんだっけ」
箱からもう一本だけ取り出し、口に加える。
かち、と火を付けて息を吐けば薫さんが「ライターちょうだい」なんて私の方に手をぴっと出してくるからその手に安っぽいライターを乗せた。
「知らねーよ。お前が吸い始めた理由なんか」
「……ほんとムカつく言い方しかしませんねあんた」
薫さんは、ちら。と私の方を見たけれど何を言う事もなくまた白い煙を吐いた。
そういえば、なんで私は「薫さんがマンガの影響でタバコを吸い始めた」という事を知っていたんだろう。
かーくん時代には、この人はタバコを吸っていなかったのに。ま、どうでもいいか。
「私、タバコ吸ってる男の人好きなんですよ」
そう言った瞬間、ミスった。と思った。
私の隣でタバコを吸う男は、ちらと横目で私を見る。
あ、いや。あ、あんたの事じゃないんだからね!なんていう誰特ツンデレをかましかける寸前、口を開いたのは薫さんの方であった。
「俺はタバコ吸ってる女嫌い。ロクな奴がいない」
半笑いでそう言われた。
どう考えても私に宛てられたその言葉に若干むかっとしたが、タバコって凄い。煙が肺を満たせば少しだけ気持ちが落ち着いたので、黙って薫さんの言葉に耳を傾けていた。
「だいたいのタバコ吸ってる女の動機って『彼氏が……』からはじまるから。他の男に教えてもらったタバコを吸い続けてるとか、新しい男としては気分最悪。前の男がチラつく」
「ふーん。じゃあ私の次の人は、薫さんを恨むだろうね。ああ、かわいそ」
だって、あんたがこの乙女ゲーの世界で脱タバコしてた朱美をまたタバコ沼に引き込んだのだから。
けけ、と笑いながら言った私の言葉に薫さんは「ああ、本当に可哀そう」なんて笑いながら、そう言う。
飲み終わったカフェオレにとんとんと灰を落とした後、ぎゅっと飲み口にタバコを押し付ける。
そして「あと一本だけ」なんて思いながらタバコを取り出す。
薫さんはそんな私をちらと見た後に、ライターを手渡してきた。本当にライターが行ったり来たりめんどくさいから、明日ちゃんと自分用のライターを買いに行こう。
「俺も」
そう言ってタバコを加えた薫さん。
私が手を添えてライターに火を付けるが薫さんは首を振った。どうすんの。と私が火を消すと私のタバコを指さした。
「もしかしてシガーキスでもしたいんですか? 私やった事ないから上手くいきませんよ絶対」
っていうか、この乙女ゲーの世界で喫煙デビューしたのは今日だし。
前世の記憶があるから、タバコの吸い方なんかは簡単に思いだせるけど。……いや、前世の記憶の使いどころを考えろ、って感じだけどさぁ。
「だったらチャンス。朱美さんのシガーキス・バージンを俺が奪えるじゃないですか」
薫さんが、ウザ敬語を披露しながら笑う。
バージンってなぁ。あんたほんとにね。とここから先どうでもいい下ネタを口走りそうになったので、私は視線をちょっと斜め横にやった。
「だいたい、なんでシガーキスなんか……」
私のそんな疑問。薫さんからの返事は無かった。
あれ?でも私シガーキスバージンだったかな?なんて今さら貞操の危機。
横目で薫さんを見れば、何故かちょっと眉を下げて笑っている。
その顔を見て、ほんの少しだけ、ほんとにほんの少しだけきゅんとしてしまった事なんて、口が裂けても言わないけど。
まぁ、あんたがしたいならいいですけど。なんて言えば、薫さんがゆっくりと顔を近づけて、私のタバコに自分のタバコを近づける。
息もかかりそうなそんな距離。お互い見つめ合うことなく、タバコに視線を落とす。
「いき、吸って」
薫さんが小さくそう呟いた。
国道を走る車のクラクションの音よりも、じじという小さな音に耳がいく。肺を満たす空気が心地いい。
火が付いたのを見て、お互いタバコを離して息を吐く。
げほげほ、とむせているのはロリックマだけ。私も薫さんもこの世界では初めての喫煙で、タバコデビューの日だというのに。
私の隣にいる薫さんは、煙を吐きながら「悪くないね」と横顔で笑った。




