浮気されたのでこちらも別のヒトに乗りかえる為に走る話
大きな荷物を抱えて家から去ろうとする女。
それを見つめる幼い少年の目にはいつもの活発さはない。
『ママ……どこ行くの?』
恐る恐る尋ねた少年に返事をすることも、あまつさえ振り返ることもせずに女は玄関へと進む。
扉を開けた先には見慣れぬ若い男。
女は派手に乗った化粧の顔を嬉しげに綻ばせて駆け寄る。
『ママ……』
玄関先まで追いかけた少年と目を合わせることなく、停車させてあった車に乗り込みとうとう去ってしまった。
それを呆然と見つめる少年の横にそっと並んだのは、彼と同じ年頃の少女。
泣きそうな顔で少年を見つめるが、言葉が出ないらしく口を開いたり閉じたりパクパクさせている。
そんな隣の少女に少年はゆっくりと振り向いた。
『マァちゃん。マァちゃんはボクから離れないでね』
『っ!うん……うん! 約束! カナくんが元気になるまで離れない!』
幼い二人の幼い約束。
いつしか頭から消えたそれだが、少女の胸にはいつまでも刻み込まれていた。
****
うちの学校には有名なイケメン二人組がいる。
一人目は黒髪長身の寡黙な男前。
全国常連の剣道部の主将ながら、生徒会長も務める誰もが認める完璧な人だ。
二人目は天然の亜麻色を無造作に流し、甘く垂れ下がった目元を優しげに細めればどんな女も落とせる歩くフェロモンと言われる人。
一見正反対なこの二人は仲が良いらしく、二人でいる姿はしばしば我が校の女子の目の保養となっている。
そして私は歩くフェロモンの方と幼馴染みであり――現在の彼女でもある。
彼は女性であれば誰にでも優しいし拒むことがないから、彼女の前に一応が付くのだが。
“彼女”という存在は幼馴染みのフェロモンの前では意味をなさず、彼は年中色々な女の子を連れている。
それでも私は幼馴染みが大好きだから構わない。
愚かな女だと自分で思うが、彼から目が離せないのだから仕方ないではないか。
今も校内で堂々と女の子とキスをしている幼馴染みを見つめながらも、怒りなんて湧いて来ないでいる。
たとえキスの相手が私の友達をしている少女だとしても、だ。
誰がどう見たってお似合いに見える二人。
友人の彼女とは特別仲がいいと思ったことはないのだが、不思議となつかれて行動を共にすることが多かった。
あまり友人同士のベタベタした関係は好まないので、髪型や持ち物を真似てくるところが嫌だと思っていたけど別に疎んでいたわけではない。
甘え上手で可愛くて、少し面倒な子という認識だ。
その子が幼馴染みとのキスの合間に、離れた場所からぼんやりと見つめる私に気付いたらしい。
慌てるでもなく目に優越感を浮かべてこちらを見返している。
しかしすぐに幼馴染みとのキスに集中するべく瞳を閉じた。
熱い熱いキス。
情熱的なそれはまるで日本ではないかのようだ。
こんなキス、私は幼馴染みとしたことなんてない。
でもまぁ日本人の私には少しハードルが高すぎるので、したいとも思わないが。
「おい」
二人のキスを冷めた目で眺める私に声がかかる。
「いいのか?」
二人から反らした視線の先にあった彼に私は目を見開く。
「あの女、お前とよく一緒に居る奴だろ?」
「司波くん……」
私に喋りかけて来るなんて珍しいこともあるものだ。
彼は幼馴染みと並ぶイケメン二人組の一人。
冒頭のとおり、剣道部主将にして生徒会長の完璧人間司波くん。
己にストイックで生真面目で寡黙だけど、案外面倒見もよく男女共に絶大な支持率を持つ。
そんな彼が唯一嫌いだという態度を隠そうとしないのが私である。
幼馴染みの親友だから必然的に接点もあり、幼馴染みと私と彼の三人で一緒に帰ったりテスト勉強したりもよくしていた。
おじさんと二人暮らしで食生活も不規則になりがちな幼馴染みの家にご飯を作りに行った時にも遊びに来ていた彼。
私の作ったご飯をやたらと褒めちぎって物凄い勢いで食べてくれた時はなんだか照れ臭かったっけ。
そんな彼の態度が段々と冷たくなっていった時は凄く悲しかった。
最初は目が合った時に咄嗟に反らされるだけだったのが、幼馴染みの隣に私が居るとさりげなく近寄らなくなり最終的には喋りかけても顰めっ面で無視されるようになった。
あんなに優しい彼に嫌われてしまった自分に対して自己嫌悪に陥った。
きっと私が何かしたに違いないのにその理由がどうしても分からない。
私は彼に何をしてしまったのだろう。
「おい聞いているのか?」
嫌われてしまった原因を考え込んでいると、彼は不機嫌そうに眉間に皺を寄せながら私の肩を揺すった。
「あ、ゴメン。ちょっとボーッとしてた」
「……そんなにショックなら、別れればいいだろ? いつまでもすがっていては惨めなだけだ」
肩を掴んだまま苛立たしげに吐き出される言葉。
こちらをわざと刺激するような冷たいソレに、グッと苦いものが押し寄せる。
そんなに幼馴染みと私を別れさせたいのだろうか。
確かに仲のいい親友に不快な女が付き纏うのは彼には面白くないのだろう。
そんなことを考えていると、なんだか視界が霞んできた。
見つめていた彼の顔がぼやけ、喉が焼けつくように熱く鼻がツンとする。
嗚呼だめ、泣きそう。
このくらいで泣くなんてあり得ない。
折角彼から喋りかけてくれたんだ、すぐ泣く面倒な女だなんて思われたくない。これ以上嫌われたくない。
「お、おい。泣くな! くそっ!」
涙を抑えようと必死になったが無駄な努力となり頬を熱い水滴が一筋通る。
それを見た彼はなんだか焦った様子で。
「俺が悪かった。泣かせるつもりなんかなかったんだ。ただ、あわよくばとか情けねぇこと考えた」
「………?」
決まり悪そうにボソボソと呟かれる言葉の意味が分からず首を傾げる。
「………俺なら、俺なら絶対に余所見なんかしねぇのに。絶対大切にするのに」
彼に恋人が居るって話は聞かないけど、確かに彼ならば恋人を大切にしそうだ。
未来の彼の恋人が羨ましくて仕方ない。
「親友の彼女に懸想するような男の言葉なんて信用ならないだろうがな。自分でも自分が信じられない。こんな邪な想いを抱く日が来るなんて」
「ちょ、ちょっと待って。それ、どういう意味?」
これではまるで彼が私を好きみたいに聞こえる。
それとも“親友の恋人”とは幼馴染みが相手にした他の女の子のことだろうか。
なんだろうこの気持ち。
不安と期待で胸が弾けそうだ。
「お前が好きだ。どうしようもなく好きだ」
「っ………」
「気持ちを抑えようと接触しないようにした。酷い態度を取ってお前に嫌われればこの想いも封印出来ると思った。でもやはり無理だ。お前を手に入れたあいつが死ぬほど羨ましい。そしてお前を蔑ろにするあいつは殺したいほど憎い」
私の肩を掴んでいる手の力が強くなる。
普段キリリと引き締まった彼の顔は泣きそうに歪んでいた。
「頼む、俺の気持ちを受け入れてくれ」
どうしよう。
なんでこんなに嬉しいの?
気を抜くと叫びだしそうなほど心が踊っているのはなんで?
私は幼馴染みが好きなはずなのに。
「好きだ。あいつと別れて俺と付き合ってくれ」
ストレート過ぎる台詞にクラクラする。
ああ、頷いてしまいたい。
そしてその広い胸に飛び込み、不安そうな顔に笑みを浮かべさせてみたい。
でもそれは―――
「………無理、だよ」
私はいつからこんなに浅ましい女になったのだろう。
恋人の親友に惹かれるなんて最低だ。
私は幼馴染みが好きで、恋人なんだから。
首を横に振った私に、彼はより泣き出しそうな表情になる。
そんな顔にも小さく胸を鳴らす私のなんて卑しいことだろうか。
「だったら……二番目でも、いい。あいつへの当て付けの浮気でも構わない。どうか側にいさせてくれ」
普段の清廉潔癖な彼は絶対にこんなこと言わないのに。
こんなに格好の悪い懇願をさせているのが私なんて、どうすればいいの?
もう、止めて。
今すぐにでも貴方が世界一だと叫びたくなる。
「貴方に二番目なんて似合わない。貴方ならもっと良い子の一番に慣れるはずだよ」
「違うっ! お前じゃないと意味がないんだ! 二番なんて嫌に決まっている! だがこのまま振られた男として消え去るのはもっと嫌なんだよ!」
興奮した彼がより私に詰め寄るが、やはり沈痛な面持ちで首を横に振るしか出来ない。
「ごめんなさい」
私の言葉を聞いた彼の瞳からふっと熱が引いていった。
「………分かった。もういい」
彼の了承に安堵するどころか私の内心はがっくりとうな垂れた。
なんて図々しいことだろうかと自身を蔑んでみるが、落ち込んでしまうのを止められそうにない。
これで私達は同じ学校の同級生という繋がりしかなくなってしまった。
私と彼は赤の他人だ。
元々薄い繋がりだったのに、それすらも絶ち消えてしまうのだろう。
抑えられぬ失望をそれでも無理に抑えようと必死に表情を取り繕う横で、彼は予想を遥かに越えた行動を取った。
「そこまで俺を受け入れてくれないのなら、もうどうでもいい」
「え?」
引いたと思っていた彼の瞳の熱は先程よりも更に熱くドロドロと粘度を持っていた。
「嫌われたって構わない。どんなゲスにでも成り下がろう。最低な男としてお前の中に居座ってやる」
強引なほどの力で私の手を引き歩く彼。
突然の行動に呆気にとられている内に、空き教室まで連れ込まれてしまった。
様子のおかしい彼の雰囲気に押されて少し後退する私に、彼は後ろ手で扉に鍵を掛けて距離を詰める。
「あいつには俺から伝えておこう。お前と俺は深い関係だとな。心配するな、向こうもお互い様だ。文句などあるまい」
「な、なに……?」
獲物を狙う獣のような鋭い目で私を追い詰めながら語る言葉の意味が理解出来ない。
「それには既成事実というものが必要だ、分かるだろ?」
彼の大きな手が私の腕に伸びる。
強引なのに痛みのない慎重な手つきで壁へと押し付けられる。
「っ!? ふっ、んんん!?」
唇を寄せられ無理矢理な口づけ。
荒々しいそれは息をするのも困難だが、押し退けようにも力で叶うはずもない。
苦しい…………でも嬉しい。
胸が痛いのに幸せで、相反する感情のせめぎ合いで心臓が破裂してしまいそうだ。
パニックに陥り理解の許容範囲を越えた私から零れたのは涙で。
彼のキスを受け続けながら止まらぬことを知らぬそれは、大量に流れ続ける。
すると、ふとキスが止んだ。
「……っ、」
ようやく終わったのかと恐る恐る見上げた彼の顔は悲痛そうに歪んでいた。
「出来、ない。嫌われたくない、泣き顔なんか見たくない、笑って欲しい………」
彼の身体から力がするすると抜け、私を拘束していた腕がだらんと下がる。
「……好きになって、悪かった」
それだけ言うと彼はふらふらと覚束無い足取りで空き教室を去ってしまった。
一体なんだったというのか。
こんな所に連れて来て一方的にキスして一方的に謝って去っていくなんて。
普段は喋りかけても無視しかしないくせに、本当なんなの。
私はその場にしゃがみ込み、膝を立てて蹲った。
今まで気付かないように蓋をしてたのに。
貴方が告白なんてするから気付いちゃったじゃない。私は貴方が好きなんだってこと。
だったら、私の幼馴染みへのこの気持ちはなに?
彼へのモノとは違うこの気持ちは一体どこから来ているの?
*****
翌日の授業開始前、色々考え過ぎて寝不足な私を幼馴染みが呼び出した。
隣には昨日の友人も一緒だ。
彼女は幼馴染みの腕へしがみつき、今にも私が危害を加えんとばかりに小動物のようにビクついている。
どうやらそれが幼馴染みの保護欲を擽ったらしく、甘い目元を更に甘くさせて友人の頭を撫でる。
それにより照れくさそうに頬を染める様はどこの少女漫画だと突っ込みを入れたくなる。
朝から酷く鬱陶しい。
「それで、話ってなに?」
こちらはこんなに悩んでいるというのに自分達だけ楽しそうな二人に苛立ちを感じてつっけんどんに尋ねる。
「実は……私達、愛し合っているの」
目に涙をいっぱい浮かべながらおずおずと語り始めた友人。
「あなたを裏切って悪いとは思ったけど、どうしても惹かれて合ってしまったの。分かって、くれるよね?」
こてんと傾けられる頭。
それが通用するのは多分男性限定だと思う。
そんな友人をスルーして幼馴染みへと視線をやる。
「それ本当なの? 彼女と本気なの?」
「うん、そうだよ。今までの女の子みたいに適当な関係じゃなくて、本気で付き合うつもりだよ」
悪びれることなく飄々と言ってのける幼馴染みに私は目を見開いた。
「なんで? だって……女の子、苦手だったでしょ?」
私の質問に今度は幼馴染みが目を見開く番であった。
いつも女子に囲まれている彼の姿を当然知っている友人は訝しげだ。
「あははは。何言ってんの? 俺女の子は大好きだよ」
笑い飛ばす幼馴染みだが、長年側に居た私の目を誤魔化すことは無理だ。
彼は今かなり動揺している。
「だけど女の子と真剣に向き合いたくないから、私を本命ってことにしてたんでしょ? 私なら気心しれてるし、気楽だもんね」
彼の目がパチリとまばたきを一つ。
あれ? 違った?
心底不思議そうな顔の幼馴染みに予想が外れて軽くショックを受ける。
幼馴染みのことならばなんでもお見通しなんて思い上がりだったようだ。
そりゃあ彼だって成長するに決まってるよね。
「確かに今まではあなたが彼女だったけれど、彼にはもう私が居るわ。ごめんなさい。あなたの居場所を取ってしまって」
私と幼馴染みを遮るように友人がズイッと会話に入ってきた。
ごめんなさいと謝っているわりに、全然申し訳なさそうではない。
どちらかと言えば、勝ち誇ったような優越感に満ちた顔だ。
「でも二人の愛の前ではどんな障害も軽く越えてしまうの」
私は障害か……そっか。
もう一度真剣な眼差しで幼馴染みを見据えると、彼の肩がビクりと上がった。
この仕草は悪戯が見つかってしまった時にいつもするものと酷似している。
怯える必要なんてないのに。
「本当に……本当にこの子を真剣に想っているのね?」
「信じたくないのは分かるけど、少ししつこいよ? そうだって言ってるでしょ?」
友人の苛立った声が響くが今はそれどころではない。
ちゃんと確認しなくちゃ。
彼女を無視して質問の答えを視線で促せば、幼馴染みは戸惑いながらも小さく頷いた。
「そっか!」
その瞬間、私の心に晴れやかで清々しい風が隅から隅まで流れる。
まるで長年蔓延っていた気掛かりが解決したかのような爽快感。
やっぱり私の幼馴染みへの気持ちは、恋じゃなかった。
“心配”だったんだ。
出ていってしまった母親が影響しているのか、本当は女の子が苦手な幼馴染み。
派手目の女の子は特に苦手らしく、触れられようものならいつも一瞬顔が強張っている。
それなのにどんな自虐か知らないが、年頃になるとわざと女の子に囲まれるように振る舞っている。
これが心配せずにいられようか。
だからいつも側に居て不自然ではない彼女という立場を何の疑問もなく受け入れた。
勿論幼馴染みのことは恋とは別の意味で大好きだから嫌ではなかったし、初恋を迎えていない私はこれが恋なのだと勘違いしていたのだ。
本当は心の奥底ではずっと待っていた。
幼馴染みの傷付いた心を癒し隣に並んでくれる存在を。
「カナくんはもう元気になったんだね……良かった、良かったね」
あまりに嬉しい突然の吉報に涙ぐんで幼馴染みの手を取る。
大きくハンドシェイクすると、今度は隣の友人の手も同じように取る。
「カナくんを救ってくれてありがとう。私には言われたくないかもしれないけど、言わせて。カナくんをよろしくね」
正直彼女の魅力は未熟な私では理解しづらいが、きっと幼馴染みには分かっているのだろう。
幼馴染みの前進と二人の幸せに感無量な私と彼らには大きな温度差が出ていたらしい。
なんだか間抜けな顔でこちらを見ている二人に私は満面の笑みを向けた。
「これからは彼女がいるし、カナくんはもう私が居なくても平気だよね」
「え? マァちゃん?」
「私ね、行きたい所があるの」
幼馴染みのことで一頻り喜んだ後で浮かんだのは、昨日の彼のことだ。
「もう間に合わないかもしれないけど……今度は私がカッコ悪く懇願してみる。彼がしてくれたみたいに」
呟くように宣言した私は、素早く二人に背を向け床を蹴った。
心が彼へと逸る。
「マァちゃん……どこ行くの?」
既に駆け始めた私に幼馴染みの幼子のように頼りなげな声は届かない。
私が居なくなりようやく邪魔が消えたとばかりに腕へ凭れようとした友人を、強く突き飛ばした幼馴染みは抗議の甲高い声を無視して私の去っていった先を見続けた。
「待ってよ、離れないで。置いてかないで」
今にも泣き出しそうに吐き出された言葉を受け止めてくれる人物もなく、彼の隣には寂しい空間があるのみであった。
登場人物全員あまり性格が良くないですね。
もしかするとヒロインが一番悪いかも。
最後までお読みくださりありがとうごさいました。