プロローグ
スコーピオンは月のトンネルから這い出した。ゆっくりと後ずさりするその姿を、地球光が照らしだす。
光学監視による発見を防ぐためボディは真っ白に塗られていた。直径七メートルのタイヤに巻き上げられたレゴリスは、完全なる放物線を描いた後、地面に着地していく。
発射位置についたスコーピオンは、バッタの脚に似たアウトリガーを四方に広げた。
続いて、車体後方に向かって伸びている長い砲身を、空に向ける。その姿はまさに、毒針を掲げたサソリだった。
砲撃姿勢を維持したまま、スコーピオンは窓が開くのを待った。数分後、地球の自転と共に、着弾予測地点と地上目標の座標が重なった。
打ち上げ窓は開かれた。
一撃目が発射される。撃ち出されたのは一本のタングステンの矢。秒速三千メートルにまで加速された矢は、ほぼ直線で宇宙に向かって飛翔していった。
五秒後に二射目。さらに五秒後に三射目。無音の砲撃は一分間続いた。
持ってきた十二発の弾丸を撃ち尽くしたスコーピオンは、再びゆっくりとした動きで、トンネルに戻っていった。
スコーピオンと入れ違いで何台かの作業車がトンネルから現れた。作業車は、後ろに引っ張っているトンボで地面をならし、スコーピオンの作った轍を消していった。
作業車が、トンネルに戻る頃、月面には何の痕跡も残っていなかった。しかし、砲弾は自らの役目を果たすため、宇宙を進み続けていた。双曲線軌道を描いて飛んでいた弾丸は、徐々に減速しながら月の影響圏を飛び出した。この時点での速度は秒速約千メートル。月公転軌道から地球への衝突軌道へ遷移するには十分な速度だった。
砲弾は、レーダーへの投影面積を最小化するため、スラスターによる姿勢制御を行った。先端を地球に向けた長さ七メートルのタングステンの矢は、天に浮かぶ地球に向かって、落下を始めた。矢は五日間落下を続け、地球に着く頃には毎秒十一キロにまで加速されていた。その運動エネルギーは戦術核弾頭に匹敵する。
「母さん。いってらっしゃい」
ホノルル空港に親子が居た。母親は一人息子と夫に挨拶をした後、名残惜しそうにチェックインゲートへと向かった。父親は言った。
「さあ、帰ろう」
「待って! 母さんの飛行機見てから帰る」
すでに夜が遅かったため、父親は早く帰りたかった。そこで彼は、息子にこういった。
「ロビーからじゃ、建物の影で飛行機はよく見えないよ。帰りの車の中から見送ろうか。車で走っていたほうが、お母さんも僕達を見つけやすいと思うし」
男の子は素直に父の言葉を信じ車に乗った。
父親は西にある自分の家に向かって車を走らせた。辺りは何もない平野だった。
男の子は父に尋ねた。
「母さんの乗ってる飛行機はどれ?」
「ん? ああ今飛んでるのが母さんの飛行機だよ」
父親は道の脇を見ながら、上の空で答えた。路肩には何台も車が止まっていた。車から下りた人たちはみな、東の空を見ていた。
彼らが何を見ているのか気になったが、息子を載せた状態でよそ見運転をしたくなかったので、今は運転に集中しようとした。
「あ! 父さん! 流れ星だよ! 流れ星!」
「なに!?」
「また光った!」
父親は車を止めた。車を降りようとする息子を彼は止めた。
「車の中にいなさい。外は寒いから」
息子はしぶしぶ言いつけに従った。
父親は東の空を見ながら、流星群の情報がないかスマートフォンで調べようとした。しかし、電波状況が悪く、なかなかインターネットにつながらない。
窓を開けようとして、それでは冷たい外気が車内に流れ込んでしまうことに気づいた。
「ちょっと外に出てくるから、お前はここでおとなしくしてるんだぞ」
「父さんだけずるい」
「あの流星について調べてきてやるから」
父親は車を下りた。しかし、ドアを閉める直前に、最近見た事故のニュースを思い出した。路肩に止めていた車に走行中の車が衝突し、中に乗っていた親子が死んだというニュースだった。彼は車内を見た。息子はシートベルトを外して、窓に顔を当てて空を見ていた。
「ベルトをちゃんと閉めておきなさい」
「んー!」
ぐずる息子を無理やり椅子に座らせ、ベルトを締めると、父親は車外に出た。
男の子は、父親が出て行くとすぐに、ベルトを外そうとした。彼の指がベルトに触れる寸前、ひときは明るい光が空を照らした。
直後、車の中にある全ての物が宙に浮く。
地面を伝わってきた地震波が車を空中に投げ上げていた。
光、地震に続き、三番目の波がやってきた。それは音速を超えて膨張する空気の壁。最も遅くにやってきて、最大の殺傷能力を持つ現象。衝撃波。
男の子の周りで世界が回転した。地面は何度か車にぶつかってきた。三度目の衝突で男の子は意識を失った。
目を覚ました男の子は窓の方を見た。砕けた窓ガラスの向うに上下逆さまになった世界が見えた。焼け焦げ、ヒビの入った道。その更に向うにはいびつなキノコ雲。
男の子は父親を探した。しかし、どちらを見ても、動くものは何も見つからなかった。
男の子はベルトを外し、屋根に四つん這いになった。窓ガラスの残骸を靴でけって取り除き、車から這い出す。外に出て少年は気づいた。
車の側面に何かを引きずったような跡がある。赤黒い液体のこびりついた跡が。
数時間後、軌道エレベータ警備隊のヘリが放心状態で道を歩いている男の子を見つけた。男の子はそのまま保護され、病院に送られた。
カウンセラーは段階を追って、男の子に事実を伝えていった。男の子の父親が死んだこと、母の乗っていた飛行機も墜落したこと。
カウンセラーは爆発の正体を時期が来るまで隠しておこうとした。
だから男の子は自分で調べた。あれは月の残留者たちが使った、力学弾だった。力学弾の原理は男の子には理解できなかった。しかし、それが人の手によるものであることは理解できた。新聞には月の残留者(彼らの言葉によれば月政府)の言葉も載っていた。
「軌道エレベータ管理局は一方的な水の値上げを行った。宇宙居住者にとって、これは疑う余地のない脅迫である。水が無ければ酸素を生成することも出来ない。首を締めながら金銭を要求することを経済原理と言うのなら、我々もまた経済原理にそった支払い方法を選択する」
この理屈はやはり男の子には理解できなかった。しかし、この文章を書いた人物の感情は男の子の心にも感染した。それは復讐と呼ばれる感情だった。
少年は一日でも早く宇宙に行こうと思った。近くに行けば、いつかかれらの頭上に爆弾を落とす機会が巡ってくるかもしれないと考えたからだ。
その少年の名はヘンリー・ルイスといった。
力学弾頭の威力は少し誇張して書いています。実際には大気中を落ちてくる間に速度が落ちるので、着弾の瞬間に放出されるエネルギーは、戦術核弾頭というよりMOAB数発分と言ったほうがいいエネルギーに成るでしょう。また、空中での爆発が出来ないためエネルギーの一部は地面に逃げてしまいます。
エネルギー効率は悪いですが、誘導砲弾で空爆規模の破壊と考えると、コストパフォーマンスは高いです。
2014/05/14 全体的な文章表現の見直しと修正