氷原の咆哮
氷中行は四日目に入っていた。走ってきた距離も500kmを超えているはずだ。無敗のまま世界タイトルを手にし、八年もの間防衛を続けていた現役フェザー級チャンピオンの雄一郎といえど、疲労はピークに達しようとしていた。中央道にはいってしばらく経った時だった。橇の直前を横切る灰色の影に気づくのが遅れ、先頭を走る二頭の悲鳴が聞こえた。何かと接触してしまったようだ。慌てて停止の合図を送る。10m程滑って横向きに橇は止まった。雄一郎は先頭の三歩と五歩に駆け寄った。
「すまん、俺がうっかりしていたばかりに――」
シベリアンハスキーの三歩は左の目の上から血を流しており、アラスカンマラミュートの五歩は難を逃れたようだった。振り返って見る灰色の影は道路の中程に体を横たえている。雄一郎は橇に戻りファーストエイドキットを取り出した。影の正体を調べるより、三歩の手当が急務に思えた。体を翻そうとした雄一郎の視界の端に、山の斜面を滑り落ちてくる大きな塊が入った。何だ? ガードレールの高さで固まった氷の台で一瞬、浮き上がった塊がドスンと音を立てて氷の道路に降り立つ。台地を揺るがすような咆哮が聞こえた。
熊だ! するとさっき橇の前を横切ったのは、熊に追われて逃げていた獲物だったのか。クロスボウを手に取りそろそろと後ずさりした。一頭一頭のハーネスを緩め散開の合図を送る。だが彼等は一頭たりとてこの場を去ろうとしなかった。
「熊だ。お前等の適う相手じゃない。散開しろ」
再び小声で告げるが、犬達は熊に向けた唸り声を止めない。獲物を奪われると考えたのか、熊は後ろ足で立ち上がって不機嫌そうな声で威嚇してくる。体高は1mちょいといったところか。皮脂の分厚い熊に対してクロスボウが有効な武器に成り得るとは思えなかったが、折り畳み式のストックを伸ばすと腰だめに構えた。
「よせっ!」
雄一郎の制止を聞かず、アラスカンマラミュートの二頭が熊に駆け寄る。熊は再び後ろ足で立ち上がった。充分な助走が取れず頭部まで跳躍しきれなかった五歩を熊の前足が払う。悲鳴と共に地面に叩きつけられた五歩は、二~三度ぴくぴくと体を震わし、それきり動かなくなった。熊の怒号が大きく鳴り響く。
逃げ切れるか――雄一郎は外したハーネスを残る六頭に再び繋ごうとするが、怯えと分厚い手袋が邪魔をして上手く行かない。熊はゆっくりと間隔を詰めてくる。
前足の射程を避けた距離で吠え続ける四歩だった。三歩が怪我を負い、これで四歩まで失うことになれば橇の速度は大幅に落ちることとなる。ええい、ままよ――熊が四歩に顔を振った瞬間を狙って雄一郎はクロスボウの矢を放つ。怒号はトーンを変え、悲鳴のようにも聞こえた。当たったのか? 狩猟の経験のない雄一郎には手応えというものが分からなかった。
矢が奇跡的に眼窩でも射抜いたのか、立ち上がった熊が振るう前足は盲滅法のようだった。一歩以下の数頭が駆け寄り、熊の足に背にと牙の波状攻撃をかける。昔、農園でオーナーに観せてもらった映画に、狼の群れが非常に統制のとれた狩猟を行うシーンがあったことを雄一郎は思い出していた。
やがて熊は前足を下ろすと、やってきた方向へと駆け出して行った。「バック!」犬達に後を追わぬよう指示を出し、雄一郎はへなへなと尻から崩れ落ちた。
暫くは動かなくなった五歩を取り囲んでいた七頭だった。前足で小突いても鼻先を舐めても動かないのが分かると、熊が仕留め損なった獲物に興味を惹かれたようで、一頭また一頭と離れてゆく。灰色の影の正体はニホンカモシカだった。熊の前足に切り裂かれたらしい腹部に鼻面を突っ込んで、湯気の上がる内蔵を犬達は貪り始めた。雄一郎は彼等の背中に声をかける。
「全く……大したもんだよ、お前達は」
勇敢に熊に立ち向かい命を落とした五歩の許に歩み寄る。チョーカーの先に光るローマ数字のⅤ(五)を象ったチャームが鈍く光っていた。雄一郎はそれを外すと強く握り締めてからポケットに押し込んだ。
「ありがとう。お前の死は決して無駄にはしない」