再び職員室へ
物音の聞こえた頻度から判断すると、母は十五分おきぐらいにハンドルを確かめに行っていたようだ。一回目の不寝番が僕に回ってきた時、母に言った〝部屋の温度が下がったら〟が杞憂だったことに気づく。地熱発電は順調に機能していた。
屋外へ出て懸案の作業にかかる。ウレタンフォームのスプレーでドアと同じサイズの板状のものを作り、その上に同じ厚さの氷が張るまで均一に水をかけ続けた。意外だと思われるだろうが、実は水というものは他の物質より冷えにくく凍りにくい。つまり氷の蓋が完成すれば、その下になった部分は一層冷えにくくなるという訳だ。万全とは言えずとも、こうして扉の凍結対策は完成した。扉の外側に貼り付いていた小指の先端を取り戻すことを忘れていたが、ウレタンフォームと氷に埋もれて今更取り出すことは出来ない。例え、取り出せたところでくっつくはずもないので潔く諦めよう。
薙ぎ倒されるか吹き飛ばされるかした建造物が凍りついた光景は右を見ても左を見ても大差はない。南門を出て障害物を迂回しながらたどり着いたのは西門であったりして、周辺の散策は遅々として進まなかった。体力の劣る母やスーザンに長時間の氷中行軍は無理だ。僕にしたところで、下手に足を伸ばして目印もなにもない氷の平原でこのシェルターに戻ってこられる保証はない。生存者は誰一人として見つけられずにいた。数日前に抱いた希望の灯火は、今やその輝きを失いつつあった。
「ねえ先生、あたし達いつ家に帰れるの?」
数枚のクラッカーにコンビーフを乗っけた侘しい食事の最中、林田沙織が僕にそう訪ねてきた。鉄骨製の校舎がこんななら君の家が残っている可能性は極めて少ない――正直にそう答えることも出来ず、僕はこんな思いつきを口にした。
「先生達が交代で外を調べに出ているのは知っているだろう? 沙織のお父さんやお母さんを見かけたら無事を知らせるし、ここへも案内する。もう少し我慢してくれ」
「……わかった」
安藤由香里も西田太も同じ思いだったのだろうが、二人がそれを口にしないでいてくれることが、今の僕にとっては何よりの救いだった。
「他に生存者が居るのなら既に救助にきているはずだ。居ないからこのザマなのが分からないのか」
マイケルの心無い言葉に、沙織の中で張り詰めていたものが切れた。えっえっ、としゃくり上げる沙織の肩を抱いて母がマイケルに言った。
「篠田先生、もう少しお言葉に注意なさって下さい」
「こんな状況で、教育者ぶってみたところで仕方ないでしょう。どうせ食料が尽きれば我々も外の連中みたいに死んでゆくんです。氷漬けになるか餓死するかの違いだけですよ」
「最低の男ね」
スーザンが吐き捨てるように言った。
「なんだと? その最低の男に抱かれてひいひい言ってたのは誰なんだ」
ははあ、それであんた達はここに居た訳か。僕は頭の中でポンと手を打った。だが、明らかに子供の前で話すべき内容ではない。マイケルはどこかの箍が外れてしまったように思われる。そしてみんなの視線が僕に集まった。『暴君に抗えるのは唯一の成人男子であるお前だけなのだ』と言われているようだ。それらしい意見を口にするでもなく、目を伏せてしまう僕に彼等の期待は暗黙の非難へと姿を変えた。
実は僕は喧嘩が苦手だ。平たく言えば弱っちいのだ。片やサッカークラブの顧問をしていたマイケルは四十歳ながら筋骨隆々とした体型だった。「やる気か?」と凄まれたら「ハイ、ごめんなさい」というしかないだろう。そう思っていた。そんな僕に彼と対峙しようという気概などある訳がない。母のため息が聞こえてきそうだった。
そして問題は思いもよらぬ形で解決する。元々、人口光合成のための可視光線を作れればいいといった程度の設備に室温維持のためフル回転を続けるだけの耐久性はなかった。翌日、地熱発電のタービンシャフトが折れ、地下菜園の温度は一気に下がっていった。暫くするとあれほど食物に執着していたマイケルが食欲がないと言い出す。心拍数にも軽度の低下が見られる、とは彼を診た保健医のスーザンの診断だ。低体温症中度の症状である。部品の補給が可能なら修理も出来たのだが、この状況だ。僕は諦めるしかなかった。ただ、そうなると蓄電されただけの電気ではいずれ扉下のコイルへの通電も止まり、ここに閉じ込められてしまうことになる。今のうちに持てるだけの食料と防災用品を運んで職員室に再移動することを僕は提案する。体温調整さえ可能なら、コンビーフがシャーベット状になるのを我慢すればよいだけのことだ。マイケルが冷凍マグロになるのは……自業自得のように思えた。しかし想定外のことが起こった。処置を済ませていたはずの安藤由香里までもが低体温症の症状をみせていたのだ。
「先生、ごめんなさい。あたし嘘ついてたの。みんなの足出まといになって迷惑をかけるんじゃないかと思って、処置を受けてなかったことを言えなかったの」
由香里が途切れ途切れの声で囁く。
「足出まといだなんて思うもんか。迷惑にもなってないぞ、しっかりしろ」
声を掛ける僕の傍らで、西村太と林田沙織が心配そうな顔で由香里の蒼白くなった顔を覗き込んでいた。
僕はほんの少し迷ったが、地下に閉じ込められるくらいなら少しでも誰かの目に留まる可能性のある職員室への再移動を決断した。壁も窓も中途半端にしか残っていない旧避難所は分厚い氷に覆われて歪なイグルーの様相を呈している。動きの極端に鈍くなったマイケルに期待は出来ず、僕は苦労して坂本少年を運び出してから子供達を呼び寄せた。
「母さん、由香里を抱いていてやってくれないか。篠田先生は田島さん、あなたにお願いします」
「嫌よ、こんな男」
スーザンは言下に拒絶する。あんなことがあったのだから彼女の気持ちも分からないでもない。こうなる直前――愛し合っている最中には、おそらく「愛しているよ」「あたしもよ」ぐらいの言葉は交わしただろうに、こうまで態度を豹変させられるものなのか……女は怖い、と冷徹な視線をマイケルの背中に向ける彼女の横顔を見て思った。
「だったら、毛布の上からさすってあげるだけでもいいので――お願いします」
スーザンはおためごかし的にマイケルの背をさすり始めた。この調子では冷凍マグロがもう一体出来上がるのも時間の問題だろう。僕は腹を括った。
「県立病院へ行ってくる。所教授を探して往診を頼んでくるよ。それが無理ならトコログリアをもらってくる」
かろうじて薄目を開けていた由香里と、頭まで毛布にくるまった蓑虫状態のマイケルを除く全ての注意が僕に集まる。
「でも、こんな状況で所教授が……」
全て聞かずとも母の言わんとすることは理解出来た。
「わかってる。でも、何もしなければ由香里は死ぬ。こんな時、父さんだったらどうしたろう」
卑怯な言い方だったと思う。しかし、こう言うしか母さんを説得出来ないことも分かっていた。僕を見つめる母の瞳が潤み口元が歪む。単に安定を求めて選んだ教職だった。何で決死隊のような真似をしようとしているのだろう。不条理を呪う内なる声を収めて僕は言った。
「そんな顔するなよ、僕は父さんとは違う。母さんを残して死んだりはしないさ」
「一面、氷の世界よ。どうやって県立病院を見つけるつもり?」
母の言葉は問い掛けというよりも非難に近い。
「あそこは小高い丘の裏手だったろう? その地形まで変わってはいないはず――そう祈るよ。なあに、たかだか十数キロの距離だ。三~四時間もあれば行って戻ってこられるさ。それまで頑張っていてくれ」