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氷の都

「通じないか?」

 GPS電話から聞こえる音声は不通を告げている。

「ええ、空も明るくなってきたし、もしかしたら、とは思ったのですが……」

「そうか……雄一郎が無事に井ノ口市に着いたなら、そろそろ戻ってもいい頃なのだが」

 声を落とす白髪の男――鍛冶千光に、広い額の男――東北のカリスマこと伊都淵貴之が言った。

「心配ありませんよ、彼ならきっとやり遂げてくれます。それにこれが完成すればドーム内の温度が氷点下になることはありません。トコログリアなしでも人々が命を落とすことはなくなります」

 1.5m角の氷の柱を伊都淵は掌で叩く。8m間隔で建ち並ぶそれが彼のいうドームの柱になるのだろう。組成の粗い氷はバイオ流体緩衝材を流し込んで柱にするには格好の材料となっていた。

 傍らに居たお腹の大きな女性が伊都淵の袖を引いた。「トコログリアなしでも」との言葉が雄一郎の帰還を暗に否定しているように聞こえるとでも言いたかったのだろう。伊都淵は失言を悔やむ顔になる。その時、鍛冶が西北西方向に遠く視線を投げて言った。

「なんだ、あれは」

 かつて湖ほどの大きな沼が三つあった方向から雪煙を巻き上げて近づいてくるものがある。鍛冶は首に下げていた双眼鏡を覗いた。合わせて伊都淵も視覚を開放する。

「熊……か? それと犬、一歩じゃないのか、すると……」

 鍛冶の声に希望の響きが滲んだ。

「いいえ、雄一郎君ではないようです。ですがあれは一歩に間違いありません。熊に乗る人物のフェイスガードは雄一郎君が着けていたものです。雄一郎君はあの厳しいミッションをやり遂げてくれたようですね。面白くなってきました」


「何だ? アレは」

 眼前に繰り広げられる光景は、さきほど僕が閃いたアイデアを、まだ骨組みだけながらも具現化しかけていた。建ち並ぶ氷柱は照明にキラキラと反射し神秘的ですらある。それを背にして立っていた三人の手前でマリアから降り立つと、挨拶も忘れ僕はこう訊ねていた。

「これはなんですか? まさか氷のドームじゃないですよね」

「ほう、柱を見ただけで分かるのかい? 大した想像力だな。その通り、氷のドームを作ろうとしている。ようこそ杜北市へ。私は伊都淵貴之、そしてこちらが――」

 僕の耳に他の二人を紹介する言葉は届かなかった。

 そんな……バイオ流体緩衝材を注入した氷柱で地表にドームを作るってプランはついさっき閃いたばかりなのに、ここでは既に工事が始まっているだなんて。近視眼的な見栄を張るのはよそう、これに較べたら僕のプランなど児戯に等しい。バイオ流体緩衝材が隅々まで浸透した氷柱は赤く誇らしげに煌めき、エッジもきれいにさらってある。それらの頂点を結ぶ稜線は、まだ出来上がってない氷のルーフィングが目に浮かぶほどであった。マリアが同情的な視線を投げかけてくることが僕を一層情けなくさせた。そして作業にあたっていた人々――生存者の数にも驚いた。ざっと五十人は居る。さすが東北のカリスマのお膝元、トコログリアの接種も災害への備えも行き届いていたのだろう。呆然とする僕に一歩が追い打ちをかける。

≪オマエのイッタ〝カッキテキなアイデア〟とイウのはコレか? オマエがオモイツクテイドノコトをコノヒトがオモイツカナイハズナイダロウ≫

 そう言うと、とっとと主人の許へ歩み寄り後ろ足で耳の後ろを掻き始めた。なんてヤツだ……

「ところで君は誰なんだ? 雄一郎君とはどこかで逢っているのだろう?」

 落胆と一歩への憤怒で自分を見失いかけていた僕を呼び戻したのは、東北のカリスマの声だった。

「あ……すみません、挨拶が遅れました。雄さんは確かに井ノ口市――所教授のラボに着いています。別の理由で教授を探していた僕が凍死しかけていたところを雄さんに助けられ、かつぎこまれた先が偶然にも所教授の地下ラボだったという訳です。怪我をした雄さんに代わってトコログリアを届けに来ました。彼は腕が治ったら農園に向かうと言ってました」

 息で曇るゴーグルとフェイスマスクを外す。雄一郎の怪我を告げたとき、白髪の男が僅かに顔をしかめたように見えた。

「言い忘れました。僕は井ノ口市で小学校教員をしている小野木丈といいます。雄さんとは古い知り合いです」

 白髪の男の目がかっと見開かれる。

「君はタケ坊だったのか……」

 身を乗り出し、マスクを外した男の顔に、僕の記憶は一気に十数年を駆け戻った。

「あなたは……カジさん……ですか? ここに居られるとは聞いてましたが…… ご無沙汰してます。丈です」

 髪こそ真っ白になっていたが、忘れもしない懐かしい面影がその表情に重なった。

「そうか、無事だったか。良かった――お母さんは一緒ではなかったのか?」

「母も雄さんに助けられて元気にしています。今は四名の生存者と共に所教授のラボでお世話になっています」

 そうかそうか、といった感じでカジさんが僕の肩に手を置いた。その遣り取りをき聞いていた東北のカリスマが少し驚いたような声で言った。

「すると君は小野木さんの息子さんなのかい? これはまた凄い偶然だな。」

 僕がここに居るのは偶然というより消去法のなせる業だったのだが、今その説明は必要ない。それより〝東北のカリスマ〟と称されるくらいだから法衣を着ているか輪袈裟でも掛けているのかと思いきや、コロンビア社のハーフコートを見に纏ったごく普通の中年男であることが意外だった。やはりマスコミの報道なんてものは人々にあらぬ不安を抱かせるか悪しき先入観を与えるだけのものでしかないのだろう。

 傍らの女性は二十代後半からせいぜい三十になったかならないかといった年格好で、派手ではないが整った顔立ちをされていた。カリスマと揃いのコートを着ているのだが大きなお腹のせいでファスナーが苦しそうに見えた。その女性はにっこり笑うと掌を上にして僕の隣に向ける。

「お友達も紹介してくれる?」

「あ……はい、彼女はマリアです。途中で道連れになりました。見た通りのツキノワグマですが決して凶暴って訳ではなく、どちらかというと母性に富んだ――」

 紹介の途中でカジさんが後方に居た男に向かって声を張り上げた。彼等にとって温厚な熊はさほど珍しいものでもないのだろうか? 僕が逆の立場だったら腰を抜かすほど驚いたろうに。

「正、ちょっと来い。面白い客人だぞ」

 図面らしきものを片手に作業員に指示を出していた男が歩み寄ってきた。怪訝そうにしばらく僕を見つめていたが、やがてパッと表情を輝かせる。

「タケ坊か! なんだ、いっちょ前に髭なんか生やしやがって。一瞬誰だか分からなかったじゃねえか。俺だよ、本田正だ」

 ターちゃんだったのか……農園に住んでいた頃、バイクの運転を教わった本田正さん、その人だった。あっけらかんとした様子はあの頃のままに見えた。隣に座るマリアを気にするふうでもなく気安く近づいてきて僕を抱きしめる。しかし、ちゃんと熊が居たことは認識していたようで、彼はこんな冗談を言った。

「随分、毛深い彼女だな」

 違うだろう……僕は顔をしかめることで抗議に代えた。

「冗談だよ、お前が結婚したことは風の噂で聞いている。嫁さんはどうした?」

 思い出したくもないことを思い出させてくれるものだ。とはいえ駒ヶ岳パーキングエリアで助けた石田真由美さんに後ろ髪を惹かれていた僕である。きっと妻子を亡くしたショックからは立ち直りかけていたのだろう。

「死にました……多分」

 はっと息を呑むような顔をすると、心底気の毒そうな目でターちゃんが僕を見た。表情の豊かなところも、昔とちっとも変わっていない。

「そうか……悪いこと訊いちゃったな」

 気まずい空気が流れる中、東北の――長いな……伊都淵さんでいいや。とにかく彼が言った。

「立ち話もなんだ。シェルターにトコログリアを運んでくれないか? 熱いコーヒーでも煎れよう」

 そんなものまであるのか――コーヒー党だった僕は目を輝かせた。飯は食わずとも三度のコーヒーは欠かさなかった僕が、その愛するコーヒーから遠ざかること幾年つ……は大袈裟だが、そう感じる程コーヒーとはご無沙汰の日々を過ごしていたからだ。

「横転したスーパーのトラックから食料をいただいてきています。置いてゆきましょうか?」

 ただでは悪いと思って物々交換を申し出る。しかし伊都淵さんの興味をそそる取引ではなかったようだ。

「食料の備蓄は充分にある、それは君が持ち帰るといい。所んちの食料もふんだんにあるとは言えないんじゃないのか? 心配するな、コーヒー代は取らないよ。依子、一歩とマリアを頼む。おっと、忘れていた。村山君に知らせておいてくれ、トコログリアが届いたとな」

 伊都淵さんは依子さん(そうそう、そんな名前だった)にそう告げるとすたすたと歩きだす。一歩はともかく、熊であるマリアの面倒を妊婦さんに任せて大丈夫なのだろうか? 伊都淵さんの背中と依子さんを交互に眺める僕をターちゃんがニコニコ笑って見ていた。

 僕の心配は杞憂に終わった。おそらく依子さんもなにがしかの能力を持っておられたのだろう。彼女はマリアの前に歩み寄ると、真っ黒なデカイ顔を両手で挟んで、傷を覗き込んでいた。

「痛そうね、誰がこんなデタラメな手当を? 瞼がなきゃ目が乾燥しちゃうじゃない」

≪アイツです≫

 顔を伏せる僕の脳裏に一歩の意識が流れ込んできた。


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