鬼畜
「ふうん、発電装置の管理が出来るのか。どうする?」
売り込みに来た石井と内田にショットガンを突きつけたまま、広田は山田に訊ねる。
「食い物だって無尽蔵にある訳じゃねえんだ。二人増えればそれだけなくなるのも早くなる、俺は反対だ。永田にやらせておけばいい話じゃねえか」
「だけどあいつ、お前が殴り過ぎて虫の息だぞ。あんなんでこの先俺達の奴隷が務ま――」
ギロリと三白眼を向ける山田に、坂本は横からの非難を呑み込んだ。
「待て、俺に考えがある」
背中に白抜き文字でPOLICEと書かれた黒く安っぽい光沢のコートを羽織った長身の男が立ち上がる。元警官の中山だった。
「トコログリアだっけ? あれは体温調整が出来るようになる替わりに、あっちの方がダメになるって噂を訊いたことがないか?」
「聞いた、聞いた。だから俺はやんなかった。日本が氷漬けになろうと、するべきことはしなきゃあな」
下卑た笑いを浮かべて山田が応じる。〝日本が〟その認識は、全ての情報伝達手段が潰えた今、彼等にも災禍の全容は把握出来ていないのだということを証明していた。
「こいつ等を受け入れるかどうかはおいといて、お前の言う通り食い物にも限界がある。食い尽くしちまえば俺達だって外へ出て行かなきゃなんねえだろ?」
「うん、それで?」
「背に腹は変えられねえってヤツだ。本田のとこにはなくても、なんでも屋の川崎なら持ってるかも知れねえ。こいつ等にトコログリアを奪ってこさせよう」
「なるほど、さっすが中山さん。あったまいいや」
持ち上げる坂本の言葉に中山は増長する。
「南極を生き残るにはビジョンってヤツが必要だからな」
それは図らずもこの国の置かれた状況を言い当ててはいたが、中山がそれを知っていた訳でもなければ氷の世界イコール南極と洒落た訳でもない。災禍に見舞われる以前、どこかで小耳に挟んだ話をそのまま口にしたに過ぎない。彼の語彙に〝難局〟のふた文字はなかった。聞かされた側も、それぞれが勝手な解釈で頷いていた。
「伊達に警官はやってねえってんだ。ただ生き残ったはいいが女も抱けない体になっちまったんじゃ何の楽しみもねえ。あいつ等が生き残ってたんだ、他にもこんなシェルターを作ってる奴等がどこかに居るとは思わねえか?」
「ははあ、つまりこういうことですね? ここの食い物がなくなったら他所を襲って奪い取ればいい。そん時、女は殺さずに……」
野卑な笑みを浮かべた広田が中山の意図を声にした。
「察しがいいじゃねえか。その通りだよ」
「でもこの二人、川崎が送り込んだスパイだって可能性もあるんじゃないっすか?」
「それを一気に解決するいい考えが俺にはある」
ニキビ面の暴走族がそのまま大人になったような中山だった。世の中は自分を中心に回っている、そうでなければ力づくで周囲を従わせればいいといった傲岸さを隠そうともしない。酷薄な細い目を一層細くしてこう言った。
「お前等、ここに置いて欲しかったら永田の女房を犯れ」
殺れ? いや〝犯れ〟の方だなと理解した途端、広田と坂本が囃し立てた。
「そりゃいいや。犯れ、犯れ」
人間の脳は理性と本能のどちらをも要求するという。心ならずも非道な振る舞いをしてしまった時、そこには様々な葛藤や逡巡、後悔や罪悪感がつきまとうものだ。いくら世紀末のような状況にあろうと、欲望のみに支配されたような発言を口にする中山と、その彼に賛同する取り巻き達に人間の尊厳など残ってはいなかった。
「え? いいんすか、犯っちゃって」
そしてかつて仲間だった永田の妻に涎を垂らさんばかりの石井も、無言で生唾を呑み込んだ内田も同様だった。彼等も状況に甘え、人間がなくしてはいけないものを放棄してしまっていた。
「このバカ、嫁を犯るぞと脅さねえと何一つ俺達に従いやしねえんだ。散々犯っちまった後だから、その効果も薄まりつつあるがな。お前等が発電施設の面倒を見られるなら永田は放り出しちまえばいい。だったら食い物の消費も一人分増えるだけで済む。どうだ、犯れるか?」
殴られ蹴られ、倍程に腫れ上がった顔で床に転がされていた永田剛を山田が顎で指し示す。
「おばえら、でったでぃにぶごろしてやるからだ」
晴れ上がった瞼に閉ざされた瞳で剛は山田を睨み上げる。口の中も切れて腫れ上がっているのだろう。綿を含んで話すような滑舌の悪さだった。
「そんなザマで、まあだそんなこと言ってやがるのか」
山田の靴先が剛の脇腹にめり込む。グフッと唸って剛は身を捩らせるが、瞳が力を失うことはない。彼を支えていたのは迸るような怒りと農園の仲間達の言葉だった。
『俺達は絶対に仲間を見捨てない』
抵抗することに疲れ切り、木偶人形のようにされるがままでいる妻の瑛子を責める気持ちはこれっぽっちも起きなかった。待ってろよ、仲間が必ず助けに来てくれる――剛は瞑目することで妻にのしかかろうとするケダモノ達を視界から消し去った。
小高い山の頂上にあるシェルターの入り口に辿り着くには、氷の滑り台と化した急斜面を登るか、かつて車道だった緩斜面を上るしかない。雄一郎達が通った中学校に面した裏手は氷の障害物で封鎖されていた。
ピッケルは丈の護身用に持たせてしまっていたが、ハンマーとハーケンさえあれば仕掛けを作るに事は足る。かつてトリックアートが描かれていた門扉は9.02の衝撃波で吹き飛ばされている。アイゼンを履いた雄一郎が先頭に立ち、冬山装備を持たない榊と井上がザイルを掴んで後に続いた。
その時、頂上付近でギリギリと軋み音が聞こえた。身を隠す遮蔽物は何もない緩斜面だったが吹雪と粉塵に覆われた暗い空のお陰で有効視程は15m程、動きがなければ気づかれることもないだろうと、雄一郎は掌を下にし後続の二人に身を潜めるよう合図を送った。
輪郭の曖昧な影が何かを放り出したようにも見える。食べ散らかしたゴミなのだろうか。斜面を転がり落ちてゆく塊の行方を見届けるようともせず、シェルターへの扉は再び閉じられる。塊は車道を転げ落ち、麓の氷壁に当たって止まった。
何だろう? 緩斜面とは言え五分の一勾配である。ようやく中間まで登り詰めたものを引き返すには決心が要ったが、榊と井上をそこに残し、雄一郎は塊の正体を調べることにした。目前を転がり落ちていった時、何故だか捨て置けない気持ちになっていたのだった。
「すぐに戻る」
息の上がっていた二人が頷く。天賦のボディバンランスを生かし、雄一郎は斜面を一気に駆け下った。
カーペットを丸めたよう歪な円柱型だった。粗雑に縛り上げられたロープを手袋をはめた手でもどかしげにほどいてゆく。幾重にもくるまれた中から出てきたのは腫れ上がり人相が変わってしまってはいたが見まごうことなき永田剛の姿だった。
「剛っ! しっかりしろ。俺だ、雄一郎だっ」
軽く平手で頬を叩くと意識を取り戻す気配がある。
「雄……か、こではゆべか……」
「夢じゃねえよ、正真正銘の俺だ。どうしてこんなことになったんだ」
声がかすれ、息を詰まらせながらも意識を奮い起こして剛が事の経緯を告げる。雄一郎の顔がフェイスマスクの下で憤怒に歪んだ。
LEDライトの合図で農園スタッフの一人が坂を下ってくる。井上のほうだった。
「ちくしょう、酷いことを……」
剛の顔を覗き込んでそう呟く。
「誠を呼んで、剛をシェルターまで連れて帰ってくれ」
「でも……二人だけで大丈夫ですか? こんなことをする連中ですよ」
「気づかれないよう注意するさ」
そう言い残し、雄一郎は再び斜面を駆け上がっていった。
跳ね上げ戸の開閉音は分かった。誰かが外に出てくる気配を見過ごすことはないだろう。出入口から大きく距離をとりながら梨棚だった場所の裏手へと榊を伴って向かった。
あれか――悪党どもは祝宴でもあげていたのか、目当ての通気口から湯気が立ち上っている。人工筋肉の右手で打ち込むハーケンは一瞬で氷壁にめり込んで行く。物音を立てぬよう慎重に7~8m下がったところで通気口に届いた。15mか……ザイルにぶら下がったこの姿勢で腕を振ることが出来るものだろうか。思い描いた動作のシュミレーションを数回繰り返すと足場にするハーケンの位置を打ち変え、雄一郎は榊の許へと登って戻った。そして残置したハーケンに掛けられたカラビナにロープを通し、しっかりと結びつけて言った。
「今はここまでだ、みんなの所へ戻ろう。井上君、野球の経験は?」
「中学時代に少しやっていましたけど――」
それがシェルター奪回作戦にどんな関係が? といった顔で榊が答える。
緩斜面を下り終え、雄一郎はもう一度頂上を振り返って見上げる。必ず奪回してみせる、見守っていてくれ。今は亡き農園オーナーの面影にそう誓った。