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マリア

 と、井ノ口市でみんなが盛り上がっていた頃、僕は魔の時を迎えていた。真山幸治君のマは二つきりだがこっちは九つの魔――そう、クマさんのお出ましだった。

 近未来物お約束のギャングにもうんざりだったが、往路復路ともに旅の邪魔をすクマさんの義理堅さにも閉口する。音響の反射から動いていることは分かった。つまり生きてウロウロなさっていたのだろう。そいつが雄さん達を襲ったヤツかどうかまではまだ分からない。

《あいつか?》

《タブン……カザムキがギャクでニオイがワカラナイ》

《じゃあ、傍に行って確かめてこいよ》

《クワレやしないか?》

《熊は雑食だけど犬は食べないと思うぞ》

《タシカか?》

《何だ?ビビってんのか?》

《シッケイなコトをイウな、ワタシがクマごときにオビエるものか》

 そう強がる一歩の尻尾は完全に股の間に挟まっていた。

 さて、どうする? アイスギャングは人間だったが、体力も爪の鋭さも走る速度も奴等を遥かに上回る熊と闘って勝てる勝算はあるのだろうか。熟考のため時間が欲しいところだったが、聴力も嗅覚も優れた野生のプーさんは既にこちらに気づいておられたようで、ノシノシと歩み寄ってくる。数歩おきに氷の台地を揺るがすほどの咆哮を上げながら。

 肉体――正確には四肢のみだが――が、いくら立派になろうとも人間性までもが立派になった訳ではい。つまり気弱で優柔不断な本質はなんら変わっていないということだ。尻尾がないのが幸いしてビビりまくっていることを一歩に知られずにはいたが、僕の足は間違いなく竦んでいた。

《……ナイ、クルシイ、カナシイ》

《何か言ったか?》

《ワタシはナニモ》

 命を落とした五歩の残留思念だったのだろうか。しかしその声――イメージ――が怒号とともに再び僕の頭に届いた。ヤツの思考か? 一歩に分からないところをみるとイメージの周波数域というか受用領域というか――とにかくその辺りが犬と熊とでは異なるのだろう。人類以外の哺乳類は映像で思考するというのに面倒なものだ。

《傷つけるつもりはない。通してくれないか?》

 ダメで元々、僕は熊にそんなイメージを投げかけてみた。

《ミエナイ、クルシイ、カナシイ》

 変化なし、仕方なくリュックに差してある鏨に手を伸ばす。熊と僕等の距離は5mを切っている。

《目が見えないのか? どこが苦しい? どうして、そんなに哀しんでるんだ?》

『諦めの悪いのは美徳だ。願い続ければ、それがいつか叶うことだってある』

 父さんの言葉が脳裏を過ぎり僕は熊への呼びかけ方を変えてみた。なんと、熊が足を止めた。

《オマエカ》

《それが何を意味するのかは分からないけど、呼びかけたのは僕だ》

《ダッタラ、コロス》

 おいおい〝だったら〟の使い方が間違っているぞ。しかも、やっとコミュニケーションがとれ始めたばかりじゃないか。僕は立て篭る犯罪者に接するネゴシエイターの心得を頭の中で繙いてみる。

 一:一度に沢山の質問はするべからず。

《助けてやることはできないか?》

 暫くの沈黙の後、熊の思考が届いた。

《ヒダリメミエナイ、エモノツカマラナイ、アチコチニブツカル》

 雄さんは熊にクロスボウを放ったといっていた。目を射抜いたかも知れないとも。だとすればそれも当然だろう。

《チカヅイテモイイカ?》

 おっと、僕までが漢字を忘れることはない。父親は野蛮人を体現したような風貌だったが、英語を話したという。その息子の僕は英語こそ話せないが犬や熊とコミュニケーションをとることが出来るようになった。遺伝子というのは恐ろしいものだ。

 二:相手にとっても有益な取引であることを匂わす。

《僕達を傷つけないと約束するなら傷を診てやろう》

 ドクター・ドリトルか足柄山の金太郎になった気分だった。ここはアメリカでもなければ箱根でもないというのに。

《イタクシタラ、コロス》

 診てやろうというのに何て言い草だ、そもそも治療ともなれば多少は痛くて当たり前……地下ラボで散々文句をいっていた自分を思い出して僕は顔を赤らめる。フェイスガードをしていなければりんご娘のような頬が熊の目に映ったことだろう。

 梓先生に渡されたメディカルキットをリュックから取り出し開いてみる。生憎、麻酔の類は入っていなかった。

《ドウシテ、ヤツはウゴカない? ナニがオコッテいる?》

 一歩の思考が届いてネゴシエーターの心得が混乱した。

 三:……何だっけ? ええいクソ、〝虎穴に入らずんば虎児を得ず〟にしておけ。

《まあ、任せておけ》

 勝算がないのに強がるのも僕の悪い癖だ。「あんたのお父さんは死ぬ間際にも大丈夫だ、といっていた」そんな母の言葉が思い出された。

 不安げに僕を見上げる一歩の背中をパンパンと叩いて足を踏み出した。足元の氷はとても分厚いのだが、僕が感じていたのは〝薄氷を踏む危うさ〟であった。

 近寄って見る熊のサイズには驚かされた。質量は一歩の7~8倍はある。立ち上がれば身長173cmの僕の肩以上はあるだろう。

《はいはい、今日はどうされましたか?》

《メガミエナイトイッタ》

 緊張を和らげてあげようとする僕の優しい配慮が分からないのか。しかし無愛想なのは痛みとイメージ伝達のせいなのだろうと考えることにして僕は熊の右目(熊が申告したのは左目だったが、この齟齬は彼がサウスポーだったからだと後に知る)を診てやった。垂れ下がった上瞼の肉が眼球を覆う形で癒着されている。これでは見えなくて当たり前だ。雄さんの放った矢は幸か不幸か彼の眼球を傷つけてはいなかった。氷壁にでもぶつけたと思しき新しい裂傷が右の肩付近にあり血が流れ出している。

《こっちはどうだ?》

《イタイ》

《多分、目は見えるようにしてやれる。肩の傷も縫ってやろう。但し少し痛いぞ》

《イタクシタラコロス》

 なんてわからず屋な熊公だ。〝自慢ではないが〟といいながら自慢たらたらの輩をよく見かけるが、これは本当に自慢ではない。堪え性のなさでは人語に落ちない僕は簡単にヘソを曲げてしまう。

《じゃあ知らん。いくらお前が時速60kmで走れようと、こっちは時速100kmで逃げることが出来るんだ。しかもお前は片目で遠近感が掴めない。僕達が走り去るのを指を咥えて見てるしかないんだぞ、それでもいいのか?》

 熊は塞がっていない方の目でじっと自分の指を見つめていた。文学的言い回しは、こいつらには通用しないのだなと僕は悟った。

《イタカッタヒダリテヲアゲル》

 僕は歯医者か……それにお前のそれは手じゃなくて前足だ。だがそれは熊のイメージに慣れていない僕の誤訳だったのかも知れない。何せ熊と話すなど生まれて初めての経験なのだから。

《待ってろ》

 僕は橇からダンボール箱をふたつかついで戻った。一歩もおずおずとついてくる、恐怖より好奇心が勝ってしまったような目をしていた。

《座ってくれ、手元が狂うから動くなよ》

《ワカッタ。イイニオイガスル、クイタイ》

 かつて中国では食用犬として珍重されたチャウチャウを先祖に持つサモエド犬だ。この熊かなりのグルメだな、と思ったが違った。どうやら熊の食欲をそそったには椅子代わりにしたダンボール箱の中身だったようだ。変形して内容物の匂いが滲み出していたのだろう。余り好きでないサバの缶詰だったのでくれてやることに吝かではなかったが、目の処置が終わるまで待て、とオアズケをさせる。

《クロイのはワタシをタベルといったのか?》

 驚いた、一歩にも熊語が分かるようになったのかと思い訪ねてみる。だがその推量は間違っていた。彼は僕の意識を読んだだけのようだった。もしこの世界が元に戻るなら、僕は小学校の教諭を辞め動物の同時通訳として巨万の富を築けたに違いない。他にその能力を持つ誰かがいない限り、検証は不可能ではあったが。

《ちょっと沁みるぞ》

 薬用アルコールで癒着した上瞼の肉をよく湿して剥がす。貼り付ける場所を探すが毛むくじゃらでサージカルテープは効きそうにない。仕方なくハサミで肉片を切り取った。

《ミエル》

《痛かったか?》

《ソレホドデモナイ、クッテモイイカ?》

 僕の意識を読んだ一歩はぎょっとする。しかし熊の手が指し示す先はやはりサバ缶のダンボール箱だった。ふたつみっつプルタブを開けてやると奪い取るようにして貪り始める。その時、熊のツメが僕の人工皮膚を引っ掻いたが裂けてはいない。氷の世界を走り続けた熊の爪はヤスリをかけられたように真ん丸になっていた。

《肩の傷を縫うぞ》

 食欲に魅入られてしまった熊は返事をしない。消毒スプレーを吹きかけた瞬間だけピクリと肩を震わせたが、以降は片手で器用に缶を握りつぶしてはサバの切り身をせっせと口に運んでいる。瞬く間に空き缶の山が積み重なっていった。右目が塞がれていては遠近感がつかめず、貴重な獲物を見つけたとしても狩りも出来なかったことだろう。氷の世界では彼等の主食たる植物の実も手に入らなかったはずだ。旺盛な食欲がそれを如実に物語っていた。

《ダイジョウブか? ゼンブくわれてシマワナイか?》

 一歩の思考が届いた。

《僕達が食われるよりはマシだろう》

《ソレもソウだ、アレならクレテやってもイイ》

 どうやら一歩もサバ缶はあまり好きではなかったようだ。小骨を喉につっかえさせてケフケフ喉を鳴らしていた昨夜の姿からそう判断した。

 梓先生の手技を思い出しながら見よう見まねで縫合をするが、剛毛が邪魔をしてなかなか上手く行かない。クーパーとかいうハサミで周囲の毛を取り除く。少し広めに切ってしまったがキツく縫い合わせれば隠れてしまうだろうといった僕の思惑通りには行かなかった。熊の右肩にはウインナ大のハゲが残ってしまった。僕は明るい声を上げて誤魔化す。

《終わったぞ。次だ、苦しいってのはなんだ?》

《ソンナコトハイッテナイ、ハラガヘッタトイッタ》

 僕は記憶を辿ってみる。誤訳か――゛ヒモジイ〟が正解だったようだ。

《じゃあ、それも片付いたな。悲しいは?》

 そんなことがあるはずはないと言われようが僕は見た。熊の悲しげな表情というものを。彼――いや、熊は彼女だった。9.02の衝撃波で二頭の子熊を失ったという母親の哀しみが僕の胸に深く染み入ってきた。

《気の毒だがそれはなんともしてやれない。この食べ物は置いてゆくから新しい連れ合いを見つけて子作りに励むんだな》

 橇に戻ろうとする僕の袖を一歩が咥えて引き止めた。

《コイツはゴホをコロした》

《ゴホ? ああ、五歩か》

 偉大なるオランダの画家は自殺だったはずだが、との軽口は仕舞い込み、僕は一歩の説得にあたる。世界広しと言えど、熊をなだめ犬を説得するような人間などそうそう居るものではない。

《誤解があったんだよ双方に。彼女は獲物を取られまいとしてただけだ。結局、お前達はそれを奪ったんだろう?》

《ソレはソウだが……》

《人類の財産が知的多様性なら、この星の財産は生命の多様性だ。東北のカリスマがなんと言おうが僕はこの世界が元に戻ることを信じている。あの災禍を生き残った僕達がいがみ合い殺し合う理由なんかないじゃないか》

《イチリある》

 ロシア原産であるサモエド犬の一歩が〝一里〟と言うのはピンとこない。現在は確かメートル法、その昔はベルスターとかいう単位だったはずだ。が、犬に蘊蓄を傾けるのも無意味だなと思い、簡単な返事でに代える。

《じゃあ、もういいよな》

 一歩が白い頭を縦に振った。僕達は橇を置いた場所まで戻って旅支度を始めた。


《アタシモイク》

 熊が送ってくるイメージに僕は辟易する。勘弁してくれよ、これ以上の面倒はごめんだ。

《食べ物は置いてゆくといったろう? 僕達は先を急ぐし、これに君を乗せることは出来ないんだ》

《アタシモハヤクハシレル、メヲナオシテクレタ》

《気にすることはないさ、誤解で君を傷つけたのは僕の知り合いだったんだし》

《ソノシロイノ、ムスコニニテイナクモナイ、イッショニイタイ》

 一歩に視線を振った彼女の瞳には母性が宿っていた。しかし情に絆されてる場合ではない。僕達を、トコログリアの到着を今や遅しと待っている人々が居るのだ。

《じゃあ好きにしろよ。でも君に速度を合わせてはやれないぞ》

 僕は彼女がついてくるのを諦めてくれるまで、燃費を気にせずスノーモビルの速度を上げようと考えていた。なあに、まだ20~30kmは走れるはずだ。僕等を見失ってまでついてはこないだろう、と。

 だが僕の計算に一歩の体重とアルミパネルで作った橇に堆く積み上げられた食料は入ってなかった。発進して最初の大きなカーブを抜けた途端、スノーモビルのエンジンは空咳のような音と共に速度を落としていった。

 信じられないだろうが熊も失笑する。ほどなく僕達に追いついたマリア(母性に富んだ彼女を僕はそう名づけた)が正しくそんな感じで僕に話し掛けてきたのだからしょうがない。

《ドウシタノ?》

 効いてないじゃんP300A――

 頼むからこの先、鳥が加わる状況にはならないで欲しい。裸馬ならぬ裸熊に跨った僕と併走する一歩、歪な橇を引っぱるマリアの混成チームはブレーメンの音楽隊の構成に近づいてきていた。


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