農園へ
「見て」
梓は生体情報モニタを見入っていた創太郎の肩を叩いて振り向かせた。培養槽の中、P300Aを添加したIPS細胞はみるみるうちに骨格を包み込むとトリプルレイヤーの人工筋肉を覆って前腕の形を成してゆく。
「ES(胚性幹細胞)には、何も働きかけてくれなかったけどIPSとの相性はいいみたい。なにせ精子にもなるくらいだものね。標的器官さえきちんと指示してやればIGF-1まで勝手に分泌してくれるのよ。迷惑な坊やだったけど、貴重この上ないデータを残していってくれたわ」
「神経組織もあんな感じで繋がるのだろうか」
暫く考えた後、梓は創太郎の疑問に答えた。
「あれは脳の作用じゃないかしら? これだけの組織群が吻合されるべき相手を間違えずに探し当てるなんて器官の側で出来ることではないと思うの」
「確かにそうかも知れんな」
「試して……は、まずいわね、繋げるわよ」
ベッドで眠る雄一郎の上腕部切断面に突き合わせる。梓の予見通り完成した前腕部が勝手に繋がってゆくことはなかった。梓は自信に満ちた表情で創太郎に顔を振った。
「つまり私の腕の見せ所って訳ね。始めるわ、サポートをお願い」
ブルーの術衣から覗き見ることが出来るのは二人の瞳のみ。二対のそれは炯々たる光を放つ。9.02で大半が失われてしまっただろう人類の文化遺産たる建造物や美術品、それらに挑んだ芸術家を彷彿とさすほど息の合った二人の手技は巧みであった。
「目が覚めた? 手術は成功よ、新しい腕が出来たわ」
節制が日常となっていた雄一郎の上半身には一片の無駄なく筋肉が張り巡らされている。僅かな体の動きにもその伸縮が現れ、どの束がどう使われているかの判断も容易だ。ドングリ眼のダビデ像は、自由の効くほうの腕で上体を起こした。
「麻酔薬を浪費させてしまったんですね。申し訳ありません」
「鎮静のためだけならあなたの希望にも応えてあげたかったんだけどね。深い眠りで肉体の疲労を解消させるのが目的でもあったの。医師としての判断による措置よ、恐縮する必要はないわ」
「……はい、今度こそ無茶はしません」
「どうだか――その抑制も含めて少し試験的な処置もしてあるの。あなたのためだから怒らないでね」
「僕が先生方の判断に怒るはずはありませんが……伺ってもいいですか? それはどのような処置なんでしょう」
「肩と肘の関節にバッファ(緩衝材)としてバイオ流体を入れてみたの。880kg以上の負荷で自動的に力を受け流すようになっているわ」
「それも880kgなんですか……筋肉ドーピングをしたみたいなものですね。もうリングには立てないな」
未練を感じるリングなど既になくなってはいたが一抹の寂しさを感じずにはいられない雄一郎だった。
「もしそんな日が来るとしたら同じ腕を持った対戦相手を私が作ってあげるわよ。あなたに初黒星をつけるような強敵をね」
「126ポンド――57.1kgまでの相手にしてください。僕は太れない体質なもので」
雄一郎が口にする冗談に「任せておきなさい」と梓は答える。だからその日まで頑張って生き抜きましょう。心の中でそう付け加えた。
地下ラボのドアが開き、創太郎が顔を見せた。
「橇の準備が出来た――とはいえ、見よう見真似なので繋ぎ方が合っているのかどうか自信はない。確認をしてもらわないといけないな。小野木さんと二人、随分頭を悩ませたよ」
「いいんですか、行っても」
「腕を見てみたまえ、前回より遥かに頑丈なものが出来上がっているはずだ」
梓がアームスリングで固定した腕を解いてくれた。指先を見つめ曲げ伸ばしをしてみる。肩の高さに上げ肘を曲げ捻る。完璧だ――可動域も申し分ない。
「気がついたのね」
学校跡から救い出した美代子以下の四人が遅れてラボに入ってきた。総出で出発の準備をしてくれていたようだ。女性にしては長身の部類に入る梓の衣類を借りたのだろう。小柄な美代子のズボンの裾は幾重にも折り返されている。
「うん、農園を見てくる。誠は随分早くからシェルターの制作にかかっていたはずだ。心配ないよ、剛も一緒なんだし。あいつ等の無事を確かめたら、みんなを迎えにくる」
「みんな? あたし達も連れていってもらえるの?」
子供二人の肩に手を置いたスーザンがいった。
「勿論さ」
「それは助かる。人が多いのは賑やかでいいが研究には身が入らない。そこの坊やの『おじさん、これはなあに?』には少し参っていたからな」
「そう? 案外楽しそうだったじゃない創太郎」
梓が囃すと太もそれに乗っかる。
「そうだよ、オジサ……いけね、所先生の説明が長いから研究の時間がなくなっちゃうんだよ。俺のせいにすんなよな」
人々の笑いが起こる。世紀末――正にそんな状況のなか、人は笑うことで明日への希望を繋ぎ、闇が開けることに期待を賭ける。絶対に帰ってくるぞ――雄一郎は強く胸に誓った。
「もうひと仕事、頼む。六頭きりになってしまったけど今度は近くだからな」
ハーネスの繋ぎ方は間違ってなかったが、タンデムだった隊列をパラレルに変える。特に嗅覚の優れた一歩が丈についていってしまったので速度より危機回避を優先する必要があった。
「行ってきます」
それでも雄一郎を乗せた橇が見送る人々の視界から消えてゆくのに数分とはかからなかい。あっという間に氷原の景色と同化していった。