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職員室

「毎日毎日じゃあ、奥様も大変ね。愛がなければ出来ないわ。仲がよろしくて結構ですこと」

 職員室で机を並べる同期の秋山さくらが、僕の弁当を覗き込んで言った。

「生徒達も給食時間まで担任の顔を見ていたくないんじゃないかな、それだけの理由だよ。君だって弁当じゃないか」

「母は一日おきにしか作ってくれないのよ。だから、一日おきにコンビニ通い。小野木先生は毎日、奥様の手作り弁当じゃない。あーあ、私もお嫁さんが欲しいなあ」

 僕は妻の顔を思い浮かべた。日向子は大学の一年後輩で、三年と四年の春にミス・キャンバスに輝いた容姿淡麗な女性だ。僕の卒業直前に余期せぬ形で交際中だった彼女の妊娠が発覚し、なし崩しに結婚に至った。若干二十三歳で今年二歳になる息子を持つ羽目となってしまったのはそれが理由だ。地方の大学とはいえミス・キャンバスを射止めた僕に、友人達はやっかみ混じりの祝福を寄せてくれたものだったが、結婚生活は決して夢に描いたようなものではなかった。

 体裁上、弁当だけはこしらえてくれるものの、そうでない朝食と夕飯は子育てが忙しくて無理! とコンビニの調理パンやスーパー出来合いの惣菜で済まされることが殆どだった。かといって夜の生活も疎遠になるのかと思いきや、そちらは毎晩のように求めてくる。栄養の偏った食事ではこちらの体調が整わないことだってある。そういって断る時、僕を見る日向子の目には蔑みの色さえあった。

 純粋に愛情の交換であるなら僕も頑張って応えたはずだ。ところが日向子のそれは単なる性欲の解消としか思えず、前戯もそこそこに僕の〝カレ〟が力を蓄えるが早いがさっさと跨ってきたものだ。絶頂時に「先生っ!」と叫ばれたこともあった。確かに小学校教諭の僕ではあったが何もベッドでまで……日向子は教壇の上での密事を想像して燃える性質なのだろうか? そんな僕の勘違いは一人息子の成長が言外に否定してきた。ゲスの勘ぐりと言われればそれまでだろうが、我が家の長男は日向子のゼミの教授だった男の面影を漂わせ始めていたのだ。

 それでもいつかは結婚するのだ。父親の居ない子供が一人減るなら、それはそれでいいではないかと思っていた。実は僕の父親は僕が八歳の時、東北で命を落としている。それまでも、どこかで災害が起きると頼まれもしないのに仕事をほったらかしてボランティアに飛んでゆく落ち着きのない人間だったそうだ。彼らしい最期だったと霊前に参る人々は言ったが、幼かった僕にその〝らしさ〟は分からなかった。母とは再婚だったはずの父が僕に語りかける言葉は、愛息へというよりは友人へのそれに近く、ちっとも理解出来なかったことを覚えている。

 父親の死後、中学校教員をしていた母と暮らす農園には何故だか多くの人々が出入りしていた。後で訊いた話だが、その中には母の教え子だったボクシングの世界チャンピオンや有名なロック歌手も居て、彼等は僕の分かりやすい言葉で語り掛け、遊び相手になってくれていた。僕が父親の居ない寂しさを感じずに済んだのは彼等のお陰だったのかも知れない。

 僕が高校進学を迎える頃、第一線を退いていた母は、県教育委員会のお偉方に強く請われ教職に復帰した。母に連れられて僕も居を移し、大学入学と共に始めた寮生活までの数年間をこの井ノ口市で暮らしたのだった。

「――先生ってば」

「え?」

「ほら、こんなところにご飯粒」

 秋山さくらが僕の顎鬚についた米粒をつまんで自分の口に入れる。回想に耽っていて、アバンチュールの予感を見落としていたらしい。僕は現実へと意識を引き戻した。

「ありがとう、職員会議が早く終わったら食事にでも行かないか」

「なあに、いっちゃってるの。妻子持ちが」

 即座にOKをしないのは「どうしてもって言われたから、つい……」といった自分自身への言い訳が必要なのだろう。僕はその脆い障壁を取り崩しにかかる。

「言ってなかったかい? 僕の本名はナジーム・ハッサン。ほら、昨年国会で重国籍が認められただろう? 僕のもうひとつの国籍はUAEだから第四夫人まで持つことが出来るんだ」

 母親譲りの大きな目、父親からは濃いヒゲを引き継いだ僕は、よくこんなことをのたもうたものだ。大学時代には、警官の職質に遭うこともしばしばだった。英語は得意ではないが、彼等のそれが不適切であることは分かった。何故なら彼等は「Excuse me」も「Would you mind」も抜きで「Who are you」と高飛車に訊ねてきたからだ。

「何、それ? おっかしい」吹き出した秋山さくらの目にOKのサインが灯る。しかし次の瞬間、彼女の視線は僕の背後へと伸び、そこにあったはずの肯定は警戒へとすり変わった。

「だーれがナジーム・ハッサンよ。あんたは正真正銘の日本人でしょうが。ヒゲも剃りなさいって言ったでしょう」

 聞き覚えのある声と、後ろからつままれた耳たぶの痛みが僕の小さな冒険に終焉の幕を引き下ろした。

「痛いってば、母さ……主任」

 小柄な母――小野木美代子学年主任が、やっと離してくれた手を腰に添えて立っていた。

「まったく誰に似たんだか、この女癖の悪さは。まあ、言わずもがなだけどね」

「さてと……音楽室の準備をしなくちゃ」

 秋山さくらはそう言ってその場を逃げ出した。誰かに似たとなれば、間違いなく父親なのだろう。冒険遺伝子と呼ばれるドーパミンD4受容体は、明らかに男性の振る舞いの中に保有の兆候をみせていたのだから。

「何か用か……ご用ですか?」

「ご用ですか、じゃないわよ。あんた所先生のところへは行ったの? 二か月前から行きなさいっていってるのよ」

 〝トコロ先生のトコロ〟出来の悪い駄洒落か早口言葉のようだったが、母がウケ狙いでなかったことは、その真顔から充分に伝わってくる。

「ああ、一昨日済ませておいたよ。でも、日向子はあんな怪しげなものを信用するの? って言って行こうとしないんだ。だから真一も行ってない。あの痛みだぜ? 幼児には無理だよ」

 腰にあてた両手を下ろし、母はため息をつく。

「仕方ないわね。私もあの人が言ったのでなければ信用しなかったもの。まあ、あんただけでも済ませているならいいわ」

 数か月前のことだ。東北のカリスマと呼ばれる男がこう言った。

「地表に立ち上る電位に大きな乱れがある。磁場に大きな変化があるようだ。何が起きるのかまでは分からないが、災害への備えを始めよう」

 彼を信奉する人々は食料や防災グッズを買い込み、大枚をはたいて地下シェルターまで作った人々も居るという。求心力も財力も失って形骸化していた政府は『風評に惑わされないように』と警告声明を出し、マスメディアも一度は賞賛した彼をカルト集団の話題づくりだ、と非難したものだった。

 しかし、それに呼応する識者も居た。ここ井ノ口市にある県立病院の所創太郎教授がその人だ。脳神経外科医として名の知れた彼は「どんな災害に見舞われるにせよ体温さえ確保出来ていれば、人がバタバタと死んでゆくことはない」と鬱病やアルツハイマー症候群の治療に飛躍的な効果を発揮していた〝トコログリア〟の接種を人々に勧めた。それを視床下部に直接噴霧(これが結構、痛い)することにより、体性感覚誘発電位のコントロールを可能にし、無意識下で行われていた体温調整を意思の力で可能にするという――パンフレットに書かれていた通りの受け売りなので誤謬が混じっていても僕のせいではない。

 既に社会保険制度は破綻しており、初診料含む三万二千五百円也は〝騙されたと思って〟試すには安くない金額だ。だが奇特にも所教授は「金がなければ、払えるようになってからでいい。どこかで社会福祉に携わった証明があれば無料で処置をする」と、江戸時代の町医者のような心意気を呈される。「トコログリアを一定量噴霧し終えた時、個人差はあるが激痛や精神の変調を訴える場合もある。それに耐え得る体力と精神力がないと看做せば、こちらで処置を見合わせる場合もある」とも彼は言った。

 恒温動物の体温調節機能域を拡げるといった試みは、年々上がってゆく〝平年並みの暑さ〟対策にも効果を発揮したようだ。照りつける夏の太陽の下、処置を受けたイケメン(この基準も年々緩くなっているように思うのだが)人気プロゴルファーが汗ひとつかかずにラウンドする様子がテレビに映し出されると、多くの人々が所教授の許、及び全国の指定病院へ殺到したという。東北のカリスマが唱える未曾有の大災害は信じなくとも、有名人と同じなら、所謂〝流行りなら●●●(差別用語が混じるため完全表記を差し控える)でもいい〟というヤツだったのだろう。少なくともエアコンの使用頻度は減り、未だ次世代エネルギーの方向性を模索していた国家にも恩恵を与えたのだから皮肉なものだ。そして何を隠そうこの僕も処置は受けたものの、大災害の予言など信じてはいない一人だったのだ。

 これを読んでいる方が居られるなら心して訊いて欲しい。人間の明日は、いや、数分後の未来さえもが必ず存在すると保証されたものではない。常にその時々を悔いなく生き、不慮への備えは怠るべきではない。西洋にこんな格言がある。

 Hope for the best , plan for the worst(最善を願い、最悪に備えよ)

 しかし人類がそれを標榜、実践していたところで、屁の突っ張りにもならなかったろう。僕が弁当をたいらげた数分後、この星を襲った厄災はそれほど大規模で圧倒的だったのだ。

 しかも、それは単なる始まりに過ぎなかった。


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