出発
「どれだけの生存者が見つかり、どれだけの人々が未接種なのかはわからないが、ここに百瓶ある。
成分構成はこのメモリーカードに入れておいた」
50mlのポリ容器が詰められた樹脂ケースを所教授から手渡される。
「私の言いつけを思い出して無茶はしないこと、いいわね」
梓先生は、相変わらず僕を子供扱いしていた。
「先生、元気で帰ってきてね」
子供達にも心配気な顔をされた。
スーザンからの言葉はなかった微笑みかけてくれた。彼女に覆いかぶさった時動いた唇は「やめてよ変態」ではなかったのだな、と安心した。
母はかけるべき言葉が見つからなかったのか、ぎゅっとハグをしてくれた。そして雄さんだ。
「みんなによろしく。お前の知った顔はカジさんと正ぐらいしか居ないが、信頼のおける人ばかりだ。これをお守りに持っていくといい」
キャラクター人形のようなフィギュアを渡される。掌に乗せたそれを所教授が眺めて言った。
「こりゃあいい。伊都淵は君が鈴木君に代わって行くことを予測していたのかも知れないな」
教授が少年のような笑顔で言った。
「どういうことです?」
「私達の中学校時代、漫画の主人公だったこれが流行ったものだ。彼の名前は島村丈。きみのタケルと同じ字だ。その赤いコートも彼が着ていたものと似てなくもない」
「……そうなんですか」
願わくば、その漫画の主人公が氷漬けにならず、課せられたミッションを成功する筋書きであって欲しいものだ。僕はローラーブレードのバックルを締め終えると大きなリュックを背負う。そして見送る彼等に出発を告げた。
「行ってきまーす」
これではまるで出勤するサラリーマンだ。「じゃあ」とか「期待は裏切らない」とかにすれば良かったな、と滑り始めて数分後に後悔した。
《ついてくるなってば、帰れなくなるぞ》
《カエルツモリはナイ、ワタシのハナがヒツヨウにナル》
赤鼻のトナカイの台詞のような思考が併走する一歩から返ってくる。一体、誰がハーネスの係留を外したんだ。
《食料だって僕一人分しか持ってきてないんだ》
《ソリをヒイテなければ、シバラクタベナクてもヘイキだ》
やれやれ、どうして僕の周囲にはこういった正義感丸出しの連中ばかりが集まってくるのだろう。例えミッションが成功しても僕が目立たなくなるではないか。イメージの遣り取りしか出来ない以上、郷愁や感情の機微へと訴えかける説得は不可能に思えた。僕は少しペースを落とした。
《寄り道をするからな》
《……?》
マンション(勿論、賃貸である)があったのは、この辺りだろうか。走り抜けてきた数kmの道程と何ら変わらぬ氷原に立って思いを巡らす。日向子と真一の名残も痕跡も見当たらない。方々で横たわる氷塊をつぶさに調べたところで、生きている家族に逢えるはずもなかったろう。ふたりはトコログリアの接種を受けていなかったのだから。
《ドコなんだ、ココは》
《方向と距離が間違ってなければ僕の住んでいた場所だ。二人の家族と一緒に暮らしていた建物がここにあったはずなんだ》
《カゾクか――ウマレてスグにハハオヤからハナされるワレワレにはワカラナイ》
そうか、命を金で遣り取りされる彼等は父親の顔さえ知らないものが大部分なのだろう。僕は少し気の毒になった。
《カスカにオマエのニオイがノコッテいる。マチガッテはイナイだろう》
《うん》
人は失って初めて大切なものに気づくという。その通りだが少し補足したい。人がそれを知るのは〝全て手遅れになってから〟だ。僕はとめどなく流れる涙が凍ってしまわないよう体温を少し上げた。
《行こうか、疲れたら言えよな》
《オマエもな》
カチンとくる犬だ、同情なんかしてやるんじゃなかった。僕と一頭は東海北陸道のインターチェンジへと向かった。
《時速30kmで二時間走っては休憩を入れる。道路が雪に埋もれたらローラーブレードは使えない。スキーは速度が落ちる。走れるうちは距離を稼ぐぞ、ついてこられるか?》
《ダレにモノをイッテいる》
とことん可愛げのない犬だ。その思考を隠さなかった僕に一歩の返事があった。彼は正面を見据えたまま走り続けている。
《ダカラステられた》
そうなのか? 無口というか、そもそもイメージを文字に変換しているせいもあるが、ぶっきらぼうというかとっつきにくい印象を与える一歩だった。気心を知ればそうでもないのかも知れない。人間にも野蛮人の外見を持つ心優しい人は居るものだ。ともかく彼の語る身の上話を要約するとこうだった。
北海道のとある町で観光用の犬橇を引くために飼われた彼等だった。地域振興のため始められた犬橇体験は意外にも好評を博したようで、道内はおろか本州からの観光客までもがわざわざ橇に乗りにやってきたという。気をよくした町長は、よせばいいのに設備投資(橇と犬の更なる購入)を図った。しかし、客が集まるとわかれば利に敏いハイエナのような大手企業の参入は自明の理である。結果、過当競争が起き、犬橇体験プラススキーリゾートといった付加価値のあるもの(要するに参入してきたホテル業の企画だ)へと客の興味は移って行く。ただでさえ雪のある季節にしか成立しない産業であり、商売の下手な自治体の企画だった。その時期に需要が落ち込めば犬達の飼育にかかる費用も橇のメンテナンスフィーも赤字として累積されてゆく。粛清の対象として槍玉に上がったのはサモエド犬の一見愚鈍に見える体型だったという。観光橇がロングランをする訳ではない。苦境に陥った自治体の担当者は、彼等の粘り強さよりスプリントの能力に長けたハスキー種単独のチームを選択することにした。客受けのよいスマートな外観と入手の容易さも手伝ったのだろう。保健所送りにならなかったのは幸いだったが、確実に戻って来られないよう、一歩達は海を渡って東北の山間部へ捨てられた。ほぼ野犬化していた彼等を集めて説得にあたったのが東北のカリスマ――その人だったそうだ。僕は身につまされるような思いがした。
《ドウジョウはイラナイ。またソリをヒケテてウレシイ》
《引いてないじゃないか》
《……》
僕の突っ込みに後ろを振り返った一歩だったが何の思考も返ってはこなかった。やはり犬は犬である。しかし犬をやり込めて喜んでいる僕も大した人間ではないのではないか、と自己嫌悪に陥った。
《オマエはヤサシクない》
ポツリと彼の非難が送られてきた。その通りだな。僕は素直に〝犬〟に詫びた。
《悪かったよ、二人きりの行程だ。仲良くやろうぜ》
《イゾンはない》
ちらりと僕を見た一歩の目に怒りはなかった。どうやら仲直りは成功したようだ。