代理
「行かねばならないんです」
雄さんの声が僕をうたた寝から呼び覚ます。
「いいこと? もうIPS細胞はないのよ。胚が育つのを待たないとあなたの腕は作れない。そんな体で、どうやって800kmの行程を走り抜くつもり?」
「しかし、僕の帰りを……トコログリアの到着を待っている人々が居るんです」
「今度ばかりは私も賛成は出来んな。隻腕の君がトコログリアを持ち帰ることの出来る可能性は極めて低い。それが分かっていて渡す訳には行かない」
どうやら雄さんは杜都市に帰ると言い出したらしい。母も諌める声になっていた。
「あなたにもしものことがあったらカジさんに申し訳が立たない。私がなんとか農園まで戻って、誰かいないか見てくるわ」
カジさん――父親のパートナーだった人の記憶が蘇った。手先の器用だった彼が幼い僕に竹とんぼや水鉄砲を手作りしてくれた事を覚えている。寡黙な人だったが、僕に向けるその目はいつも優しかった。父の死後は農園の仕事をリーダー格だった誠さんに任せ、ひと月かふた月に一度顔を見せるだけになっていた。そして十五歳の時農園を離れた僕の記憶からは薄れてかけていた名前でもあった。
「僕が……行くべきなんでしょうね」
言ってしまった――中途半端なスーパーマンになる以前、たった十数キロの移動でさえ死にかけていた僕がこんなだいそれた言葉を口にするなんて――でも、しょうがないではないか。僕には教授夫妻のように医療で人を救う技術はなく、雄さんは隻腕になってしまった。母とスーザンは女性で太と沙織は子供なのだ。小学生にも分かる消去法だった。
議論の輪が解けて僕に視線が集まる。この数日間、何度もこんな状況を経験していた。今回ぐらいは期待に応えてみようじゃないか。
「でも、あんただって――」
母の心配そうな表情に真実を打ち明ける時がきたことを確信する。〝おいおい〟の到来は案外早かった。
「母さんからもらった体は半分ぐらい壊れちゃってね。教授と先生に作り直してもらったんだ。随分力持ちになったし頭も少しは良くなった。今度こそ無茶はしないよ。成算があるから、この役目を買って出たんだ」
大学時代、日向子にせがまれてデイジーリゾートへ行った時の片道が400km強だった記憶がある。勿論自動車でだ。その倍の距離を氷の中、犬橇で走ろうというのだ。成算なんかありっこない。なんとかなるんじゃないか? といった漠然たる思惑、つまり浅知恵が僕を衝き動かしていたのだ。
「その通りです。そのために彼を治療した訳ではありませんが、この状況で彼以上の適任者は考えられません」
母の視線を受けた教授が答える。おいおい、そんなに力強く賛同してくれなくたって――「君には無理だ」と言われれば「はいそうですか」と引き下がる準備だってしていたのに。
「そうと決まれば、早速支度を始めよう。グズグズしている時間はないぞ。なあに、水戸黄門の爺さんにだって日本漫遊が出来たんだ。若く特別誂えの君の体で出来ないはずはない」
話はとんとん拍子でまとまった。しかし水戸黄門漫遊記は純粋な創作で、実際の徳川光圀は関東周辺から一歩も出たことのない人物だったという話を何かで聞いたことがある。しかも、こちとら印籠さえ持たされていないのだ。どうやら僕の脳味噌が東北のカリスマに塁を麻すには、まだまだ時間がかかりそうだ。僕は調子のいい口をつねってやりたくなった。
それからの僕は忙しくなった。八面六臂の大活躍といってもいいだろう。地下ラボの保存食料は限られており避難民の人数は増えた。何度か学校跡を行来して残っていた食料と使えそうな防災グッズを運び込む。凍った鎧戸の開閉など人工筋肉の腕をもってすれば屁でもない。誰が見る訳でもなかったが、さすがにレギンス一枚での屋外行動は僕の美意識に反する。長身の所教授の洋服はサイズが合わず、梓先生の真っ赤なショートコートを借りた。地味な色の物もあったが、それだと背中に背負った大きなリュックサックとのコンビネーションが戦後の闇屋の買出しみたいだと母に笑われて止めた。闇屋って――母は本当に五十二歳なのだろうか?
そして、その合間に雄さんから氷中行のレクチャーを受け、ルートや氷中泊の心得を頭に叩き込んだ。人口筋肉の威力は身をもって知る雄さんだったが、音響定位と超視覚の説明をする時には化物扱いされそうで少しだけ気が滅入った。だから犬と意思を交わせることも言わずにおいた。
腕が治り次第、農園に向かうといった雄さんのためホログラムマップは置いておくことにする。ローラーブレードは地下菜園の工具箱にあったワンザイス大きなベアリングでヴァージョンアップをしておいた。これで時速60kmの巡航に耐えられるだろう。学校との往復で犬達と競争した際、僕の方がかなり速かったので橇も置いてゆくことにした。これでドッグフードがない問題にも解決をみることとなる。準備は着々と進みつつあった。