学習
「雄さんっ! 母さんっ!しっかりしろ」
気を失っている生徒二人とスーザンを乗せて走った犬達は、荷の落下を気にしてトロット以上に速度をあげなかったようだ。賢い犬達だ。
「丈……か……今度は、お前に助けられたな……みんなを……頼む」
僕は雄さんが連れ帰った人数を数える。
「後の二人は?」
膝をついたままで雄さんは力なく首を横に振った。ダメだったのか……しかし、悲嘆にくれている場合ではない。やけに温かいコートにくるまれた母はともかく、橇の三人はルイベ(冷凍したサケの切り身)になりかけていた。僕は橇の上の三人をおろすとそこに雄さんを乗せた。「飛ばすからしっかり掴まっていてくれ」背負った母にそういって生徒二人とスーザンを文字通り小脇に抱え上げた。
≪先にラボに戻っている、雄さんを頼むぞ。方向は分かるな?≫
なんと僕は犬達に話しかけていた。言語を持たない彼等だ。イメージの遣り取りをしたという方が正しいのかも知れない。先頭の大柄で白い犬がウォンと一声吠えたのを確認すると僕は氷の台地を蹴った。
「助かりますよね? 」
母は、まだ口が強張るのか上手く話せないでいるが意識はしっかりとしていた。ただ他の三人は中度の低体温症の症状を呈していたようで、彼等を診ていた教授も梓先生も同様に険しい表情をしていた。
「著明低下、脳波――J波検出、イレウス(腸閉塞)の兆候あり。直腸温、なおも低下中。ああっ、だめ――呼吸停止だわ」
……〝重度〟と訂正しておこう。西村少年を診ていた梓先生が悲鳴にも似た声を上げる。
「人工呼吸器を繋げ、ホットパックをもっとだ」
「ホットパックは今出ているので全部よ」
「だったら何でもいい。なんとかして体温を上昇させるんだ。君もぼやっとしてないで手伝え」
母の傍についていた僕に教授の罵声が飛んでくる。僕は体温を42℃まで上昇させると西村少年に覆い被さった。頭がぼーっとしてきたが、ほどなくして微かな呼吸音が胸の下に戻ってきた。生体情報モニタに目をやった梓先生が涼やかな笑みを浮かべてこう言った。
「人間ホットパックね、いいアイデアだわ。次はこっちよ」
二つきりのベッドは既に万床で、スーザンは簡易ストレッチャーに寝かされていた。凍りついた洋服を取り去られた彼女は半裸だった。朦朧とはしていたが意識は戻っていたようで彼女の唇が何かを話すように動いたが、それが何なのかまでは分からない。僕は「やめてよ変態」でないことを願った。
躊躇する僕に梓先生は「早くなさい、何してるの」との叱責を浴びせる。これは緊急措置だ、顔が赤くなっているのは体温上昇を行なったせいだからな。僕は自分にそう言い聞かせて彼女の体を包んだ。危惧した身体的反応は……しっかりある……僕は下腹部を少しだけ浮かせた。
「私……大丈夫です……これを……」
母が羽織っていたコートを差し出す。受け取った教授は、それで素早く林田沙織の体を覆う。僕に医療の心得があればもう少し彼等の役に立てたものを……100㎡程の地下ラボを目まぐるしく動き回る教授夫妻の姿に痛く感動し、同時に我が身の無力さを情けなく感じていた。
半裸で保健医さんに覆い被さっているうちの息子は一体何をしているのだろう? そう語るかのような母の視線が痛い。AV男優という職業は人が思うほど羨ましいものではないのだな、と僕は悟った。温もりを取り戻したスーザンの体に柔らかさが戻り、僕の〝彼〟は否応なくいきり立ってしまっていた。
「安心出来る状況ではないが、三人共バイタルは安定してきた。鈴木君はどこなんだ?」
「2km先でみんなを拾ってきたんです。もう着いてもいい頃なのですが……見てきます」
居心地の悪さから開放された僕は、気まずさを振り払うべく二段飛ばしで階段を駆け上がった。中途半端に賢いスーパーマンは一事に意識を集中すると他が見えなくなってしまうようだ。これでは気の利いた一般人以下ではないか――怒りと情けなさがない混ぜになり屋外へのドアを蹴り飛ばそうとした刹那、大柄な犬の意識が頭の中に飛び込んできた。
《ソッと》
アウトコースに逃げてゆくスライダーにやっとの思いでバットを止める感覚であった。ゆっくりドアを引くと外からもたれかかっていた雄さんの体がズルズルと滑り落ちてくる。ここに辿り着くのが精一杯で、ドアを開ける力すら残されていなかったのだろう。
《助かったよ》
見上げる犬達に礼を述べて雄さんの体を担ぎ上げると、今度は階段を三段飛ばしで下った。一連の動作は僕オリジナルの心配機能を超えていたようで、心臓は早鐘のように鳴り響き、肺は蓄えた酸素を使い切って萎んでしまったように感じる。目眩がしてきた。
雄さんをベッドに寝かせると、僕は地下ラボの冷たい壁に背中をあずけ、そのままズルズル床に腰をおろす。数秒で脈も呼吸も平常通りに戻った。運動で心肺機能は鍛えられるという。僕の場合、それ以外の何かも協力してくれたのだろう。制御という項目が脳のメニューに加えられていた。
運び込んだ人々の様子を見て回る。意識がしっかりしていたのは母とスーザンだけだったが「子供達ももう心配ないと」教授は言ってくれた。安心した僕は母の前に足を運んでしゃがみこんだ。
「良かったよ、母さんが無事で」
「あんたと鈴木君のお陰ね。よく生きていてくれたわ。篠田先生と安藤さんはどこ?」
黙って首を横に振った僕の様子から状況を読み取ってくれたようだ。母は無念そうに唇を噛み締めた。そして僕はまだ母からもらった体の半分が作り物となってしまった事実を打ち明けられないでいた。まあ、それはおいおい――少なくとも由香里とマイケルの早逝を告げた今は口にすべきではない。
雄さんの腕を診ていた梓先生が顔をしかめていった。
「無茶をしたものね。これじゃあ最初っからやり直しだわ」
「僕みたいにPなんとかを使ってみたらどうなんですか?」
外野のつもりはない。僕なりに雄さんの早い回復を願っての言葉だったのだが、その意見は無責任な野次馬の発言としかとられなかったようだ。
「いったでしょう? あれは適応する人間ばかりではないの。下手すれば意識の底に入り込んで抜け出せなくなるのよ。軽率で感情的なあなたには上手く馴染んだみたいだけど、鈴木君にも同じように働くとは思えない。詳しく話している時間はないの。そこのパソコンにリポートがあるから読んでおきなさい」
軽率で感情的――随分な言われようだなとも思ったが、梓先生の口調には慣れてきていたし、あながち間違ってもいない。パソコンの電源ボタンを押すと古のWindows7が起動した。
ビデオ画像には若かりし日の所教授と今とちっとも変わらない梓先生、そしてベッドに拘束された男の姿がある。理科の教師だった僕だが、実は生物学はあまり得意ではない。蛙の解剖などは大の苦手であった。
「あの……」
専門用語の解説を求めようと声をかける教授も梓先生も、治療と処置に手一杯で相手をしてもらえそうにない。ERPがどうのHGHがどうのと言った用語を理解できたのはリポートを三分の一程を読み終えた辺りからだ。n(数)は少ないながらもP300Aへの適応を示した僕と、察するに第一被験者だったらしい東北のカリスマの共通項は、先ほど梓先生が言った〝軽率で感情的〟なのだなと知るに至り少し憂鬱になった。きっと僕の新大脳皮質も標準以下のサイズなのだろう。ともあれ大まかな脳味噌の働きは理解出来た。投与量の少ない僕にも精神的な啓発は起こり得るのだろうか? そのうち電位の変化とやらが見えるようになるのだろうか? 疑問は増えてゆくばかりだった。