邂逅
東北を発って六日目、高速道路を下りる瞬間がやってきた。ここからが勝負だ。雄一郎は気を引き締める。ホログラムマップによれば、このインターチェンジから5km強のところに教授の自宅兼ラボがあるはずだ。建物も幹線道路も崩れ落ち、地形は完全に様相を変えていた。
「ここからはお前達が頼りだ」
一番鼻の効く一歩にトコログリアの空瓶を嗅がせ、犬達の先頭にハーネスを繋ぎ替えた。
行く手を阻まんとするブリザードだが利点もあった。少なくとも氷漬け彫刻の輪郭をぼやけさせてはくれる。雄一郎は速度をトロットに抑え慎重に進んだ。
「行ってくるよ」
「気をつけてね。お願いだから無茶はしないで」
「分かってる」
既に無茶はしている。そして僕は何も分かってなんかいなかった。唯一確かなのは、所教授を探し出さねば、或いはトコログリアを持ち帰ることが出来ねば、由香里とマイケルが死んでしまうということだ。微かな希望に縋ってでも僕は行くしかなかったのだ。
防災訓練用のヘルメットを被り、溶接用ゴーグルを引き下ろす。露出した体表にはカーテンやソファのカバーを剥ぎ取ってぐるぐる巻きにした。鏡がなかったのでその姿を確認することは出来なかったが、ポンチョを着たガンマン風――クリント・イーストウッドっぽくあって欲しいと願った。しかし実際はホームレス風であったのだろう。事態を把握していた大人二人はそうでもなかったが、見送ってくれた二人の子供の瞳には「なんとまあ」といった哀れみの色があった。
歩き始めてたった三十分で、自分の根性ナシさ加減を思い知らされる。僕の頭の中を駆け巡るのは「来るんじゃなかった」のフレーズだけになっていた。デコボコした氷の路面は歩きにくいことこの上なく、吹きすさぶ風が叩きつけてくる氷の粒が痛い。彼等を救うためだ、と思い浮かべたマイケルの顔に意気込みがくじけそうになる。イメージを安藤由香里の顔に転換して歩を進め続けた。
西暦2004年生まれの僕だ。戦争やテロなど、大量殺戮現場に居合わせたことなどない。この先もそんな光景を目にすることなどないだろうと思っていた。しかし――
最初に襲った衝撃を生き延びた人々だろう。道路(と、いえるかどうかはともかく)には人型の氷が無数に点在している。だが、出来立ての冷凍マグロを目にしていた僕に、台座から転げ落ちた彫像のようなそれは大きな感慨を与えなくなっていた。トコログリア接種を受けておかないからだよ。母にしつこく言われ、災禍の僅か二日前に処置をしてもらった僕がそんな不遜なことを考えてしまったのは、おそらく思考に障害を来しかけていたからだろう。さもなければ誰が他人のためにこんな辛い想いなどするものか、と言い訳をしておく。
人の歩くスピードはおよそ時速4kmといわれているが、それはあくまでも平時に平坦な道を歩く平均値である。辺り一面が氷原と氷塊だったせいもあろうが、歩けども歩けども周囲の景色に変化はない。心なしか風も強まってきたように思えた。出発してから四時間、凍ってしまわない腕時計ってのは頑丈なものだと、気楽なことを考えていた。俯瞰で見ている誰かがいたら同じところをぐるぐる回っている僕を笑ったかも知れないが、機会があれば試してみるといい。目印も方位磁石もなしで一方向を目指すことがどれほど難しいことかを知るはずだ。もっとも方位磁石があっても何の役目も果たさないことを、この時の僕は分かっていなかったのだが。
時計は母に告げた〝行って帰ってこられる〟はずの時間をとうに過ぎようとしていた。依然、病院の南側にあったはずの丘陵は見つけられないまま、僕は氷原をさまよい続けていた。唯一の目印として期待したそれは5~6階建てのビルが折り重なって倒れ、氷漬けになってしまえば区別がつかない。そしてこの数日間「もしかしたら、こうなってしまうのでは?」といった危惧は、大抵現実化してしまっていた。〝心なしか〟と感じた風は明らかに強くなっていた。吹雪か、視程は100mを切っており風速は間違いなく10m/s以上ある。これが後三時間も続けば、ブリザードと定義されたころだろう。疲労が睡魔に変わろうとしている今、僕の命の灯火を吹き消すつもりなら老女の吐息で充分だったのに――ご丁寧なことだ。
全身が鉛のように重い。数分でいい、体を休めて体力を回復させよう。背中をあずけた冷たく固い氷の壁は、ゆりかごの安らぎで僕を優しく包んでくれようとしていた。
多分、夢なのだろう。薄れゆく僕の意識に犬の吼える声が聞こえる。最期ぐらい可愛い女の娘の夢を見させてくれたらどうなんだ。僕は神様に毒づいた。
手も足も動かない。顔の向きを変えようにも首から下は凍りついたように、いや、実際凍りついていたのだろう。ホッケーのフェイスマスクみたいなものを被った人影が近づいてくる。ジェイソンがトドメを刺しにきたのだろうか? これまたご丁寧なことだ。
人型をしている――まだ、倒れて間もないようだな。息はしているのか? 雄一郎は氷の壁にもたれたまま動かないホームレス風体の男の顔を覆うボロ布とゴーグルを外す。布切れはパキンと音がして割れるように剥がれた。男が呻き声に続いて蚊の鳴くような声を出した。
「あれ……雄さん? 雄さんじゃないか、久しぶり。って、やっぱ夢だな、ここが農園であるはずないもん」
雄さん? 農園? 雄一郎の記憶は一気に十年余りを遡った。凍りつき真っ白になったヒゲに顔の三分の一は覆われていたが、恩人と恩師の息子である小野木丈を見まごうはずがない。
「丈っ! 丈なのか? しっかりしろ。今助けてやるからな」
ヒーテッドコートを脱いで丈をくるむと、橇からブランデーの小瓶を持ってくる。
「飲むんだ」
しかし、呼吸音も途切れ途切れになっている丈は反応しない。仕方なく自分の口に含んだブランデーを口移しに運んだ。
「美代ちゃん――先生は無事なのか? どこに居るんだ」
うっすらと目を開けた丈が微笑んだように見えたが、すぐまた瞼は閉じられてしまった。