酔わないティプシーケーキの謎
20世紀初頭の現実の英国を舞台に、女男爵が事件を解決する話です。4つの手紙で構成される書簡体の短編です。
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【ロンドン警視庁のヘイスティングス警部から<メラヴェリー・マナー>のメラヴェル女男爵宛】
1912年9月4日
メラヴェル女男爵様、
先日は例の事件のために、ご足労いただきありがとうございました。
同行してくださったご夫君にもよろしくお伝えください。
例の件は書類の手続きも完了し、正式に解決となりました。
去年の殺人事件に続き、またしても「探偵女男爵」の助言が事件を解決に導いたので、上司の主任警部はひどく驚いていました。
私はもうすっかり慣れましたが、本来はその反応こそ正しいのでしょう。
自身の権利に基づく女男爵であるあなたが実は殺人事件に考えを巡らせているだなんて誰が想像するでしょうか。
その後、私は最近英国中を騒がせている連続銀行強盗事件の捜査に掛かりきりでした。
ご存知の通り、三人組のアメリカ人の強盗ですが、元の仕事場であるアメリカでは、警官に重傷を負わせて警察の恨みを買ったため、身の安全を図って仕事場を英国に変えたのだと見られています。
7月初めから先月8月の終わりにかけてロンドン、エディンバラ、グラスゴー、バーミンガム、リヴァプール、マンチェスターと英国の主要都市の銀行が襲われた被害総額5,000ポンドの大事件ということは新聞でも報道されているとおりです。
ロンドン警視庁も、管轄内で最初の事件が起きたことから必死に捜査していますが、どうにもこうにも……。
そうしているうちに、別途、内々に解決したい殺人事件が起きてしまい、また助言をいただきたくお手紙を差し上げました。
極めて慎重に扱うべき事件なので、どうかこの手紙は他人に読まれぬようご注意ください。
早速ですが、事件の内容です。
現場は、ロンドンにある特に高貴な家のタウンハウスです——詳しくお伝えすると、特定できてしまうかもしれないので、ひとまずはご容赦ください。
一昨日の9月2日夕方、そのタウンハウスで調理助手を務めていた20代後半の女性が殺されました。
遺体は半地下のボイラー室の中で発見されました。
ロンドンの社交シーズンは既に終わっているので、その家の主人一家はほぼ全員田舎の領地に移っています。
しかし、奥方だけがロンドン在住の恋人と過ごすために、そのタウンハウスに残っていました。
警察がそれを早々に突き止めたことで、奥方はさぞ動揺されるかと思いきや「こういったことは警察の所掌ではないでしょう?」なんて平然としていらっしゃいました。
なんでもご主人も暗黙裡にお認めになっているとかで。
この仕事に就いているとよく聞く話ではありますが、失礼ながら上流階級の夫婦関係は理解に苦しみます。
ただ、事件当日の奥方は、恋愛を楽しんでいたわけではありませんでした。
アメリカから来た友人夫妻をディナーに招き、そのまま泊めることにしていたのです。
奥方がその夫妻と知り合いになった経緯は少し変わっています。
去る6月、奥方が用事でアメリカに行かれた際に、帰路の船上で英国周遊旅行に向かうアメリカ人夫妻とご令嬢の一家と意気投合し、一家が英国周遊を終えて、アメリカに帰る前に奥方のタウンハウスに立ち寄ると約束を交わしたそうです。
いかにも社交辞令で終わりそうな話ではありますが、事件発生の数日前に、そのアメリカ人から奥方宛に手紙が届き、約束が実現する運びになりました。
タウンハウスには、小規模なディナーパーティーを開くのには十分な数の使用人がいました。
とはいえ、主要な使用人は田舎の屋敷に配置されていたので、それぞれの持ち場の二番手の地位にある者が残って仕事を回していました。
副執事が執事に代わって家政を取り仕切り、ハウスメイド長が家政婦長に代わって女性使用人の持ち場を守り、被害者の調理助手がシェフに代わってキッチンを差配するという具合です。
そのような状況下で迎えた事件当日、被害者の調理助手は半地下にあるキッチンでディナーパーティーの準備をしていました。
当時、彼女の下で共に働いていたのは、キッチンメイド1名、スカラリーメイド2名、下働きの少女1名の4名でした。
彼女たちは午後6時から準備を開始しました。
そして、午後7時頃、被害者はデザートを作っている途中で廊下へ出て行ったきりキッチンには戻らず、ディナー開始直前の午後8時前に、ボイラー室で遺体で発見されました。
自身のエプロンの長い腰紐を首に巻き付けられる形で絞殺されていました。
そのボイラー室はキッチンと同じ半地下にありますが、キッチンの使用人たちは不審な人物や物音には気が付かなかったと言っています。
調理中は忙しいですし、何かと音が立ちますから、不自然ではないと思います。それに何より広いお屋敷ですし。
当然ディナーは中止になり、警察が呼ばれました。
事件直前の被害者の様子は、当日、共に働いていたキッチンメイドが詳しく証言してくれていますが、被害者と密接に関わりながら仕事をしていたのは彼女だけなので、一人の証言に頼らざるを得ないのが心許ないところです。
彼女以外は皿洗いや野菜の皮むきなど雑用を担当していて、被害者から指示を受けることはあっても、被害者自身が何をしていたかは気にしていなかったのです。
ちなみに、本来であればキッチンメイドはもう一人いたはずでした。
しかし、ここのところ、使用人の間で風邪が流行っていて、もう一人のキッチンメイドは高熱を出して屋根裏にある自室で休んでいました。
彼女のように熱まで出した人は数人ですが、他の使用人たちも主に鼻の不調に苦しんでいて、特にキッチンでは被害者含めて皆料理の匂いがわからず不便な思いをしていたようです。
そんな事情から、鼻以外は健在だったキッチンメイドの証言頼みになりますが、彼女は記憶力が良く、ヨークシャー訛りはあるものの明快な話し方をするので、証人として信頼できそうです。
また、彼女は被害者がキッチンを離れてから遺体で発見されるまで——つまり、午後7時から8時の間——は、ずっとキッチンにいたことが複数の使用人の証言からわかっています。
しかも、人手不足を補うための臨時要員として先月から雇われたばかりなので、被害者とはトラブルを抱えるほどの付き合いもありません。
つまり、犯行に関わっている可能性も低いのです。
ともかく、そのキッチンメイドの証言によると、被害者は午後6時からキッチンで調理をしていました。
そして、午後6時40分ごろ、デザートのティプシーケーキに取り掛かったそうです。
スポンジは昼間のうちに焼いておいたので、彼女はそれを三層に切り分けてラズベリージャムを塗り、ラム酒を振りかけました。
ご存知の通り、ティプシーケーキは何層かに分けたスポンジにジャムを塗り、酒を染み込ませた後、スポンジを重ね、上からカスタードクリームをかけます。
しかし、午後6時50分頃、彼女は急に副執事が管理している酒類保管庫にラム酒を取りに行きたいと言い、キッチンメイドにも付いてくるよう指示したそうです。
キッチンメイドは、予めキッチンに用意しておいたラム酒が足りなくなったのだと理解して、被害者と一緒に副執事の執務室の隣にある酒類保管庫に行きました。
実は酒類保管庫の扉は施錠されていたのですが、後述の事情から、被害者は管理者である副執事に解錠を頼むことはありませんでした。
代わりにキッチンメイドに針金を使って解錠させました。
数週間前にお茶会の準備中に陶器のキャビネットの鍵が折れた際に、そのキッチンメイドが針金でキャビネットを開けて事なきを得たことがあったそうです。
保管庫が開くと、被害者は庫内の棚からラム酒——ティプシーケーキ作りに使っていたのと同じ銘柄です——を見つけてコルク栓を開けると、何故か何度か頷いただけで、再び栓をして元に戻したそうです。
保管庫の入り口で見張りをしながら様子を見ていたキッチンメイドは不思議に思いましたが、被害者が何事か考え込んでいるように見えたので、何も聞けなかったと言っています。
その後、二人はキッチンに戻りましたが、被害者は「少し出てくる」と言って、キッチンに残していた方のラム酒の瓶を持って廊下に出て行ったそうです——これが午後7時頃のことでした。
その後、被害者はいつまで経っても戻って来ず、午後7時45分頃、キッチンメイドは自分の判断でスポンジを重ね、カスタードクリームをかけてティプシーケーキを完成させました。
遺体発見後、警察がキッチンを調べましたが、そこに残された痕跡は、ここまでのキッチンメイドの証言とほぼ一致していました。
唯一、証言と一致しなかったのは、ティプシーケーキの状態です。
現場のティプシーケーキは、間違いなく三層のスポンジでできていて、上からカスタードがかけられていましたし、スポンジ一枚一枚には間違いなくラズベリージャムが塗られていました。
しかし、どのスポンジも、染み込んでいた液体は、水に若干のラム酒が混じっただけのもの——いわば、ほぼ水だったのです。
何故そんな事態になったのかはわかっていませんが、スポンジが入れ替わった線はなさそうです。
キッチンにもその廃棄物にも余計なスポンジは見当たらなかったからです。
事件発生直後、意外にも例の奥方が現場となった半地下については、キッチンを含めて現場保存を指示し、使用人たちも厳格に守ったそうなので確実だと思います。
このことが判明してから、被害者の後を引き継いでケーキを完成させたキッチンメイドに改めて確認しましたが、スポンジに染み込んでいたのがまさかほぼ水だったとは思わなかったと言っていました。
彼女も例の鼻風邪を患っていたので、ラム酒の香りがしなくても自分の体調のせいだと思って気に留めなかったのかもしれません。
それにしても、ほぼ酒の入っていないティプシーケーキだなんて、実に不可解です。
このような不可解な謎はあるものの、動機やアリバイの観点から容疑者の方はある程度絞り込まれています。
一人目の容疑者は、副執事です。
30代の上昇志向の強い副執事で、次期執事候補と目されている男で、彼には被害者を殺す一応の動機がありました。
酒を巡る執事とシェフの対立のせいです。
その対立は、まだ社交シーズンの盛りだった5月頃、まだ主人一家も使用人も皆タウンハウスに滞在していた間に起こりました。
執事がワインやシェリー、ブランデーなどの主だった酒の消費量が急に増えたことに気づき、シェフや彼の配下のキッチンの使用人のせいだと主張し始めたそうなのです。
もちろん、普段から、主人一家が飲むための酒類は執事と副執事が酒類保管庫に、料理に使う酒類はキッチンに、と別々に保管されていました。
しかし、執事は、少々大雑把なシェフが料理用の酒類の在庫管理を怠り、足りなくなった分を酒類保管庫から勝手に持ち出して補っているのではないかと疑ったのです。
一方、シェフは勝手に持ち出したことはないと反論し、両者の対立はそれぞれの部下を巻き込んで騒動になりました。
もちろん、副執事は執事の陣営で、被害者の調理助手はシェフの陣営です。
困ったことに、両者は酒の件以外にもあることないこと言い合って、最後には副執事がキッチンの下働きの少女が食材を盗んでいるとまで言い出したそうです。
そのため、人情派で普段からキッチンの仲間や年若の使用人のために熱くなりがちだった被害者は、執事や副執事と相当やりあったようです。
その後、紆余曲折ありましたが、最終的には、6月末頃に、執事の判断でこれまで就寝前に施錠するだけだった酒類保管庫を常時施錠することにし、更に保管庫から酒を取り出せる者を執事か副執事に限定することで酒の管理を厳格化しました。
執事たちの部下であり、給仕を担当するフットマンでさえ、直接保管庫から酒を取り出すことは許されず、必ず執事か副執事が直接手渡すことになりました。
また、キッチン側も料理に使う酒は、キッチンに用意したもので全て賄うことを徹底し、対立は沈静化しました。
ただ、事件当日には思わぬことが起こりました。
普段その家では、ティプシーケーキには、英国の他の家庭と同じようにシェリー酒やブランデーを使います。
しかし、その日はメニューを聞きつけたアメリカ人の客人が、夕方になってから急にラム酒を使うよう要望し、奥方も客人の好みに合わせるようにと指示したそうです。
しかも、アメリカ人のこだわりなのか、我が国でも馴染みのあるダークラムではなく、ホワイトラムが指定されたそうです。
被害者の調理助手は困ったと思いますが、当然まずはキッチンに備えていたホワイトラムを使ってケーキを作っていました。
しかし、前述の通り、彼女は途中で酒類保管庫のホワイトラムを取りに行くことにしたようです。
その家では主人一家の好みで、ダークラムですら料理に使うことは珍しかったそうなので、キッチンには、ティプシーケーキを作れるほどのホワイトラムの用意がなかったのかもしれません。
とはいえ、結局、酒類保管庫のラム酒をキッチンには持ち帰らず、元に戻したところが謎ではあります。
急に罪悪感を覚えたのでしょうか?
いずれにしても、酒類保管庫を無断で開けたことは確かなので、この件で副執事と揉めた末に殺人に発展した——という可能性はあります。
副執事のアリバイですが、彼は被害者が殺害されたと思われる午後7時から8時の間は、1階の正餐室でディナーの準備をしていたそうです。
部下も一緒でしたが全員がずっと行動を共にしていたわけではないので、半地下に下りて被害者を殺害することは不可能ではありません。
特に客のアメリカ人夫妻がなかなかディナー前の待機場所である応接間に現れないので、午後7時半頃に副執事が探しに行ったことがありました。
「1階の応接間でお待ちください」と事前に案内されていたのを勘違いして、地上階に行ってしまったのが原因だったそうです。
我々の「1階」はアメリカ人の「2階」、アメリカ人の「1階」は我々の「地上階」ということで、同じ英語でも我々と彼らでは使う言葉が違うのが厄介ですね。
そういうわけで、最近被害者とトラブルがあり、アリバイもない彼はかなり怪しいように思えます。
二人目は、フットマンです。
彼はフットマンの中では下っ端で、勤め始めて2年になります。
フットマンらしく見た目がよく背も高い20歳になったばかりの男で、女性にはかなりモテるようです。
事件当日、そのフットマンは、熱を出して半地下にある自室で寝込んでいました。
例の使用人の間で流行っていた風邪のせいです。
遺体が見つかったボイラー室は、彼の部屋も含めて男性使用人の部屋が集まっている一角にありましたが、彼自身は後述の第一発見者に起こされるまで、自室で寝ていて何も気が付かなかったと言っています。
確かにボイラー室は、給湯や暖房に使うボイラー設備がある他は、石炭などの燃料、木くずや使い古しの千切ったコルク栓などの着火剤、シャベルや火かき棒などの道具が収納されているだけなので、病人が近づくような場所ではありません。
ただ、誰かが彼に付いていたわけでもないので、アリバイを証明できる者はいませんし、すぐ近くで殺人が起きたのに気づかないのは少し不自然です。
また、彼はパブに通い過ぎて度々金欠になっていたことがわかっています。
人情派の被害者の調理助手は、彼を心配して時々金を貸してやっていたようで、総額1ポンドほど彼女に借金があったのです。
フットマンでも少しずつなら返せなくはないでしょうが、すぐに用意するのは難しい額です。
ただ、彼は後述する事情から、半年ほど前からパブ通いを控えていたので、最近は新たな借金を重ねることはなかったそうです。
しかし、過去の借金の即時返済を迫られたとか、やはり被害者の方に恋心があって見返りに恋人になるように求められたとかで、揉め事があった可能性は否めません。
三人目は、ハウスメイドです。
彼女は18歳の大人しい女で、数年前に下働きとして勤め始め、最近第三ハウスメイドに昇格したそうです。
捜査の過程で、半年前から二人目の容疑者のフットマンと密かに婚約中で、来月、二人とも退職して結婚する予定だったことがわかっています。
このことはフットマンも認めていて、女性にはたいそうモテる彼ですが、他の女性関係をすっかり清算したほど彼女に惚れ込んでいるようです。
だからこそ彼は、結婚に向けて半年前からパブ通いをやめて倹約に励み、遂に先月には彼女に婚約記念品を贈ることもできたのだそうです。
事件当日ですが、そのハウスメイドは半休だったので午後以降は仕事はしておらず、風邪で寝込んでいる婚約者のために、薬局に風邪薬を買いに行き、午後7時半に届ける約束をしていたそうです。
しかし、他にも色々と用事があり、実際にタウンハウスに戻ったのは午後7時45分頃——今の時期のロンドンではちょうど日没頃ですね——で、同僚の第二ハウスメイドがその時間に使用人用の勝手口から帰宅した彼女を見ていました。
彼女は、帰宅してすぐに半地下の男性使用人の部屋がある一角へと向かったそうです。
もちろん、本来であれば、ハウスメイドのような下級の女性使用人が許可なく男性使用人の部屋に近づくなど、風紀上の理由から禁じられています。
しかし、彼女は、他の使用人たちがディナーの準備で忙しくしているのを良いことに、密かに婚約者が寝ている部屋に入ってベッドの脇に薬を置いたそうです。
多くのお屋敷と同じように、そのタウンハウスでも使用人の部屋には鍵がついていませんので、忍び込むのは簡単です。
ちなみに、そのときに届けた薬は、一般的な風邪薬だったことが後の捜査でわかっています。
本人の供述によれば、呼吸が乱れて寝苦しそうにしている彼が可哀想で、他に世話をしてやれることがないか探したようです。
半地下の部屋なので、はめ殺しの窓から差し込む薄明りを頼りに部屋を見回したところ、空いた食器もなければ、水差しもほぼいっぱいだったとのことで、特にするべきことがないと判断して、すぐに退室したとのことです。
ただ、退室した際にふと廊下の奥のボイラー室のドアが半開きになっているのに気づき、不思議に思って隙間から覗くと——そこに被害者の遺体が遺棄されていたのです。
後で警察が調べたところ、犯人はどうやら遺体のスカートの裾を挟み込んでドアを閉めたようで、後から勝手に開いてしまったようです。
犯人は焦っていたのかもしれません。
ともかく、ハウスメイドは叫びながら婚約者の部屋に戻り、彼を叩き起こしました。
話を聞いた彼は副執事に知らせるべきだと言い、パニックになったハウスメイドは部屋を出て、付近の男性使用人の部屋のドアを開けて副執事を探してしまったそうです。
副執事はディナーの準備をしていて、半地下の自室にいたはずがないのですが、遺体を見てしまったショックでまともに考えられなくなってしまったのだと本人は言っていました。
いずれの部屋にも人気がなかったことで、ようやく冷静になった彼女は、使用人ホールに人を呼びに行きました。
無理して起き上がった婚約者のフットマンも一緒だったようです。
そこから事件の報せが1階でディナーパーティーを取り仕切ろうとしていた副執事の耳に入り、間もなく奥方にも報告され、通報に至ったのです。
正直、このハウスメイドもかなり怪しいと思います。
彼女は帰宅直後に目撃された後は、人目を忍んで婚約者の部屋に向かったので、彼女の証言を裏付ける証人がいません。
ハウスメイドが婚約者の部屋に向かった際、被害者も何らかの理由で近くにいたのかもしれません。
それで、婚約者が他の女と密会していたと思い込んだかもしれません。
痴情のもつれによる殺害というのは珍しくありませんし、殺人事件では第一発見者が最も疑わしいものです。
とはいえ、彼女が午後7時45分に帰宅したことは同僚が目撃しており、そこから彼女自身が遺体を発見して騒ぎ始めた午後8時少し前までに15分ほどしかなく、犯人だとすると犯行に使える時間が短すぎることは気になります。
長くなりましたが、以上が事件の内容です。
本来であれば、疑わしい者全員の指紋を採取して、事件現場に残されていた指紋と照合することで、解決できそうな事件ではあります。
凶器は布なので指紋が残っておらず、また、遺体が見つかったボイラー室のドアノブは拭き取られたようで何も採取できなかったのですが、ボイラー室付近の廊下の床に二人分の手の指の指紋がくっきりと残っていました。
一つは被害者の遺体から採取した指紋と一致しました——襲撃された際に転んで手をついたようです。
もう一つは誰のものかはわかりませんが、位置関係からして犯人が被害者を絞殺した後、立ち上がる際に残したものに間違いありません。
しかし、例の高貴な奥方が使用人含めて自分の家の関係者の指紋が採取される事態は避けたいとお考えなので、誰の指紋なのか調べることができません。
家の名誉を守るためとのことですが、それで使用人の指紋採取まで拒否するのは全くおかしな話です。
上級使用人や表に出る花形の使用人だけならともかく、この規模のお屋敷なら裏方のハウスメイドやキッチンメイド、下働きの者などは普段は顔を合わせることはもちろん、存在を意識することすらないでしょうに。
いずれにしても、何卒、探偵女男爵様のご支援を賜りたく、ご検討いただければ幸いです。
敬意を込めて、
ヘイスティングス警部
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【<メラヴェリー・マナー>のメラヴェル女男爵からロンドン警視庁のヘイスティングス警部宛】
1912年9月5日
親愛なるヘイスティングス警部、
先日の事件ですが、無事に解決できて嬉しく思います。
主任警部が私の助言で事件が解決したことに驚かれたというのは意外でした。
私も他の貴族の当主と同じように領地経営に悩みますし、他のレディと同じようにパリの最新モードも気になります。
それに加えて、謎を解き明かすことも好きなだけなのです。
できればもっと穏やかな謎を解きたいとは思いますが、不幸な謎ほど解き手を必要とすることもまた事実です。
ところで、先日、例の連続銀行強盗の詳報を新聞で読みました。
夫婦風の男女と若い女の三人組ということですが、夫婦と娘なのか、夫婦と付き添いの婦人もしくは使用人なのか、はたまた全く別の関係なのか、つい気になってしまいます。
夫婦風の男女が銀行の責任者を人質にとり、若い女が身代金として大金を受け取って素知らぬ顔で街に溶け込んでいくというのが決まった手口だそうですね。
新聞では、先月マンチェスターの銀行が襲われたものの、人質が勇敢に抵抗したお蔭で一度は夫婦風の男女だけは逮捕されたと報じられていました。
しかし、奪ったお金を持っていた若い女には逃げられ、更には夫婦風の男女の方も隙をついて警察署から逃げ出してしまったとは何とも残念です。
さて、本題の殺人事件のご相談ですが、謹んでお受けします。
やはり「酔わないティプシーケーキ」が鍵になるのではないかと思っております。
何点か教えてください。
第一に、現在の現場の保存状況を教えてください。
奥方や客人のアメリカ人夫妻、使用人は、タウンハウスで生活を続けているのでしょうか?
第二に、被害者が午後7時に廊下に出たときに手にしていたラム酒の瓶は、元々キッチンにあったものでしょうか? 事件後どこで見つかりましたか?
また、被害者が持ち出した時点で、瓶の中身は空だったのでしょうか?
被害者が一度は手に取ったものの元に戻した酒類保管庫のラム酒についてもお気づきのことがあれば教えてください。
第三に、酒類保管庫の鍵は全て副執事が管理していたのでしょうか?
第四に、事件当日、風邪で寝込んでいたフットマンの様子を見に行ったのは、午後7時45分過ぎに薬を届けに行った婚約者のハウスメイドの他にはいなかったのでしょうか?
発熱していたのであれば、誰かが水や食事を運んだこともあったのではないかと思いますが、いかがでしょうか?
第五に、関係者の所持品の中で気になるものがあれば教えてください。
以上のことがわかれば、この事件の犯人を特定できるかもしれません。
かしこ
レディ・メラヴェル
追伸
少し気になったのですが、客人のアメリカ人夫妻はタウンハウスへの訪問にご令嬢を伴わなかったのでしょうか?
アメリカから英国に向かう船上で、奥方とお知り合いになった際には、ご令嬢もいたのですよね?
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【ロンドン警視庁のヘイスティングス警部から<メラヴェリー・マナー>のメラヴェル女男爵宛】
1912年9月6日
メラヴェル女男爵様、
早速のお返事ありがとうございます。
連続銀行強盗について、新聞でお読みになったことは残念ながら事実です。
一度は三人のうち二人を捕まえたのに悔しい限りです。
二人を捕まえている間に金の在り処や拠点の場所だけでも聞き出せれば良かったのですが、それすらできなかったようです。
取り逃がしてしまったマンチェスター警察を庇うわけではありませんが、彼らは訓練を積んだプロの犯罪者です。
一度は捕まった二人が逃走したのも、その二人が担当刑事の両親がスコットランド人であることを巧みに聞き出して、スコットランド訛りで話すことで隙を作り出したというのが関係者間で伝わっている話です。
三人は銀行に現れるときにも、都度身なりや話し方を変えています。
それで印象が変わるせいか、目撃者が証言する外見の特徴がまるで一致しないのが捜査をいっそう困難にしています。
近く彼らがロンドン経由で出国しようとしているとの情報があり、我々も警戒を強めていますが、殺人事件に集中しなければならない私は、同僚の健闘を祈るばかりです。
さすがに5,000ポンド分の現金を持って出国するとなれば、捜査の網にかからないはずがないとは思うのですが……。
さて、殺人事件の方ですが、各質問にお答えします。
第一に、現場保存についてです。
事件発生時と寸分違わぬ状態で保存されています——と言いたいところですが、奥方がタウンハウスからの移転を拒み、生活を続けているので、完全なる現場保存は叶いませんでした。
事件発生直後、奥方の指示で半地下を現場保存できたのは有り難かったのですが、初動捜査後はすぐに平常通りの運営に戻したいと言われてしまいました。
相手が■■■■とあっては、さすがにロンドン警視庁としても移転を強要できず、困っています。
(手紙を書き終えたところで奥方の実際の身分を書いてしまっていたことに気づきました。本来であれば全て書き直すべきですが、一刻も早くこの手紙をお送りしたく、黒塗りで失礼します。)
とはいえ、私も努力はしています。
奥方が使う地上階から2階までにある部屋と半地下の使用人区画の中でも生活の維持に必要なキッチンや執務室などは諦めましたが、事件と関係が深そうな使用人の私室——半地下の副執事の部屋とフットマンの部屋、屋根裏の被害者の部屋とハウスメイドの部屋——は、警備をつけて一切物を動かさずに保存することを認めさせました。
本人たちには別の部屋を使ってもらっています。
また、遺体が発見されたボイラー室は、今はまだ給湯時にしか稼働させていませんが、そろそろ暖房用に常時稼働させる必要が出てくるので、やむなく使用を許可しました。
ただ、当時ボイラー室にあった物品は全てロンドン警視庁に移して保管しています。
人については、事件当時タウンハウスに居た者は、そのまま留め置いていて、外出は許可制にしています。
帰国予定だったアメリカ人夫妻にも、滞在を延長してもらいました——奥方はこの夫妻が好きなようで、これに関しては寧ろ喜んで客室の提供を続けています。
ただ、使用人の入れ替えも控えてもらっているので、例の先月から働き始めたばかりのキッチンメイドに被害者に代わってキッチンを差配させることになった点については、申し訳ない気がします。
風邪で寝込んでいるもう一人のキッチンメイドはまだキッチンに立てるほどは回復していないのです。
しかし、事件の翌朝、キッチンで事情を聞いている間に、アメリカ人夫妻からの朝食の追加要望が入ったのにも卒なく対応していたので問題はなさそうです。
アメリカ人夫妻が「チップス」を欲しがっていると聞いた彼女は、手際よく薄切りのポテトを揚げ始めていました。
驚きましたが、アメリカ人にとってはそれが「チップス」だそうですね。
英国人にとっては「チップス」といえば、厚切りで熱々のポテトなのにとんでもない——失礼、筆が滑りました。
ともかく、そのようにして最大限の現場保存を試みています。
第二に、事件直前に被害者がキッチンから出て行った際に、持っていたラム酒の瓶の件です。
キッチンの使用人たちに改めて確認しました。
そのラム酒は元々キッチンの調理台の上に並べて置かれていたもので、被害者は当初それを使ってティプシーケーキを作っていました。
ただし、前の手紙で言及した通り、午後6時50分頃、被害者はキッチンメイドを伴って一度酒類保管庫に向かい、結局何も持たずにキッチンに戻りました。
そして、午後7時頃、キッチンに残していたラム酒の瓶を手に廊下に出て行きました。
そのとき被害者が持っていたラム酒の瓶は、結局、今に至るまで見つかっていません。
ボイラー室にも、廊下にも、それらしきものがありませんでした。
それから、キッチンメイドによると、被害者が持って出て行った瓶には、まだ相当量が残っていたようです。
考えてみればおかしいですね。
被害者が調理途中で酒類保管庫に向かったのは、手持ちのラム酒が切れてしまったからだと思い込んでいましたが、まだ相当量残っていたとすると、そうではないのかもしれません。
保管庫で被害者が一度手に取って元に戻したラム酒は警察が検査しましたが何の細工もない普通のホワイトラムでした。
一方で、完成したティプシーケーキには、ラム酒ではなく水が染み込んでいたのですから、何がなんやらさっぱりです。
やはりあなたがお書きになったとおり、「酔わないティプシーケーキ」が事件の鍵なのでしょう。
第三に、酒類保管庫の鍵の件です。
副執事に再度確認したところ、彼自身が肌身離さず携帯している鍵しか存在しないとのことです。
もちろん、その鍵はなくなったりしていません。
第四に、風邪で寝込んでいたフットマンの様子を見に行った人の件です。
結論としては、事件当日、午後7時45分過ぎに薬を届けに行った婚約者のハウスメイドの他に、部屋まで彼の様子を見に行った人はいませんでした。
そのフットマンは熱はあったものの、自分の世話はできていたようで、当日は「喉が渇いて仕方がない」と言って午前中から二、三時間おきに自分の水差しに水を汲みにキッチンに来ていたそうです。
正午頃には、キッチンに用意された病人用の食事も自分で取りに来ました。
その後、フットマンは午後3時に食器の返却と水汲みのためにキッチンに現れましたが、それ以降はずっと自室にいたそうで、部屋の外で彼の姿は目撃されていません。
第五に、関係者の所持品についてです。
関係者の所持品は事件翌日に一通り検めています。
ただし、使用人のものだけで、奥方やアメリカ人夫妻の所持品を検査する許可は下りませんでした。
まず、被害者の所持品ですが、倹約家だったようで、屋根裏の自室の鍵付きトランクに相当額の貯金がありました。
また、フットマンに貸していた金の記録のメモも、同じトランクに入っていました。
しかし、トランクの鍵は亡くなった際に着ていた服のポケットに残されていて、トランクがこじ開けられた形跡もないので、強盗目的の殺害ではなさそうです。
その他の人の所持品ですが、事件と関係ありそうなのは副執事が持っていた酒の空き瓶だけだと思います。
事件現場となった家では主人一家が消費した酒の空き瓶が出ると、コルク栓は千切って着火剤として日々利用する一方で、ラベル付きの空き瓶は執事や副執事に役得として下げ渡されていました。
例の副執事も月に一度ほど集めた空き瓶を買い取ってくれる店に持ち込んで小遣いを稼いでいたようです。
事件直後に彼の部屋で、12本の空き瓶が見つかっていて、その中にはラム酒のラベルが付いた瓶もありました。
本人は事件以前からあったものだと主張しています。
しかし、酒類保管庫の帳簿にはここ最近ラム酒の空き瓶が出た記録はなく、キッチンの記録でもここ数か月はラム酒の瓶を廃棄していないことを考えると、どうもおかしいと思います。
それが事件当日、被害者が持っていたラム酒の瓶であると証明できれば、彼を犯人として逮捕できるかもしれません。
ただ、その瓶を含めて12本の空き瓶全てを調べましたが、指紋は一つも検出されず、断定できませんでした。
副執事は近く売りに出すために丁寧に拭いてしまったのだと言っていますが、怪しいところではあります。
その他気になるものがいくつかあったのは確かです。
まず、無許可ながら密かに調べたところ、奥方が恋人からの手紙をご自身の居間の絵の裏に隠していることや客人のアメリカ人夫妻が大量に衣装を持っていることには気づきましたが、事件に関係するかは不明です。
ただ、フットマンと婚約していたハウスメイドが婚約記念のアクセサリーを持っていたことは、二人が本当に婚約していたことの証明にはなると思います。
特段豪華な品物ではなく、メッセージ入りの銀のロケットでした。
フットマンでも分割払いにすれば、無理なく婚約者に贈ることができる程度の品物です。
また、アクセサリーといえば、被害者の部下のキッチンメイドがルビーのような大きな赤い石のついたブローチを持っていたのは少し目を引きました。
とはいえ、石が大きすぎるので使用人でも手が届くイミテーションの宝石であることは明らかなのですが、なかなかに洗練されたデザインでした。
一方で、つい昨日、客人のアメリカ人夫妻の妻がそれとそっくりなデザインの大きな赤い石のついたブローチ(こちらは本物でしょう)をつけていたので気になって、さり気なく「どこかで見たことのあるブローチですね」と言ってみたところ、意外にもオーダーメイドではなく、高級既製品だそうでした。
そうすると、キッチンメイドが持っていたのは、高級既製品のデザインを真似たイミテーションなのだとは思うのですが、もし本物の高級既製品だとすると少し気になります。
いくら既製品でもキッチンメイドがあんなに大きなルビーを持てるはずがありませんから。
しかし、彼女は被害者が殺された時刻にアリバイがありますから、事件には関係なさそうです。
あと気になったものとしては、フットマンが持っていた強壮剤です。
禁酒用の強壮剤ですが、効果のほどは怪しい代物です。
先日、酔って路上で喧嘩をして逮捕された男の事情聴取をする機会があったのですが、同種の強壮剤に頼っても結局酒がやめられず、遂に事件を起こすに至ったことを嘆いていました。
しかし、このフットマンには効果があったようで何よりです。
強壮剤のお蔭でパブから足が遠のき、結婚資金を貯めることができているようなので。
ところで、追伸にお書きになっていた件も、アメリカ人夫妻に確認しました。
夫妻は確かにロンドンにはご令嬢を伴っていません。
なんでも、エディンバラの親戚の家に滞在した際に、そこの息子と結婚してしまったとか。
明らかに醜聞なので、深入りは避けましたが、必要であれば仔細を確認します。
敬意を込めて、
ヘイスティングス警部
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【<メラヴェリー・マナー>のメラヴェル女男爵からロンドン警視庁のヘイスティングス警部宛】
1912年9月8日
親愛なるヘイスティングス警部、
深夜のカントリーハウスでこの手紙を書いています。
夜の静寂の中で様々な可能性を検討したのですが、「やはりこれしかない」と思われる結論に至りました。
第一に、タウンハウスで発生した殺人事件のことです。
結論から申し上げれば、犯人は事件当日風邪で寝込んでいたフットマンです。
順を追って説明します。
そのフットマンはお酒のことで困っていました。
彼はお酒が好きというよりも、飲まずにはいられなくなっていたのでしょう。
階級を問わず時々そのような方はいます。
しかし、一方で、お酒をやめねばならない切実な事情もありました。
愛する女性——婚約者であるハウスメイド——との結婚のためです。
これまでのようにパブでお酒を飲んでばかりいては、結婚に必要な資金が貯まりませんし、婚約記念品を買ってやることもできません。
そこで、半年ほど前、婚約が決まった時点で、まずは強壮剤に頼りました。
しかし、あなたもおっしゃった通り、巷の強壮剤は怪しいものばかりです。
結局、彼はお酒をやめることができませんでした。
次に、彼はせめてお酒に伴う出費を抑えようと考え、酒類保管庫のお酒を盗み飲みし始めたのです。
しかし、執事の目は誤魔化せず、減りの早さに気づかれてしまいました。
そのときは、疑いの目はキッチンに向けられ、ひとまず事なきを得ましたが、そのせいで保管庫は常時施錠され、手が出せなくなりました。
そこでお酒をやめられれば良かったのでしょうが、簡単にやめられるはずもなく、彼は盗み飲みの方法を変えました。
一つは、盗み飲みの対象を保管庫のお酒からキッチンに備えられているお酒に変えました。
キッチンのお酒は調理台の上に並べられていたそうですから、人目さえ避ければ簡単に飲むことができたでしょう。
中でもあまり使われないお酒——その家ではラム酒はあまり使われなかったようですね——を選んだのだと思います。
もう一つは、盗み飲みした量を誤魔化すことにしました。
瓶の本数が減ったり、瓶の中のお酒の減りが早いと、また誰かに気づかれるかもしれません。
そこで彼は、盗み飲みして空になりかけたお酒の瓶に水を補填することにしたのです。
特にホワイトラムであれば透明ですから、水で補ってもすぐには気づかれません。
もちろん、これは非常に稚拙な工作です。
遅かれ早かれ露見は免れなかったでしょう。
もし、執事や副執事に見つかって公式に糾弾されれば殺人にまで発展することはなかったのかもしれません。
しかし、気づいたのは、情に厚い調理助手でした。
事件当日、彼女は、客人のアメリカ人夫妻の要求に応じて普段とは違ってホワイトラムを使ったティプシーケーキを作ることになりました。
被害者は指定されたホワイトラムをスポンジに振りかけましたが、その中身は既にフットマンが飲んでしまっていて、ほぼ水に変わっていました。
最初は気づかなかったのだと思います。
透明なホワイトラムが水に変わっていたとしても、見た目ではすぐにはわかりません。
ラム酒には独特の香りがありますが、折しも流行していた鼻風邪のせいで、彼女も同僚も鼻が利かなかったので、香りを感じなくてもおかしいとは思わなかったのでしょう。
ただ、さすがにプロの調理助手の被害者は、徐々に違和感を抱くようになり、保管庫の同銘柄のラム酒と比較して確認することにしたのです。
保管庫から取り出したラム酒の瓶のコルク栓を外した瞬間、彼女はすぐに気づきました。
キッチンで使っていたラム酒は香らないのに、保管庫のラム酒ははっきりと香る——つまり、香りを感じなかったのは彼女の体調のせいではなく、ラム酒自体に異常があったからだったのです。
そこで、彼女はキッチンに戻り、そこに残していたラム酒の瓶を持って風邪で寝込んでいるフットマンのもとに向かいました。
パブ通いで金欠になった彼にお金を貸していた彼女は、彼のお酒への執着を知っていて、盗み飲みしたのだと直感したのでしょう。
フットマンの部屋に着いた彼女は、彼を脅して……とはあまり思えません。
情に厚い彼女は彼を庇うつもりだったのではないでしょうか。
だからこそ、内々に済ませるために、すぐに話をつけに行ったのです。
しかし、相手のフットマンは、そうは捉えませんでした。
被害者がラム酒の瓶を持って現れたことで、全ての希望を失いました。
彼女が執事に報告すれば彼は失職します。
盗みを働いた使用人は転職のための紹介状ももらえません。
職がなければ結婚もできなくなります。
追い詰められた彼は証拠であるラム酒の瓶を奪うと、廊下で彼女と争い、その過程で解けたエプロンの腰紐で彼女を絞殺しました。
既に警察が調べた通り、犯人は廊下の床に手の指の指紋を残しているので、その指紋と彼の指紋を照合すれば、すぐに真相が明らかになるはずです。
それにあたって、フットマンの指紋を採取することにつき、どのように奥方を説得するかですが、推論だけでは納得しないでしょう。
しかし、説得材料はあります。
それは、事件当日被害者が持っていたはずなのに、事件後所在不明になっているラム酒の瓶を巡る疑いです。
犯行後、犯人は、婚約者が午後7時半に薬を届けることになっていたため、遺体を隠したりドアノブを拭いたりと、できる限りの証拠隠滅を図りましたが、被害者が持ってきてしまったラム酒の瓶の隠滅には難儀したようで、様々な痕跡を残しています。
まず、ラム酒の瓶それ自体です。
彼は、副執事が役得で得て自室に貯めているお酒の空き瓶の中にそれを紛れ込ませました。
既に警察が見つけたラム酒のラベルが付いた空き瓶がそれでしょう。
指紋は拭き取られてしまっているので断定は難しいと思いますが、ここ数か月、酒類保管庫からもキッチンからもラム酒の空き瓶は出ていないそうなので、その瓶が事件に関係していないとは思えません。
副執事は自分が疑われるのを恐れて以前からあったものだと主張しているようですが、別に犯人がいるとわかれば本当のことを話してくれると思います。
それから、ラム酒の瓶のコルク栓です。
遺体が見つかったボイラー室には、着火剤として使い古しのコルク栓が貯められていたようですね。
その中に、犯人が隠したラム酒の銘柄の刻印があるコルク栓があるはずです。
コルク栓は千切った状態で保管されているとのことなので復元は大仕事ですが、挑戦する価値はあると思います。
前述の通り、ここ数か月、ラム酒の空き瓶は出ていないので、着火剤として使われて日々入れ替わっているはずのボイラー室のコルク栓の中にラム酒のものがあるのは妙ですから。
ただ、お気づきの通り、以上の瓶とコルク栓の件は、犯人が被害者が持っていたラム酒の瓶を隠蔽した——ひいては、隠蔽しなければならないだけの理由があったことを示す根拠にしかなりません。
何故最も疑わしいのがフットマンだと言えるのかは、もう一つの根拠が必要です。
それは、フットマンの部屋の水差しです。
キッチンの使用人の証言によれば、彼は熱で寝込んでいたものの自力でキッチンに水を汲みに来ることができていました。
妙なのは、当日彼が最後に水差しに水を汲んだのは午後3時台なのに、婚約者のハウスメイドが彼の様子を見に行った午後7時45分から午後8時の時点でも水差しいっぱいに水が残っていたことです。
熱で寝込んでいる人が5時間ほどの間、水をほとんど飲まずにいられるでしょうか。
それ以前には、二、三時間おきに水を補充していたのですから、少なくとも量が減っていないとおかしいと思います。
にもかかわらず、5時間後も水差しがいっぱいだったのは、被害者を殺害した後、現場に残されたラム酒の瓶の中身を水差しに注いで隠したからです。
中身がほぼ水のラム酒の瓶が遺体の側で見つかれば、全てが露見してしまうかもしれませんから。
もっと良い隠し場所を考える時間があれば良かったのでしょうが、午後7時半に婚約者が訪ねてくる予定だった彼にはそうするしかありませんでした。
あなたがフットマンの私室を保存してくださっているので、今も水差しは水で満ちているでしょう。
運が良ければまだ僅かにラム酒が検出されるかもしれませんし、ラム酒が検出されなかったとしても、事件発覚当時も水差しがいっぱいであったことは彼を疑う根拠になります。
以上の根拠を奥方にご説明すれば、きっとフットマンの指紋を採取することを認めてくださると思います。
あとは彼の指紋と犯行現場の床に残った犯人の指紋の照合するのみです。
しかし、フットマンと婚約していたハウスメイドにとっては、酷なことですね。
感情移入しすぎてはいけないと思いつつも、心が痛みます。
さて、これで「酔わないティプシーケーキ」の殺人事件は解決ですが、私はまだ手紙を書き続けねばなりません。
私が冒頭で「第一に、タウンハウスで発生した殺人事件のことです」と書いたのを覚えておいででしょうか。
つまり、続けて第二の事件の話もしなくてはなりません。
話は逸れますが、私は子供時代から「知りたがり」だったそうで、特に未婚の間は「レディたるもの余計なことを知りたがるものではない」と母によく窘められたものです。
その後、社交界デビューや成人、結婚を経ても、それを矯正することはできませんでした。
だからこそ、私はお酒をやめられなかったフットマンのことを理解してしまい、第一の殺人事件を解明できました。
それと同時に「知りたがり」の私は、例の連続銀行強盗事件のことも考えてしまっていたのです。
それが第二の事件です。
私にはどうもあなたがその事件を解決しかけているように見えます。
以下のことをお調べになってください。
第一に、殺人事件の当日、タウンハウスに滞在していたアメリカ人夫妻と、事件の少し前に臨時で雇われたキッチンメイドの身元についてです——彼らこそ三人組のアメリカ人の連続銀行強盗です。
キッチンメイドはヨークシャー訛りを話すので一見北部出身の英国人のようですが、彼女も実はアメリカ人でしょう。
「チップス」と聞いて迷わずアメリカ式のチップスを調理したのですから。
プロの犯罪者として訛りは偽装できても、食べ物に関する咄嗟の判断に隠しきれない習慣が現れてしまったのです。
第二に、前述の三人の持ち物についてです。
アメリカ人夫妻の衣装を調べると、銀行強盗の現場で目撃された服とよく似たものがあるかもしれません——既に処分している可能性の方が高いとは思いますが。
ただ、確実にお願いしたいのは、キッチンメイドが持っていた「イミテーションのルビーのブローチ」の所在を再度確かめることです。
彼女はそのブローチをもう持ってはいないでしょう。
そして、アメリカ人夫妻の妻が身に着けていた「本物のルビーのブローチ」の価値を鑑定してください。
本人は高級既製品と言っているそうですが、おそらくオーダーメイド品で、5,000ポンドほどの価値があるのではないでしょうか。
そのブローチの出どころを辿ると、ロンドン警視庁が求めているものが見つかるはずです。
私は、最初のあなたの手紙を読んだときから、殺人事件が起きたタウンハウスの奥方がアメリカから英国への船上で親しくなった三人家族のアメリカ人の話と針金で鍵を開けられるキッチンメイドの話がどうも気になっていました。
殺人事件には直接関係ないことは明らかなのに、つい知りたい気持ちを抑えきれず、色々考えを巡らせてしまいました。
そして、例のキッチンメイドがアメリカ式の「チップス」を迷わず調理したことを知った瞬間、一つの閃き——というより奇妙な考えを得ました。
例の三人組のアメリカ人の銀行強盗は、先月マンチェスターで三人の内二人が一時捕まったことで、バラバラになってしまいましたが、もし彼らが往路の船上で高貴なレディからロンドンのタウンハウスへの招待を受けていたとしたら、そこに集合するのではないかと考えたのです。
私自身、本当に荒唐無稽だと思いますが、そう仮定すると、全てが繋がってしまうのです。
まず、アメリカ人夫妻が同行していたはずの令嬢をロンドンには伴わなかった理由です。
本人たちが語る醜聞めいた話は嘘でしょう。
マンチェスターではぐれた彼らですが、「令嬢」は夫妻が船上で知り合った奥方のもとに立ち寄ることを見越して先にキッチンメイドとして潜り込んでいたから、夫妻は二人だけで現れたのです。
強盗たちがはぐれたのも先月、キッチンメイドが雇われたのも先月なのは、おそらく偶然ではありません。
次に、タウンハウスに到着して以来、夫妻が度々騒動を起こしていた理由です。
夫妻は仲間の女がそこにいることを信じていたと思いますが、どのような立場で潜り込んでいるかまではわかりませんでした。
特に女性使用人は一般的に裏方の仕事を担いますから、客人の立場で一人ひとりの姿を確認することもできません。
逆に、裏方であることにより主人一家とは顔を合わせる機会がないという意味では、一度「令嬢」として会ったことのある奥方に正体が露見する心配のない絶好の立場ではあるのですが。
いずれにしても、夫妻は仲間に対して、自分たちの存在をアピールするための行動をとる必要がありました。
ティプシーケーキに使うお酒の変更要望や急な「チップス」の注文もそうですが、特に「1階」と「地上階」の誤りについては、英国に着いたばかりならともかく、暫く滞在しているのに未だに取り違えるのは不自然です。
これらはやはり夫妻が仲間へのメッセージとして敢えて起こした騒ぎだと考えて良いでしょう。
最後に、キッチンメイドが「大きすぎるイミテーションのルビーのブローチ」を持っていた理由です。
それは、彼女が銀行強盗で奪った5,000ポンドを運びやすい宝石に換えたからです。
キッチンメイドが宝石を持っていたら盗みなどを疑われかねませんが、それがあまりに大きすぎるとイミテーションだと思われてかえって見逃されてしまうものです。
そして、あなたはキッチンメイドの所持品にその「大きすぎるイミテーションのルビーのブローチ」を見つけてから数日後に、それとよく似た「本物のルビーのブローチ」をアメリカ人の妻が身につけていたのを見ています。
それは、仲間の夫妻と合流できたことに気が付いたキッチンメイドが自分が持っていたブローチを夫妻に渡したから——つまり、二つのブローチは似ているのではなく、同じものなのだと思います。
現金5,000ポンドを持って出国することは難しいですが、高貴な家に客人として滞在した履歴もある夫人が大きな宝石を持って帰路の船に乗り込んでも見咎める人はいないでしょう。
というわけで、「知りたがり」の性質を変えられなかった私は、お酒への執着を変えられなかったフットマンの真相と、アメリカ式の習慣を変えられなかったキッチンメイドの正体を解き明かしてしまったようです。
変えられないことが良い方向に働くこともあれば、他人を傷つけたり、自分の身を滅ぼしたりすることもあるなんて不思議なものですね。
いずれにしても、あなたなら全てに上手く対処してくださるでしょう。
結婚を待ち望むフットマンも、出国を待ち望むアメリカ人たちも、安易に逃げようとは思わないはずですから、証拠を固める時間はあります。
もし追加のご質問がなければ、私からの助言は以上です。
また難事件の折にはご連絡ください。
精一杯の支援をお約束します。
探偵女男爵に許される範囲で。
かしこ
レディ・メラヴェル
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ご読了ありがとうございました。
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【参考文献】
久我真樹(2010)「英国メイドの世界」講談社
村上リコ(2014)『図説 英国貴族の令嬢』河出書房新社
村上リコ(2017)『図説 英国社交界ガイド』河出書房新社
川端有子(2019)『図説 ヴィクトリア朝の女性と暮らし—ワーキング・クラスの人びと』河出書房新社
下のリンクから「メラヴェル女男爵ミステリーシリーズ」の他の作品(長編中心です)もご覧いただけます。
シリーズ第4部の冒頭で本作「酔わないティプシーケーキの謎」事件について、ほんの少し言及されています。




