午前三時、親友が十三回目の出前を取りに行ったまま消えた
午前三時。
同居している親友が、十三回目のUber Eatsを取りに行ったまま、忽然と消えた。
警察に駆け込むと、彼女の記録はどこにもないと言われた。
母は、そんな名前の子は聞いたこともないと言った。
港区の高層マンションの監視カメラには、私の部屋に二人目の住人がいた痕跡すら映っていなかった。
両親は泣きながら、私を都立の精神医療センターへ連れていった。
SNSでは、私が狂ったのだと叩かれた。
それでも私は、五百万円の現金でマンション中の住人を雇い、あの失踪の夜を再現した。
エレベーターが急降下した瞬間――
背後から、彼女の悲鳴が聞こえた。
1 消えた親友
「バタン」
玄関のドアが閉まる音がした。
窓の外では風が唸っていた。
東京は梅雨の真っ只中だった。稲妻が夜空を切り裂き、港区の高層マンションのリビングを、一瞬だけ真昼のように白く染める。
直後。
「ゴロゴロッ!」
腹の底まで響くような雷鳴が落ちた。
「うわ、今の雷、大きすぎでしょ……ほんと無理」
私は胸元を押さえながら、震えた息を吐いた。
そのままスマホを手に取り、LINEで美月にメッセージを送ろうとした。
早く戻ってきて。
雷が怖い。
たったそれだけの文を打つつもりだった。
けれど、いくら探しても、美月とのトーク画面が見つからなかった。
「……あれ? 美月は?」
私は眉をひそめ、連絡先から直接電話をかけた。
数秒後、耳に届いたのは、感情のない女の機械音声だった。
『おかけになった電話番号は、現在使われておりません』
何度も番号を確認した。
間違っていない。
何度かけ直しても、同じ音声が流れるだけだった。
背中のあたりが、ぞわりと冷えた。
窓の外ではまだ雨が叩きつけている。
稲妻はどんどん近くなり、雷鳴は間隔を狭めていった。
私は怖がっている場合ではないと思い、スマホを握りしめて部屋を飛び出した。
港区の高層マンション。
深夜のエントランスは、静まり返っていた。
自動販売機の白い光だけが、やけに冷たく浮かんでいる。
私はエントランス横の宅配ロッカーへ駆け寄った。
「美月?」
返事はない。
デリバリー用の受け取りスペースには、誰もいなかった。
「……もう受け取って、部屋に戻った?」
私はすぐにエレベーターへ引き返した。
部屋のドアを開ける。
リビングに明かりはついていた。
でも、そこに美月はいない。
「美月?」
寝室も、洗面所も、バスルームも、彼女の部屋も。
どこにもいなかった。
胸の奥で、嫌な音がした。
私はもう一度、一階のエントランスへ降りた。
防災センターにいた年配の警備員に詰め寄る。
「あの、さっき女の子が外に出ませんでしたか? 黒いパーカーで、髪が長くて、Uber Eatsを取りに……」
警備員は首をかしげた。
「この三十分、エレベーターから出てきた方はおりませんよ」
「そんなはずないです!」
受付にいた女性スタッフが、困ったように眼鏡を押し上げた。
「佐倉様。契約上、佐倉様のお部屋はお一人でのご入居となっております。本日はご来客でしょうか?」
「は?」
私は思わず大理石のカウンターを叩いた。
「何言ってるんですか。美月は私と一緒に住んでるんです! 監視カメラを見せてください。今すぐ!」
警備員が慌てて間に入ってきた。
「佐倉様、落ち着いてください。監視カメラの確認には、警察からの照会が必要になります。個人情報の関係で、こちらだけでは……」
最後まで聞いていられなかった。
外はまだ土砂降りだった。
深夜の東京の道に、タクシーの影はない。
私は傘を放り出し、片方の靴も脱げたまま、雨の中を走った。
足元の水たまりを踏むたび、泥水が跳ねた。
それでも止まれなかった。
交番に飛び込んだ時、私は全身ずぶ濡れだった。
髪から雨水が滴り、片足は裸足のまま。
床に泥だらけの足跡が残っていく。
「通報します! 親友が失踪しました!」
当直の警察官が、ぎょっとした顔で私を見た。
「失踪者のお名前は?」
「望月美月です! 望月美月! 私は佐倉芙香です!」
「ご関係は?」
「大学の同級生で、卒業してからずっと一緒に住んでいます! 一時間前にUber Eatsを取りに行ったまま戻ってこないんです。マンションの受付は、そんな人はいないって……!」
隣にいた警察官が、眉をひそめて小声で言った。
「誘拐の可能性もあるか」
別の警察官が端末を操作し始める。
「失踪からどのくらいですか」
「一時間ちょっとです」
「通常、失踪届は二十四時間経ってから……」
「待ってください」
端末を見ていた警察官が、低い声で遮った。
彼は不審そうに私を見た。
「その望月美月さんですが、年齢は? 住所は? マイナンバーなど、わかる情報はありますか」
「二十四歳。東京都内の戸籍です。個人番号は、三……」
私は覚えている限りの情報を告げた。
警察官は素早くキーボードを叩いた。
しばらくして、彼は画面から顔を上げた。
その目が、妙に重かった。
「通報者である、あなたの身元確認もさせてください」
私は自分の個人情報を伝えた。
その後、なぜか私は椅子に座らされた。
親切な女性警察官が毛布を持ってきて、温かいお茶を出してくれた。
私は濡れた指でスマホを操作しようとした。
画面は真っ暗だった。
さっき水たまりに落としたせいで、壊れたらしい。
美月はもう部屋に戻っただろうか。
私がいないと気づいて、不安になっているだろうか。
そう思った時だった。
「芙香!」
聞き慣れた声に、私は振り返った。
「お父さん? お母さん?」
両親が、警察署の中にいた。
なぜ。
どうしてここにいるの。
父は警察官と何かを話し、母は泣きそうな顔で私に駆け寄った。
警察官は父と握手をし、深刻そうに言った。
「ご自宅で、よく様子を見てあげてください。こういうことは、早めに専門機関へ相談された方がいいです」
「どういう意味?」
私は立ち上がった。
毛布が足元に落ちた。
母が私の肩を抱いた。
「芙香。今日はもう帰ろう。東京で一人暮らしなんて、やっぱり無理だったのよ。実家に帰ろう」
「何言ってるの、お母さん」
私は動かなかった。
父が苛立った声を出した。
「こんな夜中に何を騒いでるんだ。望月美月って誰なんだ」
「大学の友達だよ! ルームメイトだよ! 卒業前、うちにも一週間泊まったじゃない! 覚えてないの!?」
私の声は、ほとんど叫びになっていた。
マンションの受付が知らないと言う。
警察が記録にないと言う。
そして両親まで、美月を知らないと言う。
どうして。
そんなこと、あるわけがない。
私は母の両腕を掴んだ。
「お母さんは覚えてるよね? 美月だよ。家事が私より上手で、お母さん、あの子を娘にしたいって笑ってたじゃない!」
母は私を抱きしめて泣いた。
警察官は深く息を吐き、端末の画面をこちらに向けた。
「佐倉さん。少なくとも、こちらで確認できる範囲では、望月美月という人物の記録は見つかりません」
それから私たちは、マンションの監視カメラを確認することになった。
防災センターの小さな部屋。
私は母に強く抱きしめられながら、モニターを見つめた。
画面の中に映っていたのは、私だけだった。
一人でエレベーターに乗り、一人で走り回り、一人で部屋に出入りしている私。
毎日の映像も、そうだった。
玄関を開けるのも閉めるのも、出ていくのも帰ってくるのも、いつだって私一人。
一年前の入居手続きの映像まで遡った。
受付カウンターにいたのは、私だけだった。
契約書にサインしているのも、私だけ。
美月はいない。
どこにも。
私は全身の力が抜けた。
視界が暗くなり、そのまま床に崩れ落ちた。
2 冷蔵庫のホワイトボード
「職業柄、長期間にわたり虚構の人物や物語に没入していたことで、現実と創作の境界が曖昧になった可能性があります」
都立精神医療センターの医師は、両親にそう説明した。
「統合失調症、もしくは強い妄想症状の疑いがあります」
私は大量の処方薬を持たされ、実家に連れ戻された。
それから母は、私のそばを片時も離れなくなった。
話す時も、触れる時も、まるで壊れ物を扱うみたいに慎重だった。
それが苦しかった。
修理に出していたスマホが戻ってきた。
写真フォルダには、美月との写真が一枚もなかった。
LINEのトーク履歴にも、彼女の名前はなかった。
通話履歴も、メッセージも、何もない。
私は思った。
きっと、誰かが消したんだ。
私が倒れている間に、全部きれいに消されたんだ。
「お母さん。東京の部屋に戻りたい。会社にも、ずっと休むって言えないし」
母は唇を噛んだ。
しばらく黙っていたが、最後にはうなずいた。
ただし、自分も一緒に行くと言った。
港区のマンションに戻り、玄関を開ける。
懐かしい空気が、胸に流れ込んできた。
リビングには、掃除途中のラグがそのまま残っていた。
コードレス掃除機も立てかけられたままだ。
洗面所には、歯ブラシもコップもタオルも、全部二組あった。
美月の部屋に入ると、出しっぱなしの服が窓際に置かれていた。
私は一枚を手に取り、自分の体に当ててみた。
ブランド物のSサイズ。
美月のサイズだ。
私には絶対に入らない。
精神を病んだ私が、わざわざ自分の着られない服を買うだろうか。
部屋を出ると、母がリビングを片づけていた。
彼女の手には、私の小説のプロットノートがあった。
母は数ページめくり、深いため息をついた。
そして、そのノートを雑物部屋の段ボールの中へ押し込んだ。
その日から、母は美月の部屋に鍵をかけた。
私を中に入れなかった。
私は抵抗しなかった。
毎日、母は私が薬を飲むところを見張った。
私は薬を舌の下に隠し、母が背を向けた瞬間、トイレに吐き出して流した。
私は病気じゃない。
自分が狂っているかどうかくらい、自分でわかる。
一か月ほど経った頃、母の会社から何度も電話がかかってきた。
緊急の仕事らしい。
私が薬を飲み、普通に過ごしているように見えたのだろう。
母はようやく実家へ戻った。
私は胸の中で、長い息を吐いた。
そして、予備の鍵で美月の部屋を開けた。
美月の部屋は、いつもきれいだった。
彼女は潔癖で、物の位置にうるさい。
だから私は、勝手に彼女の部屋をいじらなかった。
何もかもに、決まった場所があるから。
私は鏡台の前に立った。
化粧水。
美容液。
リップ。
ブラシ。
香水。
私はそれらを、わざと全部めちゃくちゃにした。
床に落とし、引き出しを開け、瓶の向きもバラバラにした。
「帰ってこないからだよ。困ればいいんだ」
情けない声でそうつぶやいて、私は自分の部屋に戻った。
泣き疲れて、そのまま眠った。
目が覚めると、朝だった。
母からビデオ通話がかかってきた。
薬を飲むところを見せてほしいと言う。
私は寝癖をかきながらリビングへ向かった。
「お母さん。昨日の夜、マンションに来た?」
「え? 行ってないわよ。お母さん、実家にいるもの」
私は急いで薬を飲むふりをして、通話を切った。
そして美月の部屋へ駆け込んだ。
血の気が、一瞬で引いた。
戻っていた。
すべてが、元通りになっていた。
化粧品も、ブラシも、香水も。
瓶の角度まで、寸分違わず。
私は息を呑んだ。
全身に鳥肌が立った。
狂ったように、もう一度すべてをめちゃくちゃにした。
それからドアを閉め、自分の寝室に鍵をかけた。
一日目。
二日目。
三日目。
一週間。
毎日、私が荒らした部屋は、朝になると元に戻っていた。
ある日、私は高級な南京錠を買った。
美月の部屋をぐちゃぐちゃにし、さらにいくつかの物をリビングや洗面所に持ち出した。
それからドアに南京錠をかけ、鍵を高層階のベランダから外へ投げ捨てた。
私は毛布にくるまり、自分の部屋の窓際で朝まで待った。
夜が明けた。
リビングと洗面所に置いた美月の物が、消えていた。
私は雑物部屋から金槌を取り出し、南京錠を叩き壊した。
「……嘘でしょ」
部屋の中は、また元通りだった。
持ち出した物まで、きちんと元の場所に戻っていた。
静まり返った部屋の中で、何かが私を笑っている気がした。
心臓が激しく脈打った。
顔から血の気が引いていく。
私は後ずさりし、椅子を倒した。
金槌を床に落とし、コートだけ羽織って部屋を飛び出した。
街角の心療内科の看板が目に入った。
私は扉を押し開けた。
「先生。統合失調症の人って、自分の意識がない間に、自分の習慣とまったく違うことをすることがありますか?」
医師は落ち着いた声で答えた。
「あります」
私は薬を処方してもらい、部屋に戻った。
そうか。
私は、やっぱりおかしいんだ。
本当に。
私は狂っていたんだ。
倒した椅子を起こし、そこに座った。
部屋には温かい飲み物一つなかった。
私は何をしているのだろう。
母にビデオ通話をかけると、向こうから忙しそうな音が聞こえた。
「どうしたの、芙香?」
「何でもない。薬を飲むところを見せるだけ」
私は薬を口に入れた。
水なしでは、なかなか飲み込めない。
「冷蔵庫に水があるでしょ。お母さん、今ちょっと忙しいの。芙香はいい子ね。あとでまた電話するから」
通話が切れた。
私は冷蔵庫の前に立った。
そこには、いくつものマグネットが貼ってあった。
アニメのキャラクター。
旅行先のお土産。
変な猫のイラスト。
全部、美月が買ったものだ。
その横には、薄いマグネット式のホワイトボードシートが貼られていた。
美月が買ってきたものだった。
軽小説作家の私の生活リズムはめちゃくちゃで、美月が出勤する頃に私が眠り、彼女が寝た頃に私が起きる。
だから、冷蔵庫にメモを残そうと、彼女が笑って貼ったのだ。
私は少し泣きそうになった。
私の一番大切な友達が、ただの第二人格だったなんて。
私、可哀想すぎる。
私はホワイトボード用のペンを取り、そこに書いた。
【美月、会いたい】
口の中で薬が溶け、苦味が広がった。
その瞬間。
違う。
違う。
おかしい。
マグネット。
私は振り返ってスマホを掴み、通販サイトの購入履歴を片っ端から開いた。
ない。
マグネットを買った履歴がない。
ホワイトボードシートを買った履歴もない。
一つも。
もし私の別人格が買ったのなら、どうしてカードの決済履歴がないの。
どうして配送履歴がないの。
私は美月が買ったはずの物を、一つひとつ確認した。
私じゃない。
私が買ったんじゃない。
私はトイレに駆け込み、薬を全部吐き出した。
顔を洗い、鏡の中の自分を見た。
私は狂っていない。
絶対に。
その夜、私は一睡もできなかった。
翌朝。
リビングへ行った私は、冷蔵庫の前で完全に固まった。
ホワイトボードに、一行だけ文字が増えていた。
荒々しい、見慣れた字。
【芙香このバカ、早く戻ってきなさいよおおお!!】
「きゃあああああああああ!」
私は悲鳴を上げて部屋を飛び出し、廊下でエレベーターの下行きボタンを何度も押した。
心臓が、壊れそうなほど暴れていた。
3 白板の向こう側
私は貯金を崩し、部屋中に小型カメラを取りつけた。
リビング。
キッチン。
寝室。
洗面所。
美月の部屋。
冷蔵庫の前。
すべての角度から、あのホワイトボードが映るようにした。
私は震える手で、ボードの文字を消した。
そして、新しく書いた。
【あなたは人間? 幽霊? 美月なの?】
書き終えると、怖くなって実家へ逃げ帰った。
本当に怖かった。
実家では、ベッドの下やソファの周りに物を詰め込んだ。
部屋全体が見渡せる隅に座り、背中を壁につけ、周りを荷物で囲んだ。
まるで、子どもが作った避難所みたいだった。
私はスマホを開き、マンションの監視カメラ映像を見続けた。
何も起きない。
何時間も瞬きできずに見つめた。
机の上の薬瓶が視界の端に入る。
もしかして、やっぱり私がやっているのだろうか。
外が暗くなり始めた。
眠気でまぶたが落ちかけた時、玄関から鍵の差し込まれる音がした。
私は一瞬で目を覚ました。
「お父さん?」
小さく呼ぶ。
「芙香、いるか? お父さん、牛タン買ってきたぞ」
ほっとして、私は周囲の荷物をどけた。
食卓に座り、キッチンに立つ父の背中を見た。
少し老けた。
背中が、小さく見える。
両親には、私しか子どもがいない。
その私が、統合失調症だなんて。
そう思った瞬間、涙がこぼれた。
私は手の甲で目元を拭った。
スマホも濡れた。
ティッシュで画面を拭き、もう一度監視映像を見た。
その瞬間、息が止まった。
画面の中で、ホワイトボードの文字が消えていく。
まるで、見えない手が少しずつ拭き取っているみたいに。
そして空白になったボードの上に、新しい文字が、一画ずつ浮かび上がった。
【幽霊はそっちでしょ!? 私は美月! 芙香、あんた今どこにいるの!?】
私は椅子を蹴るように立ち上がった。
父が運んできた皿が、床に落ちて割れた。
「おい、どうしたんだ」
「お父さん、私、帰る!」
「飯は? ちゃんと食べてないだろ!」
父の声を背に、私は玄関を飛び出した。
その日は雨ではなかった。
私はサンダルのまま、東京の夜を走った。
マンションに着くなり、すべての部屋の明かりをつけた。
ホワイトボードペンを握ったまま、冷蔵庫の前で立ち尽くす。
何を書けばいい。
相手が本当に美月だと、百パーセント確かめるには。
私は震える手で書いた。
【あの日の夜、何を注文した?】
時間が過ぎていく。
一分。
二分。
十分。
何も返ってこなかった。
私は立ち尽くしたまま、待った。
しばらくして、自嘲するように笑った。
やっぱり、私が病気なのかもしれない。
私は新しくもらった薬の瓶を開けた。
錠剤を手のひらに出す。
それを見つめたまま、私は歯を食いしばった。
そして薬を全部、ゴミ箱に投げ捨てた。
「ふざけんな。私はおかしくなんかない」
その瞬間。
ホワイトボードに文字が浮かんだ。
【激辛ラーメン! あんたがどうしても食べたいって騒いだやつでしょ! しかも辛さMAX! 私が取りに行って戻ったら、あんたが消えてたの! 一人で全部食べたら、次の日トイレから出られなくなったんだからね!!!】
その文を見た瞬間、涙が噴き出した。
私は泣きながら、急いでボードを消した。
涙で視界が滲んで、文字がよく見えない。
でも、少しでも遅れたら、美月が消えてしまう気がした。
【会いたかった。私、警察に行ったの。でも監視カメラにも映ってなくて、みんなに統合失調症だって言われた】
【私も警察に行った! そっちこそ、記録がないって言われたわよ! でも毎日帰ってくると部屋がめちゃくちゃになってて、絶対あんただと思った】
【私だよ、私! 今どこにいるの?】
【家】
【私も家】
その瞬間、背筋に冷たいものが走った。
窓の外は静かな夜だった。
冷や汗が背中を流れていく。
私は自分が立っている場所を見下ろし、書いた。
【冷蔵庫の前にいる?】
【それ以外どこにいると思ってるの? あんたの目の前?】
ペンが手から落ちた。
間違いない。
この毒舌。
この口調。
この字。
美月だ。
私はペンを拾った。
【今からホワイトボードを冷蔵庫から剥がす。そこを動かないで。剥がした後に書いた文字が見えるか試す】
しばらくして、ボードに短く返事が浮かんだ。
【うん】
私はマグネット式のホワイトボードシートを冷蔵庫から剥がし、床に座った。
【見える?】
【見える】
【そっちも剥がしてみて】
【剥がした】
【私にも見える】
つまり、私たちはこのホワイトボードを通じてつながっている。
同じ部屋にいるのに、違う空間にいる。
そういうことだ。
【あの日、部屋を出てから何があったか覚えてる?】
【普通よ。エレベーターで下に降りて、出前を受け取って戻ったら、芙香がいなかった。荷物は全部あった】
【私も同じ。そうじゃなくて、不自然なことはなかった?】
【思い出してみる。部屋を出た時、隣の女の人もちょうどゴミを出しに出てきた。暗くて、廊下の人感センサーのライトが壊れてたみたい。私、うっかりぶつかって謝った。エレベーターに乗った時は誰もいなかった。でも一階のボタンはもう押されてた。ロビーに着いたら、警備員のおじさんが声をかけてきた。戻る時のエレベーターには何人か乗ってた。三階で、小さい女の子がキックボードに乗って入ってきて、私の足にぶつかった。それから部屋に戻った。外は大雨で、ずっと雷が鳴ってた。ドアを開けたら、芙香がいなかった】
私は美月の書いたすべての言葉を、ノートに書き写した。
出発した時間。
通った場所。
会った人。
交わした言葉。
一つひとつ、線を引き、丸で囲み、何度も読み返した。
4 失踪の夜を再現する
それから私たちは、毎日ホワイトボードで連絡を取り合った。
私は図書館へ行き、ネットで似たような事例を探した。
都市伝説。
パラレルワールド。
異界駅。
エレベーター怪談。
雷による磁場異常。
何日も調べたが、日本国内に完全に一致する話は見つからなかった。
美月がボードに書いた。
【助けて。私の脳細胞が死滅してる。これ科学じゃない】
私は画面を高速でスクロールしていた時、ふと目を見開いた。
【見つけた!】
私は興奮して書いた。
【平行世界の接続点は、特定の物体や人物が、雷や磁場の異常みたいな条件をきっかけにして、空間のズレを起こすことで発生することがある。つまり、当時の状況と行動を完全に再現すれば、もう一度通路が開く可能性がある!】
すぐに、美月の荒い字が返ってきた。
【もっと簡単に書いて! こっちはペンのインクが少ないの! 断線したら詰むでしょ!】
【了解】
証拠は何もない。
それでも私たちは、試すしかなかった。
私は毎日、玄関ドアの前に張りついた。
隣の女性がゴミを出しに来るたび、飛び出してぶつかった。
数回目には、かなり怒られた。
それでも美月は戻ってこなかった。
次はエレベーター。
ドアが開くたび、一階のボタンが押されているか確認した。
何度も乗った。
何度も降りた。
結果は変わらない。
警備員のおじさんにも、毎日わざと挨拶をした。
三階の女の子の特徴も、美月に聞いた。
エレベーターに乗っていた人の立ち位置も、服装も、覚えている限り書いてもらった。
一人ずつ試した。
誰にぶつかっても、何を言っても、美月は戻ってこなかった。
【全部つなげたら?】
美月が書いた。
【今は一人ずつ接触してる。でも、あの日の流れを最初から最後まで、完全に再現したら?】
それしかない。
私はマンションの住人たちを一人ずつ訪ねた。
独立映画の撮影だと説明した。
心理実験を兼ねた短編映像で、少しだけ協力してほしいと頼んだ。
当然、ほとんど全員に断られた。
私は銀行で下ろした五百万円の現金を、白い封筒に小分けした。
隣の女性。
警備員のおじさん。
三階の母娘。
あの日エレベーターにいた住人たち。
全員を説得し、メッセージグループに招待した。
グループ名は、勢いで「平行時空」にした。
私は本当に台本を書いた。
それぞれの立ち位置。
セリフ。
タイミング。
動く速度。
エレベーターでの視線。
すべて細かく指定した。
何度もやった。
しかし毎回、最後に部屋のドアを開けると、リビングは空だった。
美月はいない。
私はそのたびに、期待を殺された。
最後には、絶望してグループを解散した。
【まだ何か見落としてる】
私はボードに書いた。
【雷雨?】
美月が返す。
私は彼女が書いた当時の流れを、もう一度読み返した。
そして、ある言葉で手が止まった。
【待って。警備員のおじさんは、なんて声をかけたの?】
【思い出す。雷がうるさかったから曖昧だけど……“こんな雨の中、一人で二つも食べるの?”って言われた】
一人。
二つ。
私は勢いよく立ち上がった。
【つまり、美月。警備員に会った時点で、あなたはもう向こう側に移ってた。あっちの警備員には、あなたが一人に見えてたんだ】
【!!!】
【もっと前に戻って。ほかに誰か、何か言ってなかった?】
【部屋を出た時、隣の人にぶつかった。私が“出前を取りに行く”って言ったら、その人、“芙香ちゃんとまたこんな時間に夜食?”って言ってた】
【わかった! 部屋を出た時点では、まだこっちにいた!】
【じゃあ、ズレたのは廊下? それともエレベーター?】
【両方試す】
天気予報を確認すると、翌日の夜、東京には強い雷雨の予報が出ていた。
私は解散したグループを、もう一度立ち上げた。
追加の謝礼も払った。
「前回の撮影はとてもよかったです。ただ、出資者から会話を増やしてほしいと言われました。今回はセリフつきでお願いします」
私はソファに座り、夜になるのを待った。
夕方、空が暗くなった。
黒い雲が港区の高層ビル群を覆っていく。
私は窓の外を見て、目を輝かせた。
「降って。もっと降って」
やがて雨が叩きつけるように降り始めた。
稲妻が走る。
雷鳴が、空から落ちてくる。
私はグループにメッセージを送った。
【皆さん、準備できましたか】
その時、スマホが鳴った。
Uber Eatsの配達通知だった。
『ご注文の商品を指定場所へお届けしました。お早めにお受け取りください』
私はドアノブに手をかけた。
窓の外は雷雨。
鼓動がうるさい。
深く息を吸って、ドアを開けた。
ちょうど隣の女性が、ゴミ袋を持って出てきた。
私は彼女にぶつかった。
「あ、ごめんなさい」
「大丈夫大丈夫。こんな時間にどこ行くの?」
「出前を取りに」
「芙香ちゃんたち、またこんな時間に夜食?」
私は笑って、それ以上は何も言わなかった。
廊下は真っ暗だった。
人感センサーのライトは、台本通り壊れている。
私はエレベーターの前に立ち、下行きボタンを押した。
「チン」
ドアが開く。
一階のボタンが、すでに点灯していた。
本当に。
全部同じだ。
私は震える足でエレベーターに乗った。
心臓が喉までせり上がっていた。
一階に着き、同じ宅配ロッカーへ向かう。
同じ場所。
同じ棚。
同じ夜食。
私は袋を持って戻った。
警備員のおじさんの前を通った瞬間、雷鳴が轟いた。
彼は台本通り、笑って言った。
「こんな雨の中、一人で二つも食べるんですか?」
私は叫びそうになった。
ぴったりだ。
完全に合っている。
戻りのエレベーターには、雇った住人たちが、美月の記憶通りの位置に立っていた。
三階でドアが開く。
小さな女の子がキックボードで入ってきて、私の足にぶつかった。
私は美月の歩く速度を思い出しながら、部屋へ向かった。
一秒もずれないように。
「カチャ」
ドアを開ける。
明るいリビング。
半分だけ掃除されたラグ。
立てかけられた掃除機。
すべて、あの日と同じ。
「美月?」
私は呼んだ。
「美月!」
寝室。
洗面所。
バスルーム。
美月の部屋。
どこにもいない。
私は夜食の袋を開けた。
美月が食べていた姿を思い出しながら、一人で二人分の激辛ラーメンを食べた。
胃が焼けるみたいだった。
そのあとトイレに座って、腹痛を待った。
待っているうちに、私は膝を抱えて泣いた。
「美月。もう戻ってこられないの?」
部屋中に、私の嗚咽だけが響いた。
ホワイトボードに、美月の震えた文字が浮かんだ。
【失敗した?】
【芙香。私も何度もドアを開け閉めしたけど、あんたはいなかった】
5 最後の手がかり
私は、完全に諦めた。
平行世界が本当でも、嘘でも。
あるいは、その全部が私の重い妄想で、もう一人の私がやっていることでも。
もう、受け入れようと思った。
私の異常な行動は、両親の目にも入っていた。
マンションを走り回り、住人を集め、台本を渡し、失踪の夜を何度も再現する私。
それでも両親は、怒鳴らなかった。
泣きながら言った。
「大丈夫。お父さんもお母さんも、芙香の言うことを信じるから」
その言葉が痛かった。
両親のこめかみに、白髪が増えていた。
もう、これ以上苦しめたくなかった。
「お母さん。実家に帰る。入院する」
母は驚いた顔をした。
そして、すぐに泣きそうな笑顔になった。
「そう。そうね。帰ろう、芙香。実家に帰ろう」
私は何も片づけなかった。
持っていったのは、ホワイトボードだけだった。
実家に戻った私は、薬を拒まなくなった。
薬のせいで、眠る時間が長くなった。
夢の中に美月はいなかった。
それでも目が覚めると、ホワイトボードには文字が増えていた。
でも私はもう、それを書いているのが美月なのか、自分自身なのか、わからなくなっていた。
小説も書かなくなった。
毎日の現実そのものを、疑うようになっていた。
両親は病院と話をつけた。
明日、私は入院することになった。
荷物をまとめる途中、母は私のホワイトボードを見た。
それを丸め、ゴミ箱へ投げ捨てた。
私は握っていたホワイトボード用のペンだけを、こっそりポケットに入れた。
翌日。
マンションの管理会社から電話があった。
私が解約した部屋に、新しい入居希望者がいるという。
残っている荷物をどうするか、確認の連絡だった。
母は電話口で言った。
「使えるものはそのまま置いてください。不要なら全部処分して構いません」
私は母の袖を掴んだ。
「お母さん。最後に、もう一度だけ見に行きたい」
母は迷った。
それでも電話の相手に言った。
「すみません。今から一度、そちらへ伺います」
車の窓の外を、東京の街が流れていく。
この道を、私は何度も走った。
泣きながら。
裸足で。
雨の中で。
マンションに住んだのは、たった一年少しだった。
けれど、私にとっては、美月と暮らした全部だった。
部屋に入ると、私は自分の荷物を段ボールに詰めた。
美月の部屋を開ける。
相変わらず、きれいだった。
埃一つない。
母は私をリビングへ押した。
「ここはお母さんが片づけるから、芙香は少し座っていなさい」
私はうなずいた。
そしてリビングのラグの上に、大の字になって寝転がった。
母が美月の物を片づける音がする。
手伝わなきゃ。
そう思ったのに、体が動かなかった。
私はふと、雑物部屋のドアを見た。
そこへ入ると、中は埃っぽかった。
何度か咳き込む。
一番下の段ボールの中に、見覚えのあるノートがあった。
「……え?」
私の小説のプロットノートだった。
表紙についた埃を払う。
私は床に座り込み、ページをめくった。
かつて東京で夢を追っていた頃の、自分の心血だった。
最後のプロットまでめくった時、指が止まった。
タイトルは、四文字。
『平行時空』
「……この話」
私はページを読み進めた。
『架空の現代。平行時空をめぐる救出劇』
『主人公の女性二人は、長年の親友で、同じ部屋に暮らしている』
私は部屋を見上げた。
『ある日、女二は夜食を取りに行ったまま、女一の世界から消える』
手が震えた。
『二人には、互いしか知らない秘密の連絡場所がある。その壁だけが、二つの世界をつなぐ唯一の手段となる』
秘密の連絡場所。
ホワイトボード。
『平行時空へ移動した者の痕跡は、元いた世界から自動的に消える』
だから。
だから、私しか美月を覚えていなかった。
でも、どうして私だけが?
私は結末のページをめくった。
そこは本来、空白だったはずだった。
なのに、最後に一行だけ、文字が増えていた。
私の字ではない。
美月の、大雑把で勢いのある字だった。
【雷雨の夜、腕時計を見る。秒針が夜十時ちょうどに近づく。違う空間にいる二人が、同じエレベーターの中で、同時に一階のボタンを押す。――おかえり、私の相棒】
違う。
これは、私が書いたんじゃない。
美月が書いたんだ。
『私、出前取ってくる。戻ったら、新作の結末一緒に考えよ』
その声が、頭の中で弾けた。
あの日、部屋を出る前に、美月が最後に言った言葉だ。
そうだ。
プロットの結末は、彼女が書いてくれた。
私が見えない場所で。
私はノートを握りしめ、部屋を飛び出した。
ホワイトボードが必要だ。
最後。
もう一度だけ。
これが本当に最後でいい。
私は実家へ戻るなり、玄関を開けた。
父が驚いて立ち上がる。
「芙香? お母さんは?」
私は答えず、ゴミ箱へ飛びついた。
「ゴミは? お父さん、ゴミはどこ?」
「捨てたけど」
私はポケットの中のペンを握り、階下のゴミ置き場へ走った。
ゴミ袋の山の前で、年配の女性が資源ごみを分けていた。
私は彼女の腕を掴んだ。
「すみません! 丸めたホワイトボードを見ませんでしたか? 白いシートみたいなものです!」
私の形相に驚いたのか、彼女は慌てて首を振った。
「知らないよ。そんなもの、見てないよ」
私は説明する時間も惜しく、ゴミ袋をかき分けた。
悪臭が鼻を突く。
それでも手を止めなかった。
「……あった」
私は白いシートを掴んだ。
「見つけた! あった! あったよ!」
年配の女性は、私から距離を取りながらつぶやいた。
「怖いねえ……」
父が追いついてきた。
私の手からホワイトボードを奪い取る。
「芙香! もうやめなさい!」
その声は怒っていた。
でも、目は泣いていた。
私は父の袖を掴んだ。
「お父さん。最後なの。本当に最後。これで失敗したら、ちゃんと入院する。お願い」
父は歯を食いしばった。
怒りも、悲しみも、涙も。
全部を押し殺した顔だった。
しばらくして、彼は顔を背けた。
そして目を閉じ、ホワイトボードを私の胸に押し返した。
「ありがとう、お父さん」
私はそれを抱きしめ、振り返らずに走った。
父の顔を見たら、勇気が消えてしまいそうだった。
6 夜十時のエレベーター
空から雨が落ち始めた。
最初は小さな粒だった。
やがて、それは激しい雨に変わった。
頬に当たる雨粒が痛い。
マンションに戻ると、母が私を見て固まった。
全身ずぶ濡れで、ホワイトボードを抱いた私。
その姿を見た瞬間、母は私の頬を叩いた。
乾いた音が、玄関に響いた。
「佐倉芙香! あなた、いつまでこんなことを続けるの! お父さんもお母さんも、あなたの言うことを全部聞いてきたじゃない! それでもまだ足りないの!」
母は震える手でスマホを取り出し、病院へ電話をかけた。
住所を伝えている。
私はホワイトボードを抱えたまま、雑物部屋へ逃げ込んだ。
内側から鍵をかける。
濡れたボードを、脱いだ上着で何度も拭いた。
ペンを握る。
インクはもう、ほとんど残っていなかった。
それでも書いた。
【美月、いる!?】
返事はない。
外では、母がドアを叩いていた。
廊下からは複数の足音が聞こえる。
病院のスタッフ。
マンションの管理会社の人間。
たぶん、鍵を開けに来たのだ。
私はドアに背中を押しつけ、叫んだ。
「お母さん! あと五分だけ! これで失敗したら、ちゃんと行く! 病院に行くから!」
スマホを見る。
二十一時三十分。
あと三十分。
外の物音が大きくなった。
ドアをこじ開けようとしている。
美月からの返事は、まだない。
私は最後の力で、ホワイトボードに書いた。
【十時ちょうど、エレベーターで一階を押して! 夜十時!】
そこで、ペンがかすれた。
もう書けない。
完全にインクが切れた。
私は時間を見た。
二十一時五十五分。
私は深く息を吸った。
そして、雑物部屋のドアを開けて飛び出した。
玄関に立てかけてあった箒を掴み、部屋のドアノブに引っかけて固定する。
さらに鍵を差し込み、力任せにねじった。
鍵が折れた。
これで外からすぐには開けられない。
私はエレベーターへ向かって走った。
表示は上行き。
二十一時五十六分。
私は何度も後ろを振り返りながら、下行きボタンを連打した。
二十一時五十七分。
「チン」
エレベーターのドアが開いた。
同時に、廊下の奥で玄関が破られる音がした。
管理会社の人と病院スタッフが飛び出してくる。
私は身を滑らせるようにエレベーターへ入った。
二十一時五十八分。
彼らの叫び声が近づいてくる。
私は開くボタンを押したまま、ドアを閉めさせなかった。
時間だけを見つめる。
二十一時五十九分。
母のヒールの音が聞こえた。
雷鳴と混ざり、私の心臓を一歩ずつ踏みつけるみたいだった。
二十二時ちょうど。
私は開くボタンから手を離し、一階のボタンを強く押した。
閉まりかけるドアの隙間。
母と目が合った。
痛みと絶望でいっぱいの目だった。
【美月。お願い。見ていて】
【お願い。今、あなたの世界でも、このエレベーターに乗っていて】
【今度こそ、失敗しないで】
私はインクの切れたペンを握ったまま、うつむいた。
そして強く目を閉じた。
エレベーターの照明が、明滅した。
床が揺れる。
金属の箱全体が、激しく軋み始めた。
私は手すりを掴んだ。
目は開けない。
次の瞬間、強い浮遊感に襲われた。
エレベーターが、底のない穴へ落ちていくように急降下する。
私は床に叩きつけられた。
どれくらい経ったのかわからない。
エレベーターは突然、止まった。
照明も戻った。
頭の中に浮かぶのは、父と母の顔だった。
部屋のドアを開けるたび、空っぽだったあのリビング。
何度も失敗した記憶。
また失敗したの?
その時。
「チン」
機械音声が流れた。
『下行きです。一階に到着しました』
7 おかえり、私の相棒
エレベーターのドアが、ゆっくり開いた。
ロビーには、人が集まっていた。
ざわめき。
足音。
誰かが駆け寄ってくる。
「中の方々、大丈夫ですか!?」
方々?
私は目を開けた。
エレベーターの前に、住人たちが集まっていた。
「今、エレベーターが急停止しましたよね。怪我はありませんか? 救急車を呼びますか?」
方々。
その言葉が、頭の中で何度も響いた。
私はゆっくり振り返った。
そこにいた。
泥だらけで、髪もぐしゃぐしゃで、同じように床に座り込んでいる女の子。
腕の中には、私と同じホワイトボード。
目を大きく見開いた顔が、滑稽で、泣きたくなるほど懐かしかった。
望月美月。
私は彼女を指さした。
声が出ない。
ただ涙だけが、ぼろぼろ落ちた。
先に口を開いたのは、美月だった。
声はかすれていた。
「私、マジで……」
言葉が詰まる。
「いや、あんたマジで……」
また詰まる。
そして彼女は、弱々しく聞いた。
「……私がそっちに来たの? それとも、あんたがこっちに来たの?」
「うわあああああああああ!」
私は美月に飛びついた。
今まで積み重なっていたものが、一気に壊れた。
恐怖。
孤独。
誰にも信じてもらえなかった苦しさ。
両親を傷つけた罪悪感。
自分を疑い続けた絶望。
全部が涙になってあふれ出した。
私はエレベーターの中で、美月を抱きしめて号泣した。
ロビーにいる住人たちの視線なんて、どうでもよかった。
しゃくり上げながら、私は叫んだ。
「私……ひっ……私、おかしくなかった……! 統合失調症なんかじゃなかった……!」
その夜、港区の高層マンションから、複数の通報が入ったらしい。
『エレベーターの故障で若い女性二人が閉じ込められたみたいです』
『急停止のあと、二人が中で抱き合って泣いています』
『頭を打ったのかもしれません』
ほどなくして、私たちは救急車のサイレンとともに病院へ運ばれた。
もちろん、手はつないだままだった。
「先生、娘は大丈夫なんですか!」
カーテンの向こうから、父の声が聞こえた。
私はそっと医療用カーテンを開けた。
「お父さん……お母さん……?」
叱られる覚悟はしていた。
けれど父は、飛び込むように私の前へ来て、私の額を指で弾いた。
目は赤かった。
「このバカ娘! どうせ夜中に腹が減って、美月ちゃんを巻き込んで夜食を取りに行ったんだろう! エレベーターに閉じ込められて病院に運ばれたなんて、心臓が止まるかと思ったぞ!」
ああ。
戻ったんだ。
私は父と母を見つめ、へらへら笑った。
「よかった」
父は私の額に手を当てた。
「おい、本当に頭を打ったんじゃないか」
母は父をにらんだあと、美月の方へ向かった。
声が、急に優しくなる。
「美月ちゃん、怖かったでしょう。どこか痛いところはない? 気持ち悪くない?」
私は目をむいた。
「お母さん! 私が実の娘なんだけど!」
母は平然と言った。
「美月ちゃんの方が、あなたよりずっとしっかりしてるもの。前からうちの娘にしたいと思っていたのよ」
私は呆然とした。
でも、その声を聞いて、胸の奥の石がようやく落ちた。
両親が美月を知っている。
美月が、ここにいる。
それだけで、世界はちゃんと戻ったのだと思えた。
数日後。
港区のマンション。
リビングのテーブルに、美月が激辛ラーメンを置いた。
「はい。あんたが食べなさい」
私は全力で首を振った。
「無理。トラウマ。食べたらまた美月が神隠しに遭いそう」
美月は少し考え、真顔でうなずいた。
「それはわかる」
私たちは同時に笑った。
私はふと思い出し、美月に聞いた。
「プロットノートの最後の一行、本当に美月が書いたの?」
「そうよ。あの日、戻ってきたら芙香がいなかったから、外に出たのかと思って。あんたが帰ってくる前に私が寝ちゃうかもしれないから、ふざけて書いておいたの」
「助かったよ。あれがなかったら、私は本当に一生、精神科病棟にいたかもしれない」
思い出しただけで背筋が冷えた。
「でもさ。あの日、どうやってホワイトボードの文字に気づいたの?」
美月は無印のクッションを掴み、私の頭へ投げつけた。
「大姐……じゃなくて、芙香さん? あんたが書いたら、こっちにも見えたの! でも私のペンはインクが切れかけてて、なかなか書けなかったの! それで、あんたが次に書くのを三時間以上待ってたんだからね!」
「つまり、最初に私を罵倒しすぎて、インクを使い切ったってこと?」
美月はもう一つクッションを投げてきた。
私たちは、声を上げて笑った。
あれから時々、私たちは思う。
あの日の出来事は、もしかすると本当に、故障したエレベーターの中で見た悪い夢だったのかもしれない。
長い長い悪夢。
そして今、ようやく目が覚めたのかもしれない。
けれど、冷蔵庫には今も、二枚のホワイトボードシートが並んで貼られている。
一枚は私のもの。
もう一枚は美月のもの。
それを見るたび、私たちは思い出す。
あの雷雨の夜。
夜十時のエレベーター。
世界中が彼女を忘れても、私だけは彼女を探し続けたこと。
そして、彼女もまた、私を待ち続けてくれたこと。
あるいは。
今ここにあるこの世界こそが、私たちにとって一番都合のいい、もう一つの夢なのかもしれない。




