第2章
ちさとの勤務している日は、水曜、金曜と日曜日の三日間で、その内の水曜日は午後から学校へ行かなければならず、お昼にバイトを終える。
分類できていない本や、返品交換の為の本が積み上げてある事務所で飲食するのは気が引けるので、外で食べることに決めてある。食事を近くで済ませるか学校で済ませるかは、その日の都合で決める事にしていた。
ちさとは食べ物には殆ど好き嫌いがなかった。ただ、どちらかと言えば肉よりは魚の方が好みで、サラダよりは火を通した野菜の方が好きだった。
だから外食と言っても、喫茶店や色彩も鮮やかな看板の外国から来たフランチャイズ方式チェーン店などは選ばない。そういう場所に友人と出かけることはあっても、最小限の食べ物か、飲み物だけで過ごした。
その日、孝はやって来なかった。
最寄りの駅から学校までへ行くまでには乗り換えをしなければならなかったが、学校のバスは朝と夕方にしか出ないため、市バスに乗るとしたら30分は余裕がある。書店の裏通りにあるかなり古びた佇まいの蕎麦屋で、ざるそばを食べようと決めた。
何となく前日から胃が重くて、軽いものが食べたかったのだ。もしかしたら、昨夜のカレーの所為かも知れない。何がいけないのか分からないけれど、たくさん香辛料の入った料理を食べると、時折こういう事があった。
既に十分の経験があるとは思うのだけれど、相変わらず、ちさとは独りの食事が苦手だった。単行本を読みながら目を伏せて、注文の品が届くのを待つ。
午後1時を過ぎていた所為か、幸い店内は混んでいなかった。カウンターを避け、二人用の席の片側に腰掛けていると、後ろから声がした。
「すみません。ここに座らせて頂いてもよろしいですか?」
その声には聞き覚えがあった。はっとして顔を上げたちさとの目に飛び込んで来たのは、孝の眼鏡越しの穏やかな眼差しだ。
ちさとは体中の血が逆流するかのように、自分が赤面して行くのが分かった。
(恥ずかしい。でも、どうしてなんだろう。他にも席はたくさんあるのに......。)
ちさとは、戸惑いや羞恥など、おさめる場所の場所のわからない感情の置き場に困った。それでも、ようやく「はい」と返事をして視線のやり場を探し、そのまま元通り本の上に落としてしまった。
「さっき、書店で見かけないと思ったら、お食事中だったのですね」
「水曜日は、午後から学校へ行くのでお昼までなのです」
「そうでしたか。しかし意外ですね。他にもたくさん食事をするところがあるのに、ここにいらっしゃるなんて」
こんな風に話しかけてもらえるとは思っていなかったため、更に戸惑った。けれども、これ以上本と向き合っているのは失礼だと思うと、ようやく顔を上げることが出来た。
(何と返事をしようかしら......)
きっと、その間は長くはなくて数秒間だったろうと思う。それでも胸の鼓動が激しいのと、答えを見つけるのに混乱していて、返事を長く待たせてしまっているような焦りを感じていた。
「私は、お蕎麦が好きなのです」
やっと、それだけを言った。
孝は頷き、自分のことを話した。
「僕もです。なので毎週ここで食事をしているのですが、いつもなら、もう少し早い時間に入るのです。するとかなり混んでいるお陰で大抵は相席を頼まなければならず、いつも焦って食事をしているのですよ」
「そうですか」
「ええ。今日は混んでいないのだけれど、あなたを見かけたので結局相席をお願いしてしまいました」
孝は、そう言いながら微笑んだ。
ちさとは「そうですか」と微笑み頷きながらも目を合わせることが出来ず、孝の白いシャツを眩しく見つめていた。
(どういう意味に受け取ったらいいのかしら?)
孝の言った言葉の意味が、ちさとと一緒に座りたかったというようにも聞こえる。でも、それはただ、一人で食事をするのが好きではないだけで、ちさとだから一緒に座りたいと思ったわけではないのかもしれない。
ちさとは臆病なので、出来るだけ傷つかないよう、何事も先回りをして考えてしまう。
だが今は孝の視線を感じる。彼も必要以上には世慣れた雰囲気の人でないけれど、それでも、ちさとよりはずっと年上で、経験のある大人だということは分かっていた。
「僕の名前、憶えて下さっていますか?」
「はい、石守孝さん、でした」
「では、あなたのお名前を伺ってもよろしいですか?」
「あ、はい。申し遅れました。
副島ちさと、といいます」
ちさとは、どう書くのか、文字を説明した。
「ちさとさん、ひらがなですか。素敵なお名前ですね」
「そうですか。ありがとうございます。
でも、今時ひらがななんて珍しいですよね」
「うん、珍しいのはそうですが、読みやすくて呼びやすい。
昔、女性の名前には、ひらがなが多く使われていましたよね。
それは憶えやすく可愛がってもらえるようにという、親心で付けたと聞いたことがあります。
あて字や読みの難しい漢字の名前よりは、ずっと素敵だと思いますよ」
「ありがとうございます」
「それで、ちさとさんは、ここへはよく来られるのですか?」
「いいえ、そういう訳ではありません。バイト先の近所で食事をするか、学食で済ませるかは、電車の時間を見てから決めているのです」
「なるほど。僕は水曜日の午前中に仕事があって、この辺りを通るのです」
「そうだったのですか」
ちさとはこういう時、自分の内気な性格が恨めしかった。もっと気の利いたことが言えるといいのにと思う。子どもなら人見知りと呼ぶのだろうけれど、ちさとの年齢にはもう当てはまらない。
先にちさとの注文したざるそばがやって来た。
ちさとが孝のお蕎麦が届くのを待とうとしていると、孝は「お先にどうぞ」と言う。
でも、ちさとは自分の食べるところを見られるのが恥ずかしかったので、食べ始めることなどできないと思った。
そこで迷いながらも、小さな声で言ってみることにした。
「あの、すみません。待たせて下さい。」
「あ、そうか。これは気がつかなかった。僕が見ていると恥ずかしいですよね。」
ちさとは孝が自分の気持ちに気付いてくれたことに対して少し驚き、それがとても嬉しかった。こんな風に理解をしてくれる男性は少ないのではないかと思う。
「いいえ、そうではなくて、一緒に食べたいのです。」
ちさとは、咄嗟に自分の口から出て来た言葉に救われた。
それは、相手に負担を掛けたくないと思う気持ちから出て来た台詞だった。
ちさとは母の言葉使いが、そのまま自分にも伝わっているのだということに気が付いた。
両親を失った痛みは和らいではいたけれど、忘れられるものではない。
不意を衝かれるように、突然やって来ては目や鼻の奥が痛くなることもしばしばだった、
その時も、懐かしい母の面影が思い出され胸が塞いだ。はっと顔をあげた時には、孝が心配そうに自分を見つめていた。
「ありがとう。じゃあ、お待たせしますが一緒に食べましょう。」
「はい」と小さく返事をした時、孝の目が柔和に自分を見つめるのを見ると、ちさとは、ほっとした。
例えば兄がいたなら、こんな感じだったのだろうかと、ふと思う。
ちさとはこれまでに幾度か恋をしたことがあった。けれど何れも長い間ではない。
好きな人が出来ても、遠くから憧れるだけで打ち明けることなどできなかったし、そうしている内に卒業や転校などで距離が出来てしまった。
向こうから付き合いを申し出て来る男性もあったけれど、いつも突然だったので、心の準備が出来ていないことを理由に断るのが精いっぱいだった。
大学に入学してからは、高校生の時とは違って学生同士の関係に男女間の壁みたいなものがなくなったような印象がある。制服から私服に変わった所為だけではなくて、以前よりは男子と話すのが楽になったような気がするのだ。
一つには、ちさとの大人しく引っ込み思案な性格をからかうような男子がかなり減って、普通に話しかけて来てくれるようになった所為だろう。
それは彼らが大人になったということもあるかもしれないし、ちさとの方でも受験を乗り越えたことで自信が出来たのかもしれなかった。
それでも大人の男性と話をするのは少し事情が違った。
意識し始めると、本当に体まで硬くなり、所作がぎこちなくなってしまう。
それに、食事を一緒にするというのは特別なことのように思えた。
これまで親戚や学校やアルバイトの関係の人たちと一緒に食事をすることはあったけれど、コンパというのは苦手で出かけたことがなかったし、男性と向かい合って二人きりというのはちさとにとって初めての経験だ。
ようやく孝の注文した山かけそばが運ばれて来た。
「じゃあ、いただきましょうか」と孝が告げたのに、ちさとは「はい」と一言だけ答え、一緒に箸を持った。
麺類を食べる時、汁を飛ばさないように気を付けると、どうしても少し前かがみの姿勢になってしまう。ちさとは、そんなことにもドキドキしながら箸を動かしていた。