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第1章

出来るだけ、繊細で優しい恋愛小説に出来るといいと思っています。


 朝だった。

分厚い遮光カーテンの間から、眩しいほどの光が差し込んでいる。昨夜休む前に、自然に目覚めるようにと考えて、わざと20cmほどを開けておいたものだ。

特別な朝には完璧な準備が必要だった。お陰でちさとは、モーニングコールが鳴る前にすっきりと目を覚ました。


― 今日、私は結婚する。


 その思いが、ちさとの全身にエネルギーを注ぎ込んだ。

夫となる人の名前を胸の中で繰り返してみる。TAKASHIという名の音の響きに胸が高鳴り、息苦しい様な気持になった。

今日から私は、あの人の妻となるのだ。不安なこともない訳ではなかったけれど、少しだけ期待がそれを上回っている。


 今から僅か二年前のことだった。

 両親を交通事故で一度に亡くしてからのちさとの人生は一変した。

 思い返せば親孝行の一つも出来ないまま、両親には散々甘え何不自由のない生活をさせてもらいながらも、我が儘ばかりを言って来た。けれどもう、それを言える相手はいなかった。

 世間の風が冷たいとは、こういう意味だったのかと思えるような出来事もいくつかあった。大学に入り、たとえ一人暮らしを始めても、所詮は両親の作った囲いの中でずっと守られていたのだ。そんな事が身にしみて感じられた。

 あの時、もっと優しい言葉を掛ければ良かったとか、ちゃんと話を聞いていれば良かったというような、そんな思い出の一つ一つが、時折後悔となってちさとの心を苛み、今も苦しい思いをしている。それを思えば、夫となる男性を信頼して暮らせる今日からの未来を歓迎すべきで、些細な不安などは遠ざけるのが幸せへの近道ではないかと思う。

 夫となる孝は再婚だ。先の奥さんは病気で亡くなったと聞いていた。もしも、ちさとの両親が健在なら、もしかすると反対をされたかもしれないとは思うけれど、既に亡くなっている今は何もかもを自分で考えて判断しなければならなかった。

ちさとは、孝の手のぬくもりと眼差しの温かさを信じて行こうと決めたのだ。


 ちさとが高校を卒業するまで両親と暮らしていた郊外の家は、一人残された若い娘が手入れをするには広過ぎて手入れが大変だと言われ、これまで親しくもなかった親戚が整理を手伝いに来て売却された。手元には現金が残されたけれど、いろいろ教えてくれる人もあって、今となっては、それが妥当なものだったかどうかさえ分からない。でも、そんなことは大きな問題ではない。

 両親を亡くした後は、世界が真っ暗になってしまったような悲しみに包まれて、一歩ずつ歩くのが精いっぱいな日々を過ごした。

 二十歳のちさとが卒業するまでの費用は、両親の遺産で充分に賄える状況だったので、噂や親切ごかしに見える囁きによって湧いて来る余計な考えを払い除けるようにしながら、既に暮らしていたアパートで学生生活を続けた。お金は出来るだけ大切に残し、自分で働きながら生きて行こうと思った。

 それに一人でじっとしていると、一人になった頼りなさと悲しみに押し潰されてしまいそうな気がした。

 幸運だったのは、市中に暮らしていたためアルバイトが見つけやすいことで、ちさとは週に三日だけ大きな書店で雇われた。

春休みから始めたアルバイトは、新しい図書を分類して棚に収めるのが主な仕事で、ちさとは洋書のコーナーに配属された。

 洋書という呼び方はかなり乱暴で、ここには欧州からの船便で様々な言語の本が一度に入荷されて来る。

 しっかり見なければ、イタリア語とスペイン語の分類を間違えるなどの失敗をするので、ちさとは慎重に仕分けをしていた。


 新学期が始まったばかりのある日、ちさとがフランス語の新書を棚に納めようと梯子に登り、著者の名前を見比べながら一生懸命にその場所を探していると、後ろからふいに声を掛けられた。


「あの、その本ですが......」

「え...?}


 ちょっとドキッとして振り返ると、白いコットンシャツに薄茶色のブレザーを重ねて着た細身の男性が立っていた。


「僕が注文した本だと思うのですが、違いますか?」


 眼鏡が顔全体にシャープな印象を与えていて、頭の良い、でも少し冷たい感じのする男性だった。


「あの、すみません。少々お待ちいただけますか? 調べて来ますので」


 ちさとは、慌てて答えると梯子を下り、コンピューターのあるところまで小走りに移動した。本の分類にばかり気を取られて、オーダーされた本かどうかを確認するのを忘れていたのだ。

 コンピューターにあるデータを確認しようと、フォームに名前を入れようとしたところで、もうひとつの間違いに気が付いた。男性に名前を尋ねるのを忘れていたのだ。

相手が何となく気難しそうな男性に見えただけに、ちさとは自分の失敗が恨めしく思われた。

 小さく溜息を吐きながら、男性の元へ戻ろうと思って顔を上げると、男性がこちらへやって来ているのが見えた。


「僕の名前を言い忘れました」

「あ、いえ、すみません」


 ちさとは訳のわからない返事をしていると自分でも思いながら、男性の小さなミスを引き取ってくれた優しさに驚いていた。


「石守孝と言います。」

「あ、はい。」


 急いで名前を打ち込むと、確かに孝の注文した本である事が判明した。


「あの...、仰る通りです。売り場に出そうとしてしまって、申し訳ありませんでした。」

ちさとは、ちゃんと謝らなければと思い、急いで言った。

「いいえ、あなたが手に持っていて下さったお陰で、探す事なく手にする事が出来たので良かったですよ。では、その本を頂けますか?」

「はい、かしこまりました。こちらへどうぞ。」


 ちさとは、代金の清算を受け付けるのは自分の役割ではないので、レジ係りのところまで本を持って孝を案内した。孝は、微笑みながら、ちさとにお礼を言った。

ちさとも慌ててお礼を丁寧に言い、その場を離れた。


 孝の眼鏡の奥では目が小さく見える。一見気難しそうに見えるのに、笑うと柔和で優しさのにじみ出るような瞳の持ち主だと思った。何だか自分だけの秘密を発見した時の子供のような素直な喜びと、異性を相手に感じるドキドキする気持ちが入り混じり、ちさとの心は乱れた。


 孝は決まって水曜日に書店へやって来た。

(何をしている人なのだろう。)


 気にはなるけれど尋ねる訳にも行かず、それどころか話しかけることさえできないちさとは、ただ遠くから眺めていた。それでも孝の方は、ちさとを見かけると必ず微笑み挨拶をしてくれた。そんな時、ちさとは赤面しながらも嬉しくて自然に口元がほころんだ。

いつの間にか、ちさとは孝を意識するようになり、水曜日には鏡を見る回数が増えていた。

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