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短編小説

転生すれば誰でも英雄になれるこの時代に、私はあなたの隣を選ぶ。

作者: おでこ
掲載日:2026/02/23

本作は、全十章で構成された異世界恋愛短編小説です。


一気に読んでいただいても、お気に入りの場面で一度閉じて続きを楽しんでいただいても、どちらも大歓迎です。どうか、ご自分のペースでゆっくりお付き合いください。(*‘ω‘ *)/


      一  「焔の英雄」



 戦場では、迷わない。


 それだけが、篠原結衣(しのはらゆい)の唯一の才能だった。


 敵の陣形を見た瞬間に崩し方がわかる。魔力の流れを読めば、次の攻撃がどこから来るかわかる。味方が危険にさらされる前に動ける。転生してから一年と少し、結衣はその才能だけを頼りに「焔の英雄ユイ」として戦い続けた。


 今日の戦場は、王都から東に三日の平原だった。


「ユイさん、左翼が崩れます!」


 後方から仲間の声が飛んでくる。見ると、騎士団の左翼に魔王軍の重装部隊が押し寄せていた。このまま放置すれば五分で突破される。結衣はすでに杖を構えていた。


「下がって」


 一言だけ言って、魔法を放った。


 大地を這うように広がった紅蓮の炎が、魔王軍の重装部隊を包んだ。爆発ではなく、じわじわと燃え上がる持続型の結界魔法。敵は前に進めず、後退するしかない。三十秒で左翼の危機は去った。


「さすが焔の英雄!」「ユイ様!」


 歓声が上がる。結衣はすでに次の状況を見ていた。右翼の魔導師が魔力切れを起こしそうだった。


 戦いが終わると、いつもと同じ風景が始まる。兵士たちに囲まれて、村人から花を受け取って、将軍に握手を求められる。子供が近づいてきて「英雄様、かっこよかった!」と言う。悪い気はしない。でも、それだけだった。


 夜、宿の窓から星を見ながら、結衣は前世のことを思った。


 二十八歳。彼氏なし。友人のインスタは結婚報告とマタニティフォトに埋め尽くされていた。「結衣ちゃんはいつ結婚するの?」と聞かれるたびに「そのうちね」と笑って誤魔化した。誰かを本気で好きになった記憶が、ぼんやりとしている。好きだったのかよくわからない人が二人いて、どちらとも中途半端に終わった。


 転生してから、恋愛のことはほとんど考えなかった。英雄の仕事が忙しかったし、それ以上に「この世界の誰かを好きになる」という感覚が、自分には遠い話だと思っていた。


 翌朝、また戦場へ向かった。



──────────────────────────



      二  エルバ村の夕食



 エルバ村との出会いは、偶然だった。


 魔王軍の一小隊が農村を急襲したという報告が届いたとき、結衣がちょうど近くにいた。単独で急行し、二十分で制圧した。村に入ると、崩れた柵、泣いている子供、茫然と立っている大人たちがいた。


 結衣は無言で回復魔法の準備を始めた。すると横から、桶と布切れが差し出された。


「……使えるか」


 振り返ると、男が一人立っていた。


 二十代後半だろうか。背が高く、日に焼けた肌をしていた。整った顔立ちだったが、それより先に目に入ったのは、その目の色だった。怯えていない。かといって、英雄を前にして緊張しているわけでもない。ただ、今やるべきことを見ている目だった。


「ありがとう」と結衣は言った。「助かる」


「英雄様、でしたよね」


「様はいらない。ユイで」


 男はすこし戸惑ったように、それでも頷いた。「……レインです」


 作業を続けながら、結衣はちらちらとレインを観察した。彼は黙々と動いていた。怪我をした老人の側で膝をついて傷の状態を確認し、泣いている子供の頭をぽんぽんと叩いて落ち着かせ、重い木材を動かして瓦礫の下敷きになった荷物を助け出す。誰かに頼まれているわけではない。声を上げるでもなく、ただ淡々と、必要なことをしていた。


 手当てがひと段落すると、日が傾いていた。


「飯、食ってくか」とレインが言った。「腹減ってるだろ」


 豪華でも何でもない夕食だった。煮込んだ根野菜と固めのパン、それから村でとれたという蜂蜜。でも、その食卓が一年ぶりに「食事」という気がした。老婆に話しかけられて、子供に懐かれて、村人たちに混ざって笑った。英雄として歓待されているのではなく、ただそこにいる人間として扱われていた。


 食事の途中、向かいに座った老人がレインに言った。「今日も助かったよ。先月の収穫も、去年の雨の日も、お前がいなかったらどうなってたか」


 レインは首を横に振った。「俺より困ってる人がいれば動くだけです。大したことじゃない」


「大したことだよ」と老人は言った。「みんな同じことができるわけじゃないんだから」


 レインは照れたように目を逸らした。


 結衣はその横顔を見ながら、なんとなく思った。前世でこんな人、いたかな。


 答えはすぐに出た。いなかった。


 こういう人間を、漫画の中で見たことがあった。ドラマの主人公として、憧れとして、「現実にはいないけれどこんな人がいたら」という仮定として、ずっと頭のどこかに存在していた。損得で動かない人。弱い人に手を差し伸べることを「大したことじゃない」と思える人。見ていなくても同じことをする人。


 でも前世の日本では、そういう人間は、たぶん絶滅していた。


 夜が深まって、村人たちが家に戻り始めた。レインが結衣の宿まで送ると言った。断る理由がなかったので、並んで歩いた。


「あなたは、村を出ようとは思わないの」と結衣は聞いた。「王都に行けば、もっとできることがあるんじゃないか、って」


「思ったことはある」とレインは言った。「でも、ここが好きなんです。ここの人たちが好きで、この畑が好きで、この景色が好きで。それで十分な気がして」


「……そういうもの?」


「わからないけど、俺はそうです」


 宿の前で別れ際、レインは言った。


「気をつけて。英雄でも、怪我はするだろうから」


 英雄への敬意でも、感謝でもなかった。ただの、人間への言葉だった。


 結衣は部屋に戻ってから、しばらく窓の外を見ていた。



──────────────────────────



      三  絶滅危惧種



 次にエルバ村を訪れたのは、三週間後だった。


 近くを通る用事があったから、という言い訳は半分本当で、半分嘘だった。


 レインは畑にいた。結衣の姿を見て目を丸くして、それから「また来たのか」と言った。歓迎でも拒絶でもなく、ただの事実として。


「近くを通ったから」


「そうか。昼は食ったか」


「まだ」


「じゃあ食え」


 それだけだった。


 その後、結衣はエルバ村に立ち寄る回数が増えた。気づけば月に二度になり、三度になっていた。仕事の合間を縫って、理由をつけて、足が向かっていた。


 訪れるたびに、レインのことが少しずつわかった。


 彼は村で一番早起きだった。誰よりも先に起きて、独り暮らしの老人たちの様子を確認してから自分の畑に入る。それを毎朝やっていた。頼まれたわけではなく、ただそうしていた。


 ある日、村の子供が川で溺れかけた。誰より早くレインが飛び込んだ。引き上げてから、震えている子供に「大丈夫か」と確認して、親のところまで連れていった。それだけだった。英雄的な行為として誇ることもなく、次の瞬間には畑仕事に戻っていた。


 別の日、隣村から来た行商人が荷車の車輪を壊した。レインは夕方まで作業を手伝い、夜は泊まっていけと言った。行商人は何度も礼を言い、お金を渡そうとした。レインは受け取らなかった。


「なんで受け取らないの」と結衣はあとで聞いた。


「困ったときはお互い様だから」とレインは言った。「もらう理由がない」


「でも時間を使ったじゃない」


「時間は、使い道がある方がいい」


 結衣はその答えを、しばらく反芻した。


 前世の日本では、こういう人間が「良い人」として語られるとき、たいてい「でもそういう人に限って損をする」という言葉がついてきた。善意は搾取される。優しさは弱さだと思われる。だから人は少しずつ、損をしない程度に動くようになる。


 レインはそういう計算をしていないように見えた。していないのか、それとも計算した上で気にしていないのか、結衣にはわからなかった。でも、どちらにしても、彼は前世で結衣がほんやりと夢見ていた「そういう人間」そのものだった。


 惚れてしまうのは、仕方がなかった。


 自分でも気づくのが遅かった。ある夜、次の任務の準備をしながら、ふとエルバ村の夕暮れを思った。畑の端で並んで座って、遠くの山を見ていた時間。レインが話す言葉の少なさと、沈黙の心地よさ。それを思ったとき、自分の頬が少し熱いことに気づいた。


 あ、と思った。


 これは、まずい。



──────────────────────────



      四  英雄の未来



 王都に戻ると、宰相から呼ばれた。


 執務室に通されると、カナと壮馬もいた。三人が揃うと、宰相は少し改まった顔で言った。


「魔王との最終決戦の日取りが、決まりました」


 部屋が静まり返った。


「二ヶ月後、魔王城へ向かいます。三名の英雄が揃った今、これ以上好機はない。そして——」宰相は少し間を置いた。「決戦の後、お三方には国の要職をお願いしたいと考えています。ユイ殿には魔法省の長官を。この国の魔法体系を、根本から作り直していただきたい」


 カナが目を輝かせた。「それ、私も関わっていいですか!」


「もちろん。カナ殿には魔導研究院の院長を想定しています。壮馬殿は騎士団長として、国防を担っていただければ」


 壮馬は静かに頷いた。「理解した」


 結衣は窓の外を見ていた。


 魔法省長官。この国で、魔法に関する最高の地位。転生者にとって、英雄としての最高到達点。誰がどう見ても、最適解だった。前世では「そこそこ」の営業職だった女が、転生したら国の要となる。それは、すごいことだった。


 でも。


 長官になったら、エルバ村には行けない。


 その考えが頭に浮かんだ瞬間、結衣は自分が何を惜しんでいるかを、はっきり知った。


「……わかりました」と結衣は言った。「ありがとうございます」


 宰相は満足そうに笑った。カナと壮馬は細かい話を始めた。結衣は返事をしながら、ずっと窓の外を見ていた。



──────────────────────────



      五  葛藤



 最終決戦まで二ヶ月。


 結衣は迷い続けた。


 夜、天井を見ながら考えた。英雄の道を選べば、何が得られるか。地位。名声。この国の魔法を変える力。転生者として、これ以上ない人生。カナは生き生きとしているし、壮馬は迷いがない。二人を見ていると、英雄の道こそが「正解」であることが体に染みてくる。


 それは本当のことだと思う。間違っていない。


 でも、反対側には何があるか。


 農村の夕暮れ。固いパンと蜂蜜の夕食。子供たちの声と、老人の笑い。そして、口数が少なくて、でも必要なことだけを正確に言う男の横顔。


 ある日の訓練の後、カナに言われた。「ユイ、最近どこかぼーっとしてない?」


「そんなことない」


「絶対ある。心ここにあらずって感じ。誰か、できた?」


 結衣は少し間があいた。


「……なんで、そう思うの」


「やっぱり! 誰? この国の人?」


「違う。農村の人」


 カナは一瞬止まって、それから真剣な顔になった。「農村の人か。……ユイ、聞いていい?」


「どうぞ」


「長官の話、迷ってる?」


 正確だった。誤魔化しても無駄だと思って、結衣は「……そう」と言った。


 カナは少しの間、黙った。それから、はっきりと言った。「私はユイに長官になってほしい。本気でそう思ってる。あなたのSランクの魔法適性を、戦場だけで終わらせるのはもったいない。この国の魔法体系を変えられる人間が、そうそういると思う?」


「……わかってる」


「本当に、わかってる?」とカナは言った。「それだけ、その農村の人のことが……」


 結衣は答えなかった。答えられなかった。


 カナはしばらく結衣を見ていた。それから溜め息をついて、静かに言った。「……私はユイに長官になってほしい。それは変わらない。でも、あなたが何を選ぶかは、あなたにしか決められないことだから」


 それだけ言って、カナは話を打ち切った。


 別の日、壮馬に話した。壮馬は腕を組んで、少しの間考えた。それから言った。「長官を断るつもりか」


「……迷ってる」


「迷う理由がわからん」と壮馬は言った。言葉は硬かった。「お前の魔法の力は、村一つのためにある力じゃない。国全体に使えば、どれだけの人間が救われるか、お前が一番わかってるだろ」


「わかってる」


「わかってて迷うなら、よほどのことがあるんだろうが」壮馬は結衣をまっすぐ見た。


 結衣は黙った。


「……お前が決めることだ」と壮馬は最後に言った。「俺には何も言えん。ただ、後悔するなよ」


 どちらの後悔を指しているのか、壮馬は言わなかった。


 結衣は翌日、エルバ村へ向かった。



──────────────────────────



      六  レインの話



 レインは川の側にいた。釣りをしていた。


 隣に座ると、何も言わずに少し場所を空けてくれた。しばらく二人で川を見ていた。


「最終決戦が、二ヶ月後に決まった」と結衣は言った。


「そうか」


「終わったら、国の要職に就くことになる」


「……すごいな」とレインは言った。嫌みではなく、ただの感想として。「英雄が、国を動かす立場になるのか」


「みんな、そうなる。カナも壮馬さんも。私も」


「そうか」


 しばらく沈黙した。川が流れていた。


「……俺に、何か言ってほしいのか」とレインが言った。


 結衣は少し驚いて、レインを見た。レインは川を見たままだった。


「おめでとう、でも言えばいいのか。それとも、別のことを?」


「別のこと」と結衣は言った。自分でも驚くくらい、すぐに答えが出た。


「何を」


「……私が、ここに来るのを。嫌だと思ったことは、ある?」


 レインはすこし考えた。「ない」


「なんで」


「来てくれたら嬉しいから」と彼は言った。ごく当たり前のことを言うように。「嫌な理由がない」


「長官になったら、来られなくなる」


「……そう」


 レインは川から目を離して、結衣を見た。まっすぐな目だった。誤魔化しも含みも、何もない目だった。


「ユイが決めることだから、俺には何も言えない」と彼は言った。「でも、来てくれた方が、嬉しい。それは、本当のことだ」


 結衣は少しの間、その言葉を持ったままでいた。


 前世で、誰かに「あなたがいてくれた方が嬉しい」と言ってもらったことが、あったか考えた。ない、とは言わないけれど、こんなふうに、余計なものが何もついていない形で言われたことは、なかった気がした。条件も、期待も、比較も、何もなく、ただ「嬉しい」だけ言える人間が、前世にはいなかった。


 胸の中で、何かが揺れた。


 言葉にしたかった。でも、言葉にしてしまったら、もう迷えなくなる気がした。長官の話がある。カナと壮馬の言葉がある。この国を変えられる力が、自分にはある。それを全部わかった上で、それでもここにいたいと言ってしまったら——それは、戻れない場所に踏み出すことだった。


 結衣は何も言わなかった。


 レインも急かさなかった。ただ、川を見ていた。


 二人の間に沈黙が続いた。川が流れ、鳥が鳴き、風が草を揺らした。


 やがて結衣は立ち上がった。「……帰る」


「そうか」


「また、来てもいい?」


 レインは少しだけ間を置いた。それから、「来てくれた方が、嬉しい」と言った。さっきと同じ言葉を、もう一度。


 結衣はそれを背中で聞きながら、村を出た。


 答えはまだ出していなかった。でも、自分が何を惜しんでいるかは、もうわかっていた。



──────────────────────────



      七  選択



 最終決戦の前夜。


 結衣は宰相のところへ行った。


「……お話があります」


 宰相は顔を上げた。結衣の表情を見て、何かを察したように、少し目を細めた。


「聞きましょう」


「魔王との戦いには、参加します」と結衣は言った。「でも——長官は、受けられない」


 宰相はしばらく沈黙した。「……理由を、聞いてもいいですか」


「私の人生を、生きたいと思います」


 それだけだった。言葉にすると、単純だった。英雄の役割を果たした上で、英雄として生きるかどうかは、別の話だと気づいていた。召喚されたことへの責任は果たす。でも、その先の人生を誰かの期待に預けることは、もうしない。


 宰相は長い間、考えていた。「……惜しい」とやがて言った。「それだけは、言わせてください」


「ありがとうございます」


 部屋を出ると、カナと壮馬が廊下で待っていた。二人とも、何となく察していたようだった。


「決めたのね」とカナが言った。


「うん」


 カナは少しの間、結衣を見た。それから、ぎゅっと抱きしめた。「幸せになって」


「あなたもね」


 壮馬は何も言わなかった。ただ、結衣の肩を一度叩いた。それで十分だった。



──────────────────────────



      八  決戦



 魔王城は、想像よりずっと静かだった。


 三人で突入し、幾重もの防衛を突破した。カナが結界を張り、壮馬が道を切り開き、結衣が魔法で道を作った。長い戦いだった。でも三人の息は合っていた。一年以上、背中を預け合ってきた仲間だった。


 最奥に辿り着いたとき、魔王は静かに言った。


「……英雄が、三人か」


 決戦は苛烈だった。魔王の力は本物で、何度も押し返され、カナの回復魔法が限界に近づき、壮馬が足を傷めた。それでも三人は動き続けた。


 最後の一撃は、結衣が放った。


 「紅蓮陣」が魔王城の最奥で炸裂し、長い戦いが終わった。


 瓦礫の中で、三人はしばらく倒れたように座っていた。


「……終わったな」と壮馬が言った。


「終わった」とカナが言って、泣いた。


 結衣は天井に空いた穴から空を見た。明け方の、薄い青色だった。


 やり切った、と思った。逃げなかった。ここまでは、果たした。


 そして、もう決めていた。



──────────────────────────



      九  帰る場所



 エルバ村への道を、結衣は急がなかった。


 英雄の勲章を、王都に置いてきた。二つ名を返す手続きは、宰相が驚いた顔でしてくれた。魔法省長官の話は、正式に辞退した。「焔の英雄」という肩書きを、すべて置いてきた。


 残ったのは、篠原結衣という、一人の人間だけだった。


 村に着くと、夕暮れだった。畑の向こうにレインがいた。


 近づくと、彼は振り返って、少し目を細めた。驚いた顔でも、喜んだ顔でも、まだなかった。ただ、来たことを確認するような目だった。


「終わったのか」と彼は言った。


「終わった」


「怪我は」


「少しある。大したことない」


「……そうか」


 レインはしばらく結衣を見ていた。それから畑仕事の手を止めて、ゆっくりと歩いてきた。結衣の前で立ち止まって、少しの間、何かを決めるように黙っていた。


 それから、口を開いた。


「……一つだけ、言っていいか」


「どうぞ」


 レインは結衣の目を見た。逸らさなかった。いつもと同じ、まっすぐな目だった。


「お前のことが、好きだ」


 静かな声だった。飾りも、勢いも、ためらいもなかった。ただ、本当のことを言う声だった。


「川の側で話した日から、ずっと思ってた。でも、お前には選ぶことがあった。俺には何も言う権利がなかった。……だから今、言う」


 夕鳥が鳴いた。


 結衣はしばらく、その言葉を持ったままでいた。


 前世で、誰かにこんなふうに好きだと言われたことが、あったか考えた。でも、こんなに静かで、余計なものが何もついていない形で言われたことは、なかった。見返りも、条件も、不安も混じっていない。ただ「好きだ」だけがある言葉を、もらったことがなかった。


「……私も」と結衣は言った。


 声が少し震えた。


「川の側で、言えなかった。言ったら戻れなくなると思って。でも——戻らなくていいと、決めてきた」


 レインは何も言わなかった。ただ、腕を開いた。


 理由を聞かなかった。説明を求めなかった。ただ、来た、ということだけを、丸ごと受け取るように。


 結衣は、その胸に飛び込んだ。


 長い沈黙があった。


「おかえり」とレインが言った。


 結衣は生まれて初めて、帰る場所を持った気がした。前世でも、この世界でも、英雄として称えられた場所でも、一度も感じなかったことだった。



──────────────────────────



      十  エピローグ



 英雄の記録には、こう残った。


「三人目の英雄ユイは、魔王討伐後、称号を返上し、農村に姿を消した」


 歴史家は「異質な英雄」と評した。賢者は「最高の機会を棄てた女」と言った。子供たちは英雄譚の中でユイを「一番不思議な英雄」と覚えた。


 カナからの手紙が、季節ごとに届くようになった。魔導研究院の仕事が楽しいこと、壮馬が意外と書類仕事が苦手なこと、王都の市場に新しい店が増えたこと。手紙の最後にはいつも「幸せにしてる?」と書いてあった。


 結衣はいつも「してる」と書いて返した。


 エルバ村での日々は、静かだった。


 魔法を使って農作業の効率を上げ、子供たちに読み書きを教え、薬草の知識で村の医療を助けた。英雄だった頃にできたことより、格段に小さい。世界を変える力があって、今日の仕事は種の選別と子供の算数だった。


 それが、良かった。


 夕暮れ時、畑の端に二人で座ると、レインが遠くの山を見ながら言った。


「……後悔してないか」


「してない」と結衣は言った。即答だった。


「本当に?」


「本当に」


 レインはしばらく山を見ていた。それから少し照れたように、「そうか」と言った。


「あなたは?」と結衣は聞いた。「私がここにいることを」


「後悔するわけないだろ」と彼は言った。「毎日、朝から気分がいい」


 結衣は笑った。


 前世で夢に見た人間が、この世界にいた。信じられなかったけれど、本物だった。損得で動かない人。弱い人を助けることを当然とする人。誰も見ていないときも、誰かに褒められなくても、同じことをする人。前世の日本では絶滅していた種類の、その人が、この夕暮れの隣にいた。


 英雄になれる力があった。世界を救うことができた。カナも壮馬さんも、きっとこの世界でもっとすごいことをしていく。それは本当のことで、二人はそれに値する人間だと思う。正解は、あっちにあったのかもしれない。


 でも、正解の人生と、自分の人生は、同じじゃないと、今の結衣は知っている。


 夕日が畑を金色に染めていた。


 結衣は心の中で、静かに言った。



 転生すれば誰でも英雄になれるこの時代に——


 私は、あなたの隣を選ぶ。


                      

最後まで読んでくださり、本当にありがとうございました。

結衣の選択に、最後まで付き合っていただけたこと、嬉しく思います。


英雄になれる力があって、最高の未来が用意されていて、仲間も「そっちに行け」と言っている。

それでも「正解の人生」より「自分の人生」を選ぶ瞬間の、あの一歩を一番大切に書きました。( ..)φ


「結衣の選択に共感した」と少しでも思っていただけたなら、評価やコメントで教えていただけると励みになります。次の作品を書く力になります。


次回作でもまたお会いできることを楽しみにしています!

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