第十八話 古書物
月ノ輪童子は懐かしそうに受け取った盃を眺めてほほ笑んだ。
「ありがとう」
短い感謝の言葉に深い思いが込められている。
月ノ輪童子の横に酒瓶が置かれている。飲み始める前にと、無粋と知りつつ折笠は声をかけた。
「先に、塵塚怪王を紹介したい」
「む? あぁ、そこの女妖怪か。何故連れているのかと思っておったが」
一応、話を聞く気はあるらしい。
陰陽師の屋敷にいたことなどを話すと、月ノ輪童子は同情的な視線を塵塚怪王に送った。
「何とも数奇な。解放祝いに酒に付き合うか? あの家の陰陽師共のことはずっと監視しておったから、酒の肴に話もできよう。ほれ、やんちゃ坊主の晴正のこととかな」
「晴正ですか。九十年ちょっと前に死んだとは聞きますが」
「あの家の陰陽師は軒並み大っ嫌いじゃが、あのやんちゃ坊主の死に様だけは認めとる。なかなかに格好いい最期であった」
「興味があります」
「一献付き合え」
縁側に塵塚怪王を誘う月ノ輪童子は、お前たちはどうすると折笠たちに視線を向ける。
折笠は陰陽師の屋敷から持ち出した書物を指さした。
「あの資料を見ないといけないんだ。また今度な。どちらにしても酒は飲めないけど」
「高天原参りを知るのが目的じゃったな。何かあれば声をかけるがよい。協力しよう」
※
屋敷から持ってきた書物から得られる情報は多かった。
江戸の末期には陰陽師としてそれなりに知られていた家柄だけあって、鎌倉時代からの文書が残っていた。
文書によれば、高天原参りの成功者は二人だけではないらしい。戦国時代に一回、江戸時代に一回あるが、鎌倉時代にも成功者がいたとの記述がある。
戦国時代の成功者の記録はほぼ残っていない。乱世だけあって陰陽師の間でも連絡が盛んではなかったらしく、どこの大名、武将の配下にいる半妖が戦ったらしいとのあやふやな記述ばかりだ。
しかし、戦国時代も末期になると、記述の雰囲気が変わる。
「陰陽師は勝った……」
筆圧も強い太字で書かれたその一文。天下分け目の戦い、関ヶ原での合戦が終わった頃に書かれたらしいそのただ一文は、書き手の情緒不安定さを表す崩れた文字だった。
折笠が読み上げたその一文を見て、黒蝶が無慈悲に言い放つ。
「負けたんだね」
崩れた文字は明らかに、陰陽師の負けを表している。口ほどにモノを言う、そんな文字だ。
勝ったと記したその心情を読み解こうと、折笠は書物から得られた情報を整理する。
「戦国時代、各大名や寺なんかの勢力が半妖を子飼いにして高天原参りに参加させていた」
神々に願いを叶えてもらえるのだ。天下統一だろうが所領安堵だろうが、叶えてもらえる可能性がある。
只人は半妖や妖怪の戦いに参加できない。半妖の人口割合にもよるが、将兵の頭数で負けていても半妖や妖怪の数や質、能力で負けていなければ――勝ちの目がある。
戦国時代の高天原参りはまさに激戦だったと想像できる。
歴史上に記される大名たちの綱引きの裏で、半妖や妖怪の勢力がしのぎを削り、関ヶ原の戦いの後、一つの勢力が潰された。
常陸大掾氏、対い蝶紋を家紋とする戦国大名、その配下にあった半妖勢力、対い蝶の郎党。
迷い蝶を筆頭とするこの勢力は東北における高天原参りの一大勢力だった。
だが、大掾氏が豊臣秀吉の小田原征伐に参加しなかったために、人の世で大掾氏は勢力を削り取られる。小田原征伐に参加した佐竹氏に滅ぼされるのだ。
小田原征伐の後、大掾氏は滅ぼされてしまう。
対い蝶の郎党は主家たる大掾氏が滅んだあともそのままだったが、関ヶ原合戦で日本の覇者が決まる。
大勢が決まったとみて、東北の陰陽師たちが介入した。
――大掾氏配下、対い蝶の郎党を潰すべきである、と。
東北における覇者となっていた対い蝶の郎党はそのまま高天原参りを成功させかねなかった。対い蝶の願い次第では、天下分け目の戦いが無意味なものとなる。
九州や四国にも同程度の勢力を持つ半妖や妖怪の集団があった。それらを牽制する目的もあり、対い蝶の郎党は滅ぼされる。
大掾氏に連なり、迷い蝶の半妖だった蝶姫の処刑をもって……。
「……っ」
折笠は思わず書物を閉じた。
強烈な嫌悪感とそれすら塗りつぶす憎悪、殺意が折笠の胸中をずたずたに引き裂いていく。
痛いほどの息苦しさに、折笠は胸を押さえ、隣の黒蝶を見た。
黒蝶は閉じられた書物を見つめている。
昏い瞳に、悔悟の念を宿して。
「折笠君もここに書かれたことに向きあわないといけないんだと思う。私たちが感じているこの気持ちも痛みも、書かれている歴史に由来しているんだから」
「分かってる。ただ、気持ちを整理する時間は欲しい」
もう、夢を夢だと片付けられない。
あの夢はきっと、前世の記憶だ。もはや実感を伴ってそうとしか思えない。
最後に見た夢では、陰陽師の家を襲撃し、女子供も含めて皆殺しにしていた。そこまでする動機がこの書物に記されている。
だが、この書物に書かれていることが事実だとすれば――狸妖怪が半妖の男に問うた「高天原参りはどうする?」への返答は矛盾している。
別の勢力が、戦国時代の高天原参りの成功者となったのか?
――違う。
断じて、違うと折笠の本能が訴えている。
――まだ何かがある。




