第二十一話 祝詞
突然向かってきた巨狼に野次馬の反応は遅れた。下漬の放つおぞましい気配に体がすくんでいた彼らは、巨狼の群れに噛まれ、小枝のようにぞんざいに扱われて戦場に放り投げられる。
宙を舞う野次馬は悲鳴を上げる内に姿が変形し、狼の姿になって地面に着地した。
噛んだ対象を狼に変化させ、群れに組み込む能力。
「あれが神業か。えげつないな」
墨衛門たちが巨狼の群れと戦い始めるのを後方から見つめ、折笠は鍛冶ガかかあに注目する。祝詞を唱えていただけあり、神々しいほどの莫大な妖力を纏っている。
「折笠君、あれを放置しちゃだめだよ。数の優位がひっくり返っちゃう」
「分かってる」
噛んだ対象を狼にする能力は人間相手でなくても発動するだろう。狸妖怪や狐妖怪が噛まれると形勢が一気に傾きかねない。
こんなに早く切り札を出してくるとは思わなかった。悩む時間もない。
折笠は月ノ輪童子に声をかける。
「前線に出る。鍛冶ガかかあを狙い撃ちするぞ。他のみんなは手筈通りに」
「神を斬れる日が来るとは、長生きはするもんじゃな」
けらけら笑いながら、月ノ輪童子は気負った様子もなく刀を抜く。
折笠は唐傘を片手に前線に向けて走り出す。
最前線に出る折笠たちの動きは雷獣に乗って戦場を俯瞰する下漬にも見えているだろう。
何らかの妨害が来ると予想して、折笠は唐傘を開いて空を仰ぎ見た。
下漬と目が合う。雷獣の頭に手を置いた下漬はひらりと金羽矢榛春の隣へ飛び下りながら、戦場一帯に響き渡るように声を上げた。
「祝詞を唱えよ、雷獣」
腹立たしそうに顔を歪めた雷獣が天に吠える。
『――神鳴り、雷轟、衆生を思し召す。国津罪はあらじ』
空が歪む。
一瞬にして雷雲に覆われた空を見上げた野次馬が、ようやく下漬の威圧で竦んだ身体を動かす。
あまりにも明確な命の危機が野次馬たちの体に自由を取り戻した。
だが、すべてが遅い。
戦場はおろか、出雲市全域を覆う雷雲から雷が降り注げば誰一人助からないだろう。それを成せるのが神業だ。
それに気付いた者は自由になった体で逃げ出すこともできず、地面にへたり込んで祈るしかない。
……神に。
しかし、雷が落ちるよりも早く一匹の鬼が戦場を駆け抜けた。
巨狼たちの頭を足場に誰よりも早く、月ノ輪童子は上空の雷獣を地に落とすべく跳躍する。
雷を落とすために身構えていた雷獣の首に白刃が迫る。急襲してきた月ノ輪童子に雷獣の視線が向き、上空の雷雲から幾百条もの雷光が刀を掲げる月ノ輪童子へ殺到した。
『――禍事祓いて、傘下ハレと為せ』
落ち着いて一本芯の通った声が祝詞を紡ぐ。
戦場の最前線、巨狼を率いる鍛冶ガかかあの眼前に到達した折笠は祝詞を紡ぎあげると同時に莫大な神力を解放し、雷雲を払いのけるほどに巨大な唐傘を生じさせた。
放たれていた雷のすべてが虚空で霧散し、黒い雷雲すらも消し飛ばし、青空が広がる。
天変地異そのものの光景に、野次馬たちはもはや言葉もない。
それでも、今こそ逃げる時だと理解はできたらしい。
若い女性が悲鳴を上げて逃げ出したのを皮切りに、野次馬が散っていく。
下漬が名残惜しそうに野次馬を見送る。生き証人がいなければ自分の願いが果たされないと分かっているのか、追撃する様子はない。
折笠は味方を鼓舞した。
「この傘の下にいる限り、仲間へのすべての攻撃を俺が肩代わりする。遠慮なく突撃しろ!」
一気に勢いづいた狸妖怪と狐妖怪が狼の群れやその後方の集団へ仕掛けていく。数が多く、統率も取れた狸妖怪と狐妖怪の動きが大気を動かし、追い風を作り出す。
追い風に乗って、地味な色の小型の蝶が下漬の百鬼夜行へ飛んでいった。黒蝶が後方から放った攪乱用の迷い蝶だ。
折笠の神業に攻撃能力はない。抜群の広範囲防御ではあるが、それだけだ。
しかし、迷い蝶が加わると話は変わる。迷い蝶への攻撃は折笠が肩代わりし応じた分の妖力を失うだけで済む。消し飛ばせない迷い蝶は敵軍深くに浸透して命令系統を混乱させ、妖怪一匹単位で判断を誤らせ、同士討ちを誘う。
集団戦において必勝の戦術のはずだった。
いち早く異常に気付いた墨衛門が配下の狸妖怪のみならず、白狩たち狐妖怪にも注意を飛ばす。
「変化を暴かれている! あいつら、照魔鏡を持ち出してきやがった!」
映したモノの真実を暴く鏡、照魔鏡。
変化を主軸に戦う妖怪たちの変化が暴かれ、解けてしまう。被害はそれだけにとどまらず、組体操のように大掛かりな変化を十数匹で行っていた狸妖怪が変化を突然解かれて事故を起こしていた。
さらに、妖力で作られた仮初の蝶たちまでも霧散する。
雷獣に一太刀を振るった月ノ輪童子が折笠のそばに着地した。
「集団戦で最も警戒すべきは迷い蝶。戦国時代から生きておる下漬が大将を張るなら、対応策があると思ったが、効果覿面じゃな」
「神力で作った唐傘は消されないみたいだから、想定の中ではマシな状況だよ」
決して楽観もできないが、こちらにも策はある。
それより、と折笠は頭上を見上げた。
「雷獣に傷は?」
「手傷は負わせられんかった。じゃが、斬れないわけでもない。尋常でなく硬いが、刀での手ごたえからして木気で間違いなかろう」
五行思想において、雷は木気に相当する。同じ木気の唐傘との相性は互角。だが、降るモノから差し手を守る傘としての性質故か、雷の衝撃は折笠にさほど堪えない。
むしろ金剋木で折笠に相性がいい鍛冶ガかかあの対処が先決だ。
月ノ輪童子も標的を切り替え、鍛冶ガかかあへ切っ先を向ける。
「神性持ちは硬いが、我ほどの妖力があれば攻撃も通る。時間はかかるがな」
「牽制で良い。俺たちはあくまでも陽動だ」
「うむ」




