千秋先生の研究(中編)
千秋先生は私の顔をじっとみて「詩織は、ニャン吉を猫と思ったんだろう?」と小さな声で言った。
「はい」
「なら、猫だ。で、何か違和感があるか?」
「こんな人懐っこい子は初めてというぐらいかな」
「親のルナは人見知りで、ここに出てこないけどな」
「…ニャン吉は前の記憶はあるんですか?」
「以前の大脳がないのだから、記憶はないだろうね」
千秋先生は詩織の顔を見て、「最初の状態は少しショッキングだが、ニャン吉の手術後の映像をみるか?」と言った。
「…はい」
千秋先生はノートPCを操作して映像を流しながら、解説する。
「手術直後で意識のない状態だ。脈拍も正常だ」
「4時間後の映像はこれだ。大脳がないから脳波はないが、量子コンピュータの活動が活発になったことから、意識が戻ったはずだ。このころから手足は痙攣したように動かすようになった。経過観察の機器をセットして我々は引き上げた」
次に映し出された映像は、誰もいない診察台に黒い猫が現れて、ニャン吉をグルーミングし始めた。
「この猫がニャン吉の親のルナだ。我々がいなくなったので、出てきたのだろう。この後、ルナはニャン吉から離れなくなった。アンドレがニャン吉の検査をするのもルナが怒って、猫パンチを出しているだろ」
「3日ぐらい大変だったんですよ。ルナはニャン吉の点滴の管は外しちゃうので、戻すたびに引っ掻かれて、私の手は傷だらけでしたよ…」
「変化がない部分は飛ばすぞ」といい、千秋先生は映像を操作した。
「手足は少し動く程度だったが、3日目には目を開けれるようになると回復?は早かった。少しずつ食べれるようになって、1週間後にはおぼつかないが、歩けるようになった」
映像はどんどん猫っぽい動作をするようになっていくニャン吉の映像が流れた。
「どうだった?」
「元気になってよかったです」
「元気か…」
「ニャン吉は以前のニャン吉じゃないぞ。以前のニャン吉はルナと同じく人見知りだった」
「そうですか…。でも…」
私が言い淀んでいると、千秋先生は少し躊躇い、決意したように言い出した。
「詩織、ニャン吉は生きているか? 死んでいるか?」
大脳がない状態をどう考えるか?ってこと? 生きているか? 死んでいるか? どちらだろう…
私はそばで丸くなって寝息を立てているニャン吉を見ると答えが出た。
「生きています」
「脳は量子コンピュータだぞ。以前の記憶はないし、意識があるかどうかもわからない。魂があるかどうかもわからない」
「意識? 魂?」
「詩織は自分を詩織として認識しているだろ? ニャン吉の心臓は動いているし、猫のような動作もするけど、意識や魂があるのかはわからない」
「ニャン吉は呼べば来るんでしょ?」
「呼べば来る猫もいるが、ニャン吉は前から呼んでも来ない。ルナも来ないしな。 じゃ、別の質問だ」
千秋先生は続けた。
「心不全の患者が心臓を移植したら、その患者は生きているか?」
「生きています」
「じゃ、片方が脳死で、片方は多臓器不全だが脳は保全されているとしよう。多臓器不全の患者の脳を脳死の患者に移植したとするよな? この場合、どちらが生き残ったことになる?」
「うーん。法律?ではどうかわかりませんが、多臓器不全の患者が生き残ったのではないでしょうか? だって記憶があるんだし… 家族はどう思うかわかりませんが…」
「脳が重要という意見だね」
「はい」
「ニャン吉は脳死の患者に新品の脳を入れた状態と言える。この場合、生きているのか?」
「うーん。一度死んで、生まれ変わったということじゃないですか?」
「ルナはそう思ったから育てたのかもしれないね。詩織は新品の脳細胞を想像したんじゃないかい? ニャン吉の脳は量子コンピュータだけど、それでも生まれ変わったと言うか?」
あ、そうか、無意識に脳細胞を想像していた…
「…わかりません。千秋先生はどう思うのですか?」
「わからん」




