07 女王様を追いかけて
――――女に対して『カッコいい』という印象を抱いたのは、その時が初めてだった。
「――――ならぬ。この男は、私のものだ」
高校の体育館の壇上。
俺達みたいな新入生のための部活紹介の時間、その中で演劇部を紹介する時間。
「誰にも、渡さぬ」
彼女が演じていたのは、「雪の女王」だった。
白一色のドレスに身を包み、舞台の上から少女を見下ろす、圧倒的な存在感。
マイクがなくともこんなにはっきりと通る声を、初めて聞いた。
カメラでズームしていなくともハッキリと見える表情を、人生の中で初めて見た。
「そんなに返して欲しければ……私から奪い取ってみせるがいい……!」
なにより、その全身が放つ威圧感。
舞台の天井からパラパラ舞う紙吹雪が本物の吹雪に見える、冷徹で圧倒的な存在。
――――女王。
彼女にはその異名が、誰よりもふさわしいと思った。
『――――以上で、演劇部の実演を終わります! みんな、良かったら演劇部をのぞいてみてねー!』
その明るいアナウンスが耳に届いて、俺はようやくハッとする。
あまりにも見入りすぎて、劇が終わったことにすら気づいていなかったらしい。
舞台の上で優雅に一礼をする彼女を見て、そのカッコ良さに魅せられて、思った。
――――あの人のものになりたい、と。
一目惚れをしたのも、人生で初めてのことだった。
次の日から、早速彼女を追いかけはじめた。具体的には、何学年の誰なのかを、聞き込みに回ったのだ。
他のクラスに行って、手当たり次第に先生や生徒に声をかけまくって、だ。
こんなことを、俺の人生の中で初めてのことで、そんなことができるなんてと俺自身が自分にいちばん驚いている。
恋というものは、人間をつき動かす強い原動力になるものだと、俺は実感した。
一週間ほどで、成果は上がった。
彼女の名前は、氷川 深雪さん。氷のように冷徹な彼女に、こうもふさわしい名前はないだろう。
学年は二年生で、俺からすれば一個上の先輩だ。
演劇部では主演を張ることが多い、エースとでも呼ぶべき存在なのだそうだ。
そこまで分かれば、あとは一直線。
俺は昼休みに、さっそく先輩のクラスに押しかけた。
タイミングが悪かったらしく、氷川先輩は教室にはいなかった。そのため、同じクラスにいる方に言伝を頼んで、屋上に呼び出すことにした。
先輩方しかいない教室で一人待つというのは、そんなに居心地が良いものじゃないからな。
屋上で俺は、期待に胸を膨らませながら先輩を待っていた。
恋と言うのは、するだけで人生を輝かせるという。話としてはよく聞くが、どうやらそれは本当だったらしい。
この一週間、先輩を想って聞き込みを行うのは、それだけで楽しかった。
こうして先輩を想いながら待つ時間すらも、愛おしくて仕方ないのだ。
あぁ、あの氷のような目つきで見下ろされながら、愛の言葉を囁かれたい。
あの舞台の上のように、俺に近づこうとする女子を威圧して跳ね除けてもらいたい。
そんな、自分にとって都合のいい妄想ばかりが頭に浮かぶ。
なんなら、もし仮に断られたとしても、構わないとさえ思えているぐらいの心持ちだった。
自分はあなたのことを愛している、という気持ちさえ伝えられれば、今日のところはそれで充分だった。
逆にもし嫌われたとしても、あの冷たい視線を向けてくれたなら、それで……
そんな妄想に、顔をニヤケさせていた時のことだった。
「あ、あのぉ……」
蚊の鳴くようなか弱い声が、聞こえてきたのは。
ハッとなって辺りを見回してみる。しかし、屋上には俺の他に、誰もいない……?
「こ、こっちです……下……」
下? 言われて、視線を下にやる。
……おかっぱの黒い髪が、視界に飛び込んできた。
「え、えっと、私を呼んだのはあなた、ですか……?」
「え? 氷川先輩のことなら、呼んだけど……」
尋ねながら俺は数歩下がって、相手の姿を確認する。
第一印象は、リスとかハムスターとかそういった小動物だ。
男子の中では平均身長の俺よりもさらに頭一つ分は低い身長に、丸まった小さい背中。分厚い丸眼鏡をかけた顔は化粧っ気がなく、野暮ったい印象を受ける。
胸につけている制服のリボンの色から先輩なのは分かったが、俺にはまるで面識がない人だ。
「君は? 氷川先輩の、妹とか?」
自分で口にして、あまりのあり得なさに吹き出してしまいそうになった。
人ごみの中にいたらまず存在に気がつかないぐらい、彼女は背丈だけではなく存在感そのものが小さい。
舞台の上にいるだけで魅了される圧倒的な存在感を放つ、俺の会いたかった氷川先輩の、真逆のような存在だ。
そんな彼女が妹なんて、全くもってありえないだろう。ましてや、本人なんて……
「あ、あの、私……私が、氷川です……氷川、深雪……」
「……へ?」
おずおずとした様子で、手を挙げる彼女。
彼女のその言葉が信じられなくて、思わず間抜けな声を出してしまった。
「……君が? 氷川深雪さん? 雪の女王をやっていた?」
「は、はい……覚えていただいて、嬉しいです……」
雪の女王の話題を出すと、彼女はぱぁっと笑顔になる。
いや、ちょろいなこの人。ホントに雪の女王なら、褒めても簡単に喜んだりしないで欲しい。
「で、でも、雪の女王は、もう少し背が高かったじゃん。君とは似ても似つかない……」
「あ、あれは、厚底ブーツで盛ってて……ドレスのおかげで、足元隠れてましたし……」
……言われてみれば、派手なドレス着てたな雪の女王。あれは、身長を盛っているのを隠すためだったのか。
「じゃあ……雪の女王は、演技でやってただけ……?」
「は、はい。そう、です……私、演技だけは、得意なので……」
褒められたことを無邪気に喜ぶ、その控えめな笑顔を見て。
俺の頭の中で、『雪の女王』の顔がガラガラと音を立てて崩れていくのを感じていた。
俺が憧れた、近づきたいと思っていた彼女は、この世のどこにも実在しなかったのだ。
皮肉にも、会いたいと思っていた彼女……氷川さん自身が、それを証明してしまった。
告白すらしていないのにフラれたようなショックが、俺の頭を埋め尽くしていく。
……それから俺は、その場を口八丁で何とか誤魔化して。氷川さんには何も自分の気持ちを告げることなくこの屋上を去った。
虚構の中だけにいた、『雪の女王』。
彼女に会うことはもうないのだと言う悲しみで、その晩は枕を濡らした。
俺の初恋は雪の結晶のように、脆く砕け散ったのだ。
……だから、この時は夢にも思わなかったんだ。
この数日後に、『彼女』を再び見ることになるなんて。
「『そんなに返して欲しければ……私から奪い取ってみせるがいい……!』」
地面をビリビリと揺らすような、威圧的な言葉。
もう聞くことはないと思っていた、「雪の女王」の声。
それは、入学してできた友人と遊びに行ったカラオケで、ドリンクバーのお茶を注いでいる時のこと。
忘れもしないその声に、時間でも止まったんじゃないかというぐらいに俺の頭の中はいろんな感情が巡って、フリーズした。
ドリンクバーでお茶を注いでいる時のことだったので、ようやく我にかえった時にはお茶がコップの中でビチャビチャに溢れて冷たかった。
これは、俺が彼女に会いたいあまりに聞こえた、幻聴ではないだろうか。
「『――――ならぬ。この男は、私のものだ』」
いや、幻聴じゃない。今度は間違いなく、聞こえた。気がつけば俺はその声を辿って、あるカラオケボックスの一室の前に辿り着いていた。ガラス張りのその扉は、開けるまでもなく中に誰がいるのかが丸見えだ。
「『誰にも、渡さぬ……』」
そこにいたのは、氷川深雪さん。いや……雪の女王だ。
「『渡さぬ』……んー、ここ、まだ凄みはいらなかったかなぁ……」
その姿は化粧もドレスもない、素の氷川深雪のものだ。
だけれども彼女のその台詞は、間違いなく雪の女王のもので。
「『そんなに返して欲しければ』……ここで、力を込め始めて……」
彼女は台詞の合間に、机の上に広げたノートにしきりに何かをボールペンでガリガリと刻んでいる。
「『私から奪い取ってみせるがいい……!』 ここが、クライマックスになるように……うん! 次は、こうしよう!」
一心不乱に役を演じる彼女は、ガラスの扉の前にずっと佇んでいる俺のことなど、気がつきはしない。
自分の役に入り込み、玉のような汗を額から流しながら芝居を続けるその姿は、舞台の上で見た雪の女王とはかけ離れてはいた。
けれどそれは、小動物みたいな彼女が舞台の上で雪の女王としてあるために、必要な汗なのだろう。
舞台が終わった後ですら汗を流す彼女が、舞台の前にはどれだけの汗を流したのだろうか。
普段は小動物みたいに小さな彼女が女王になるためには、どれだけの努力があったのだろう。
雪の女王は虚構の存在だった。それは間違いないけれど……いや、だからこそ。雪の女王であろうとする彼女の心意気は『本物』だったんだと、彼女の姿を見て思った。
俺が憧れて追いかけた雪の女王は確かに、氷川深雪のことだったのだ。
……まぁ、なんだ。長々と語ってしまったが、率直に言ってしまえば。
「バチクソにカッケェ……」
考えがそのまま漏れてしまうほどに、俺の中には彼女への強い気持ちが蘇っていた。そして、その気持ちとは違う、もう一つの気持ちが芽生えるのを感じた。
だから俺はそっと、部屋に背を向ける。
俺がしたいことはもう、彼女と付き合うことではなかった。
――――彼女のように、俺もなりたい。
俺が彼女と同じようになれるかは、分からない。
だけれども、普段の姿とはかけ離れた「雪の女王」になった彼女を見て。
自分も、自分から遠いものを目指してみたいと、そう思ったんだ。
それからは、早かった。
あの人のいるところに少しでも近づくための行動は、早いにこしたことはないと思ったから。
「――――すいませーん! 演劇部、入部してみたいんですけどー!」
そうして俺は、恋だけが人間をつき動かす原動力ではないのだと、知ることができたのだった。