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紅血鬼  作者: ユン
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プロローグ

俺がこんなに深く、切なく人を愛したのは、この女が初めてだった。

嵐の夜、父に裏切られ、冷酷な宿命に押し潰されそうな俺にとって、お前が差し伸べた手はまるで希望の光だった。

その手に触れる瞬間、初めて人の手が温かいと感じられた。その温もりに包まれた瞬間、心の奥底で何かが芽生え、俺の中に喜びの種が植えられたようだった。

嬉しかった。嬉しくて、感謝の気持ちで満ち溢れ、あの日初めて涙を流した。

愛されることの尊さ、人との繋がりの温かさを知った瞬間だった。

俺はそんな過去の切ない思い出を胸に秘めながら、飢えたように、欲望の渦に巻き込まれていた。

赤く染まる満月が夜空を照らし、山々は静寂に包まれていた。その夜、風は冷たく、木々の葉がざわめき、月明かりに照らされて幻想的な影を落としていた。

山中に響く夜の生息音が、俺の心をさらに狂気の淵へと誘うかのようだった。

欲望の渦は深く、闇の中で踊りながら俺を引き寄せていく。

影が夜の闇に溶け込む中、俺は恍惚とした表情で、女の腕を儀式のように喰らい尽くしていく。

俺の歯が肌を噛み締め、血が滲み出る音が静かに響いていた。

腕肉が口の中で蠢き、まるで禁断の果実のような愛と絶望、快楽と苦痛が入り混じった甘さと苦みを感じた。

俺の舌に鉄のような血の味が広がり、その苦味が俺を現実に引きずり込んでいく。

ふと我に返る。

俺が女を喰うその非常な光景はまるで醜い鬼のようで、風景全体が俺の歪んだ欲望と運命の絡み合いを映し出しているかのようだった。

赤い満月がその冷たい光を差し込む中、その狂気は絶頂を迎えていた。

そして、その瞬間、俺は泣き崩れる。

苦悩に満ちた涙が、夜の静寂に消え入るように滴り落ちた。


「ふざけるな。」


「ふざけるな、ふざけるな、ふざけるな、ふざけるな、ふざけるな、ふざけるな。」


俺は絶望の叫びを零しながら、左腕を地面に何度も叩きつけた。

その荒々しい動作は、腕の骨を折り裂き、血が噴き出す悲壮な光景を山々に映し出していた。腕の感覚が奪われても、怒りの炎が収まる気配などなかった。

叫びは空しさと無念さが入り混じり、夜風がそれを遠くまで運んでいく。

山々はその絶望の叫びに、寂しく応えているかのようだった。

その時、心の中で抑圧されていた俺の感情が爆発した。


俺はこんなことをするために生まれたわけじゃない。

俺はただ、運命の荒波に立ち向かって勝ちたかっただけだ。

自らの意志で生き、自分の心に忠実でいたかっただけだ。

父に裏切られ、政治の舞台に強制的に引きずり込まれ、身に覚えのない罪を背負わされた。

しかし、俺は立ち上がり続けた。理不尽な現実に立ち向かい、自分の信念を貫いてきた。

学び舎と戦場で鍛え抜かれ、文学と剣技の道を極めた。

才能こそ乏しかったが、人並み以上になり得た。

それなのに、それなのに、それなのに。


「こんな結末であってたまるか。」


俺は全力で戦った。努力と忍耐の積み重ねが報われると信じてきた。

だから、


「人並みの幸福を手に入れたって、いいじゃないか・・・・」


絶望がその信念を引き裂く。

善悪の境界線が曖昧になり、報われた筈の努力が、幻想の中で消え去るような気がした。


「ヤマナ・・・ありがとう、君のおかげで私は救われた」


しかし、そんな俺に女は微笑みを浮かべながら俺に声をかけた。

俺に両足と片腕を食いちぎられた状態でありながら、最初に掛けられたのがまさかの感謝の言葉だった。

その微笑みには怒りや悲しみがなく、むしろ喜びと温もりが感じられた。

あの時と同じ温かさが空気中に漂っていた。


「辞めてくれ、どういうつもりだ。なんで、『ありがとう』と言えるんだ。お前との約束も果たせず、挙句の果てには、お前を喰らおうとしているのに・・・」


俺は激しく動揺した。こんな悲惨な状況でなぜ“ありがとう”と言えるのだろうか。

その真相が、女の口から明らかになる。


「私も君と同じで、運命に勝ちたかったんだよ・・・この世界は残酷で、私たちはただ流されるだけだと思っていた。だけど、君は違った。ヤマナは必死に抗い続けた。どんなに絶望的な状況でも・・・何度も何度も立ち上がって見せてくれた。あの約束をした時も、実はすっごく嬉しかったんだ」


初めて、女の心の内を覗くことができた。

今まで表情を出すことのなかった彼女が、その瞬間、自分の感情を打ち明ける姿を見せた。


「すまない、本当にすまない・・・俺が・・もっと・・・」


女の心情に触れ、彼の後悔の気持ちが心から溢れ出てきた。

まるで過去に閉ざされた扉が開き、その中から溢れ出る後悔と未練が、彼の胸を包み込むようだった。

最適解がもっとあったんじゃないか、幸せになる方法が他に合ったんじゃないかという疑問が、彼の内なる混乱を一層深めていた。


「ヤマナに・・・やっと言える。私の宿命を君に託した今なら・・・」


女の重い口が再び開いた。

彼女が最後に残したメッセージは、人生で初めて言われた言葉だった。


「あなたのことを・・・愛してます」


それは儚く、美しい、女の最初で最後の告白だった。


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