1-5
「待ちなさい」
背後から冷たい声が聞こえた。
蒼は恐る恐る振り向くと、身体はそのまま硬直してしまった。まるで金縛りにあったかのように。そう、あの時——クラス替えの日、三年生のいた教室で味わったあの感覚である。蒼の身体を縛っているのは、あの女の眼光だった。
「あなた、この間の二年生よね。どうしてここにいるのかしら」
階段と扉を繋ぐ短い廊下に彼女の声が冷たく響く。
手すりに掴まったままの蒼は、ようやくその手を手すりから離し、動揺をなんとか抑えようと試みる。しかし、肺が驚いた衝撃で縮んでしまったのか、うまく呼吸ができない。蒼はなんとか声を出すための空気を肺に取り込み、そして正直に言った。
「あの……洲崎さん、いますよね……?」
***
「蒼の奴、何しに行ったんだ?」
康介は蒼の後をこっそりつけてきた。親しい友人が急に自分を置いて走り出すなんて納得がいかない。ちょっといたずらしてやろう。などと考えているうちに謎の階段まで辿り着いた。階段の先からは声が聞こえる。それは女性の声だった。
「(まさか、あいつ……俺の知らない間に彼女でも作ったのか⁈)」
しかし、彼女の声は尖っていた。そして冷たかった。康介はその声ですぐに恋人ではないと悟った。彼女じゃなかったら誰だろう。
気になった康介はボロボロの上履きを脱ぎ捨て、一歩一歩音を立てないように階段を下りていく。
明らかに空気が違う。ひんやりとしていて妙に静かだ。同じ建物の中で吹奏楽部が活動しているとは思えない。
「(しかし、こんな場所があったなんてなぁ……)」
…………。
「そこに誰かいるでしょ」
康介は足を止め、息を殺した。まずい、バレた。そして彼女は「はぁ……」とため息を漏らした。
「隠れても無駄よ。こちらからは壁に映ったあなたの影が丸見えなの。『かくれんぼ』はおしまい。あなたのお遊びに付き合っていられないわ」
「あっははっ……バレちゃいましたかぁ」
康介は、わざとらしく照れるような仕草をしながら喜劇役者のような動きで階段を下りてみせた。彼女の視線が痛かったのでやめた。
彼女は一歩前に出て小声で言った。
「いい? この場所のことは誰にも言わないでほしい。いろいろと面倒なことになるの」
「それってこの扉の向こう側でやましいことしてるからスか?」
「してないわよ! あなたみたいなのがいるから面倒なことになるのよ。全く」
彼女はその後、しばらく頭を抱えていた。そして下がりかけたメガネを抑えながら言った。
「あなたたち、どこかしらの部には所属してるかしら」
蒼は康介と顔を見合わせた。蒼が「いえ……特には」と答えると彼女は顔を上げてニヤリとした。
「うちの部に来ない?」
蒼と康介は再び顔を合わせた。康介は一歩退きながら「あははっ、遠慮しておきます」と言う。蒼は康介に自分の背中を掴まれていることに気付いた。声は笑っているが、その握力からは緊張と強い引力が感じられた。
「でも私はあなたたちのことが信用できないわ。特にその……若干背の高い方、あなた口が軽そうね」
「俺、そんな風に見えるか?」
蒼は大きく肯くとシャツを引きちぎらんばかりに思い切り引っ張られた。
「とにかく、あなたたちの口を封じ込めるためにも、あなたたちを部外者にするわけにはいかないの」
蒼は、はみ出したシャツをズボンの中にしまい、そして途方に暮れていると、扉の向こうから「先輩〜大丈夫ですか?」と声が聞こえた。この声は聞き覚えがある。そう、文香の声だ。しかし慣れた環境にいるからであろう、いつもより若干声に張りがあるように感じた。
「後輩に呼ばれたみたい。あなたたちも入りなさいね」
蒼と康介は嫌々ついていくと扉はガチャっと重い音を立てて向こう側から開かれた。
「あれっ……?」