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「このmeansは方法や手段を意味する名詞で……」
今日の朝から隣が気になりだして仕方がない。美しい横顔に見惚れて授業どころではないのだ。そしてほのかに香る彼女の香り。彼の全ての負の感情を癒す効果があるのではないか。なんだか彼にとってはもはや神様のように思われた。堕落した高校生活を送る彼の前に現れた一人の女神。それは彼にとっての一筋の希望……
「はい、では今の説明を踏まえてこの文を訳してください。日・比・谷・くん!」
「ええぁあ⁉︎」
変な声が出た。
「ええと、これは……」
蒼は突然のことにまごつき、狼狽えている。そんな時、文香の机の左端に、蒼が見易いような向きでメモが置かれた。それはこの英文の和訳であった。
「(助かる!)」
彼は心の中でそう言うと、文香のその小さな口許が緩んだ。
このメモのお陰でなんとか乗り切ることができた。蒼は文香の優しさに心を射抜かれてしまったようだ。思わずにんまりとした表情で着席した。
***
「洲崎、さん!」
休み時間。蒼は文香に話しかけた。
「さっきは助かったよ。本当にありがとう」
文香は教科書を鞄にしまおうとする手を止めて言う。
「ううん。もう少し日比谷くんが慌てふためく姿を見ているのもよかったけど、授業の進行が滞ってしまうと思ったから」
「え?」
蒼は耳を疑った。そして目をも疑った。文香は実に自然な表情でその恐ろしい言葉を言い放ったのである。しかし文香の表情はすぐに焦りに変わった。
「あっ、ごめん! わたしったら……じゃなくて、今のはほんと、冗談だから! 気にしないで……!」
「ああ、うん。わかったよ……」
これが文香でなかったら、蒼はその人を疑っていただろう。しかし文香なら何をしてもいい。文香なら許せる。文香がどんなに辛辣で精神に響く事を言おうと、それは文香の癒し効果で中和されるのだ。そう思いたい。
***
金管楽器の音が廊下という管に響く。
「俺らが教室にいる時、吹部が他の教室借りて活動し始めるとなんか気まずくね?」
「そうだな。早く帰ろう」
ホルンの音の中に二人の足音が響く。
「そういえば康介、今日は飴、どうしたんだ?」
「ああ、昼休みに飲み物買いに行ったら、椛島に『飴を舐めながら校舎内をうろうろするな! 危ないだろ』」って言われて、途中の飴も、ポケットの中のまだ舐めてない飴も全部奪われちった」
椛島は体育教師兼生徒指導主任の巨人である。ラグビー部の顧問。口調と声の大きさと巨体の威圧感が物を言い、彼に逆らう者はいない。ただ話が通じないところがあり、いわば典型的な脳筋である(個人の感想です)。
そんな事を話している中、キョロキョロと辺りを見回しながら廊下の角を曲がっていく女子生徒の姿が見えた。蒼は、それが文香であるということがすぐにわかった。
「康介、悪い。先帰っててくれないか?」
「は? なんでだよ」
「ごめんな」
蒼は彼女を追いかけた。自分でもなぜ追いかけているのかわからない。ただ、彼の中の使命感や好奇心がごちゃ混ぜになった感情が、自然と彼女に引き寄せられているような感覚があった。
彼女の足跡を辿ると、そこには地下に繋がる階段があった。既に一年この高校で生活していたが、こんな場所があったなんて初めて知った。しかしその時はただの倉庫や部室があるだろう程度にしか思わなかった。
地下へと繋がる階段を下っていく。薄暗いが、意外と綺麗にしてあるようだ。余所見していると、最後の一段を踏み外した。どさっと音を立てて盛大に尻餅をつくと、思わず声を発してしまった。
「痛ェッ!」
目の前には窓のない扉が一つあるのみだった。扉の向こうから声が聞こえる。その声はだんだん大きくなっているようだ。
「(バレたか……?)」
蒼はそう悟ると、転んだ際に放り出された上履きを持って急いで階段を上ろうとする。しかし、焦りによる震えと腰の激痛により身体が思うように動かない。すると背後で扉の開く音が聞こえた。