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僕の居場所は無くなってしまった。いや、奪われてしまった。いや、最初からそんなものは無かった。いや……。
「いや‼︎」
蒼は大声で叫びながら飛び起きた。
午前五時二十二分。もう少し寝ていたかった。しかし自分の声ですっかり目が覚めてしまった。
ドアをノックする音が聞こえる。
「あにー、どうした?」
眠そうな藍の少しかすれた声が、ドアの向こう側から聞こえる。
「はは……なんでもないよ」
「ふーん、ちょっとびっくりした」
「ごめんごめん……」
朝の鳥が鳴いている。カーテンを開けると、少しずつ明るくなっていく空。「春はあけぼの」とはよく言ったものだな。あれ? あけぼのって太陽が昇ってからか? 昇る前か?
…………。
そんなことを考えているうちに、今朝の悪夢のことなどすっかり忘れてしまった。しかし、蒼の心の片隅には、その悪夢を見せる「何か」が確かに存在している。「あの日の出来事」以来、彼の心の中に棲みついている「何か」が。
***
「あれっ、随分早いじゃないか、お前にしては珍しいな」
康介が、教室の机に座っている蒼に話しかけた。吉。ラッキーアイテムはいちごミルク味の飴。
「ま、まあな。ちょっと早く起きちゃったんだよ。そういうお前も早いじゃないか」
「あ、ああ……。サッキーに会えるかな、みたいな」
「は、はあ? 呆れるよ、全く」
しばらく二人だけの時間が流れた。残念ながら、いい雰囲気になっているわけではないが。
時計が八時を廻ると一人の女子が教室に入ってきた。と思うと、蒼を見るとすぐに教室を出た。教室の戸に貼り付けられた座席表を確認しているようだ。戸に開けられた窓から彼女の顔が覗いている。右手の人差し指で机の数を数えているような動作も見えた。
「日比谷くん……?」
名前を呼ばれた。思い出した。確か彼女は僕の隣に座っていた……。
「そこ、わたしの席なんだけど……空けてくれるかな……?」
日比谷蒼。昨日は教室、今日は席。間違えないと気が済まないようだ。それくらいぼーっと生きているのだ。康介が笑いを堪えている。気付いていたんだったら早く言ってくれよ! 蒼は内心叫んだ。
「あっ……と、ごめん!」
「ううん、大丈夫」
蒼は退くと、彼女が鞄を置いて座った。彼女の香りがふわりと風に乗って蒼の頬を撫でる。撫でられた頬は徐々に紅く染まっていく。席を間違えたから恥ずかしいのか? いや、違う。なぜか緊張する。この感覚は……。
蒼はチラッと彼女の横顔を窺う。透き通るような肌。長い睫毛。澄んだ瞳。ほのかに紅い頬。小さな唇。陽の光にきらめくこげ茶色の髪は短めのポニーテール。サイドに生えた触角はくるくる巻きながら垂れ下がっている。
「ふーん、お似合いじゃん」
康介は指でフレームを作り、蒼と彼女をフレームに収めた。これにはさすがの蒼も頭にきた。
「ちょっ、やめろよ‼︎ 失礼だろ!」
それにしても康介はどんな神経をしているんだ。まだ知り合って間もない他人を巻き込んで……。
「ごめん! 康介がこんなひどいことを!」
読書をしていた彼女は気付かなかったようだ。
「え? ……どうしたの?」
康介は、蒼と彼女の間に割りこんできた。
「な、なんでもないさ! だよな! 蒼。 こっち来い!」
蒼は康介に肩を掴まれ、無理やり教室の外に出された。
「なんだよ、蒼! せっかくあの子が気付いてなかったのに!」
「なんだよってなんだよ!」
二人は戸の前で軽くもみ合いになった。さりげなく見た座席表。彼女の名前は洲崎文香というらしい。