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蒼はしばらく咲と目が合っていた。
蒼はなんだか気恥ずかしくなってきたので目を逸らすと、咲は再び話を始めた。
「(なんだったんだ……?)」
***
「おい、おい! 蒼!」
「うん?」
ついつい考え事をして自分の世界に入り込んでしまった。康介が呼ぶ声が蒼を引き留める。
「おいおい、お前大丈夫か?」
「ああ、つい」
「それで今日、何か悪いこと起きたか?」
「怪しい……」
「は?」
ついつい頭の中のことを口に出してしまった。
英語教師、浅桜咲はどこか怪しい。何かを隠している。
「浅桜、怪しくないか?」
「サッキー? 別に?」
先生のことを「サッキー」だなんて……。
「目が合ったんだよ」
「良かったじゃん」
いや、良くない。これは良くないことなんだ。もし康介が今、メロンソーダ味を舐めていたら、これは良いことだったかもしれない。しかし、彼は今、シソ味を咥えている。シソ味の時は不吉なのだ。模試にも出題されたからこれは自信を持って言える。
「俺もうすっかりサッキーと仲良くなったぜ」
「ええ……相手は教師だぞ……それにサッキーって呼び方やめろよ」
「自分でそう呼べって言ったんだよ」
「はあ?」
益々怪しい。こうやって生徒との距離を縮めることによって怪しいと思われないように、疑われないように仕向けているんだ。僕は信じないからな。
***
「ただいまー」
「おかえり、あにー」
「帰ってたのか、早いな」
「新学期始まって間もないかんね。今日も午前中には帰れたし」
蒼には二つ下の妹がいる。日比谷藍。中学三年生になった。能天気。もとい、楽観的である。
「ところで藍、今年受験生だけど、どこ受けるか決めたのか?」
「えー、考えるのめんどいからまだ。あっ! あにーの行ってるとこにしよっかな」
「なんでだよ……あそこなんか薄暗いし、ボロいぞ」
そう、日比谷蒼が通う県立向宮高校は薄暗くてボロい。日当たりが悪いのか、なぜか薄暗いのだ。建築士の設計ミスだということになっている。本当の理由はわからない。それに空気が悪い。淀んでいるようだと表現するのがいいだろうか。これも建築士の設計ミスということになっている。建築士涙目である。
「えー、でも近いからさ」
「近けりゃいいってもんじゃないぞ。近いと油断して寝坊しやすくなるんだってよ」
「なんだそり。もしそうなったらあにーが起こしてよね」
「ええ、なんで僕が……」
「あにー、私と一緒に学校行ってくれるでしょ?」
「ええ……別にいいけど」
「私の兄として生まれたからにはそこら辺、きちんとしてくれないと!」
「逆だよ! 藍が僕の妹として生まれたんだよ」
「まあ、そうかもね」
問題は妹と一緒に学校へ行くことではない。妹が自分と同じ学校に来ることである。妹が高校三年間、友達を作らず、寡黙キャラでいてくれるならいい。しかし彼女は毎日、じわりじわりとコミュニティの輪を拡げていくだろう。そして言わなくてもいいことを言いふらすのだ。僕が他人に知られたくないようなことも全部! そうして僕のあらぬ噂まで創作、拡散され、遂に僕の高校生活は終焉を迎える。
「そんなことしないってば」
「え、僕の心の中がわかるのか……?」
「全部声に出てたよ……それよりあにー、疑い深くなったよね。やっぱり……?」
日比谷蒼は疑い深い性格である。いや、昔はそうでもなかった。こうなってしまったのも、「あの日の出来事」が深く関わっている。彼が帰宅部に転部したのも「あの日の出来事」の影響である。思い出したくもない……。
「ごめんってば、あにー!」
蒼は何も言わず、その場を後にした。