時計
3,2,1,……
誰かが、時を刻む……
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誰かが、時を刻んだ……
「時間は、誰もが持っている財産だ」
うるさいな、と思う。ほっといてくれ、とも。
時間をどう使おうとも僕の勝手じゃないか。自分の時間だ。
チク、タク、………
時計が、時を刻む……
チク、タク、………
時計は、止まらない……
「ちゃんと時間通りに来なさい!」
ふざけるな、と思う。どうせ時計がないと時間もわからないのだろう?
時計が止まったら君たちも止まるのだろう?
ある日、時計が止まった。動きを止めた。
ひとつ、ふたつの時計ではない。全世界の、である。
そして、全世界が止まった。動きを止めた。
ひとり、ふたりの人間ではない。ひとりを除く全ての人間が、である。
僕がその止まらなかった人間である。
起きて、リビングに行く。朝食を作り、食べる。
外に出る。道路で、自動車が止まっている。道端で、学生が止まっている。
この『止まった世界』になってから2日。僕は外に出るたびにこの光景を見ている。
時間帯はいつも朝である。朝で止まっている。
溜息をひとつ、僕はいつものように言う。
「おはよう、クソッタレの自由な世界」
こうでもしないと発話器官が衰えそうだと思うのだ。
それもそうだ。そもそも話し相手がいないのに喋る気には到底ならない。
「今日も晴れか?相変わらずゴキゲンなこった」
精一杯の憎まれ口を叩く。
誰に向けて?そんなことはどうでもいい。そもそも相手などいない。
独り言にも見えるが、しかしこれはあくまでも呼びかけである。
そもそも、人間は呼びかけの形でしか積極的な声を発することができない生き物である。
とすれば、この憎まれ口はやはり呼びかけであり、その事実がこの行為の虚しさを強調するひとつのファクターであることは否めない。
そんなことは分かっている。むなしい行為だとは思う。
ただ、呼びかけを諦めることは生を諦めることなのではないかとも思う。
だから、僕は世界に話しかける。
これは僕の存在証明なのだろう。
僕は存在証明をしている。
それなら僕は存在しているのだろう。
こうして僕は自分の存在を確かめる。
こうして僕は生きている。
僕の生の実感、命、魂。
それらすべてがこの独り言ともとれる行為ひとつひとつに集約されている。
…………もしも、
もしも今日寝坊していたら?
もしも明日寝坊したら?
もしも風邪をひいたら?
もしも…………、
もしも、自分の存在を確かめられなくなったら?
そのとき、僕の存在は消えてなくなるだろう。
もしも、僕の存在が消えてしまったら?
そのとき、僕は動きを止めるだろう。
手足の動きが、指の動きが、脳の回転が、目のレンズが、
胃が、腸が、肝臓が、心臓が、
止まる。
止まる。
止まる?
ちょうど、時間が止まったように……………?
そして、世界の全てが止まった。